末っ子、爆誕
血の繋がりを重視したことはなかった。
アルバートにとって血の繋がった父母と実弟は自分とは違う世界の生き物で、彼らと自分は明確に別種なのだと確信すらしていたのだ。
ゆえに血の繋がりのない新しく迎えた弟達こそがアルバートにとっての家族で、心を許した唯一安寧を覚える存在だった。
寄り添い信頼に値する家族の条件は、同じ血を分けたかどうかではない。
若くしてそれを確信していたアルバートであったはずなのに、今こうして目の前にいる小さな小さな彼がアルバートと血の繋がった弟として生まれてきたことには、堪らなく精神が揺さぶられた。
「…ウィリアム」
「あら、もう名前を付けたの?ウィリアム?」
「ウィリアム、ウィリアム」
「まぁアルバートったら。後でお父様にその名前で良いか聞いてみましょうね」
「ウィリ、アム…」
生まれたばかりでふにゃふにゃと頼りない命を抱いた母を見舞いに行くと、その腕には目を閉じてはいるけれど整った顔立ちであることが分かる小さな赤ん坊がいた。
薄い金髪と白いけれど血色の良い頬を見て、この子が誰なのかをアルバートは唐突に理解してしまった。
この子はウィリアムで、自分はアルバートだ。
数百年続く名家たるモリアーティ家の子息である。
清潔に整えられた病室を見回す必要もなく、今が最先端の医療を平等に与えられる世界だということは間違いない。
唐突に思い出してしまった、霧の都と呼ばれる19世紀末のロンドンではないのだ。
アルバートはかつて霧の都で大義名分を掲げては身勝手な罪を犯し、生涯をかけて償うために生きていた。
手を取り合った弟達と同志とともに、薄汚れながらもささやかな温もりを分け合いながら生きては死んでいった。
自分がどのように死んだのかはよく思い出せない。
けれど、今目の前にいる小さな赤ん坊が、ウィリアムと呼んでいた己の弟ともう一人の弟がそばにいてくれたことだけは覚えている。
「…ウィル…!」
どうしたのアルバート、と母が自分を宥める声と頬に触れる指先で、アルバートは自分の目から涙を落としていたことに気付く。
つい先程までは少し賢いだけの凡庸な幼児だったアルバートは、生まれたばかりの弟を見た瞬間に自分が何者なのかを理解してしまった。
潤む視界には小さな赤ん坊がいて、彼は間違いなくウィリアムだ。
ウィリアムが今度は本当に自分の弟として、同じ母から血を分けて生まれてきてくれた。
大切な家族にもう一度出会えた奇跡よりも、気にしていなかったはずの血の繋がりを持った弟として彼が自分の元に来てくれたことこそ、他の何よりも嬉しく思う。
血の繋がりなど重視していなかったはずなのに、そんなことよりも魂と理想で繋がる関係こそを尊く思っていたはずなのに、こうして自分に近い血を持つ弟という場所にウィリアムが来てくれたことがどうしようもなく嬉しかった。
「…あいたかった、ウィル」
あぁ本当は、血の繋がりを誰より求めていたのか。
血を分けた真正の兄弟である弟達を羨んでいたのか。
今度は血の繋がった弟として、大切な存在と生きていくことが許されるのだろうか。
そんな奇跡が、本当に、自分なんかに与えられて良いのだろうか。
アルバートは溢れる涙を拭うこともせず、母に抱かれている弟にまだ小さな己の手を寄せていく。
恐る恐るまろい頬に触れてみればその赤ん坊は静かに目を見開き、まだ見えていないだろうに的確にアルバートへと視線を向けている。
目が合うことはないけれど、左右で色合いの違う瞳は想像通りに紅かった。
ウィリアムが生まれたときのアルバートはまだ3歳だった。
現代でも相応に格式高い名家たるモリアーティ家の第二子息の命名は主人である父が担当するはずだったけれど、長子たるアルバートが盛大にゴネてウィリアムと強引に命名したことを差し引けば、何のトラブルもなく順調な生活を送っていたように思う。
記憶を取り戻す前のアルバートでさえ手のかからない賢い幼児だったというのに、かつて生きた人生を思い出してしまったとあればもう子どもらしく過ごすことには抵抗がある。
それでも理路整然にウィリアムと命名すると言えば怪しまれるのだから、アルバートは記憶を取り戻して早々にその記憶を無かったことにして、子ども特有の我慢の効かなさを発揮させてウィリアムの命名権を獲得したのだ。
懇願するだけでなく癇癪を起こしてからの泣き落としまで披露して、父親が名付けようとした名前を拒否してみせた。
あまりの醜態に思い出すと頭痛がするけれど、それでもアルバートはあのときの自分の行動は正しかったのだと確信している。
すくすく成長してようやく喋れるようになったウィリアムが、ついにアルバートのことを兄と呼んでくれたのだから。
「にいしゃん!」
「ウィル…!」
ろくに回らない舌で懸命に自分のことを兄と呼ぶウィリアムを見て、アルバートは感動で思わず小さな体を抱きしめた。
もうすぐ1歳になるウィリアムは母でも父でも乳母でもなく、兄であるアルバートのことを真っ先に呼んでくれたのだ。
発音のしづらさすら関係なく、ウィリアムは真っ直ぐにアルバートを見上げては頬を染めて笑っている。
「あえて、うれしい」
ウィリアムがふんわりと笑う姿に、アルバートはどうしようもない愛おしさで胸がいっぱいになった。
彼は全てを覚えているのだと確信すると同時に、自分に会いたいと思ってくれていたことに心が締め付けられる。
自分のせいで追い詰めてしまった過去を無くすことは出来ないけれど、それでも平和な現代において、今度こそ日の当たる場所をともに生きていけることがとても嬉しい。
「にいしゃん」
「…わたしも、あえてうれしいよ。ウィル」
ウィリアムは小さく頼りない、木の葉のような手をアルバートの顔に持っていく。
そうして初めて見る幼い兄の頬にペチペチと触れて、抱きしめられているアルバートの腕の中を心ゆくまで堪能する。
薄ぼんやりとした記憶はあれど、手も足も思うように動かなければ口もろくに動かせない。
かつてと違わぬ優れた頭脳を持っていたウィリアムだが、赤ん坊ゆえの発達の未熟さでろくにアルバートと意識を交わすことが出来なかったのだ。
ようやく頭脳に体が追いついてきた。
これで思う存分に兄と心を通わせることが出来ると、ウィリアムは全身でアルバートにしがみ付く。
自分の兄となり、背負っていた肩の荷をともに分け合ってくれた人。
彼なら大切な弟を一緒に守ってくれると確信した唯一の人だ。
拭いきれない負い目はあれど、それでもまた出会えたことには歓喜しかない。
過去の罪を精算出来たとは思っていないけれど、いつまでも過去だけを背負っていてはいけないのだということも知っている。
「こんどは、さんにん、いっしょ」
「…そうだね。こんどこそ、さんにんでジェームズ・モリアーティでいよう。ずっと」
「ん」
今ここにいない末の弟を含めて、自分達はようやくひとつになれるのだ。
ウィリアムもアルバートも、僅かな会話の中で互いがかつてと何も変わらない同じ人間だということを確信する。
二人だけでは完成しない兄弟こそが自分達だ。
再会出来たこと、血を分けた兄弟として生まれてきたことには感謝しかない。
きっとこれからの日々はどんなに平凡な日常だとしても、眩しいほどに煌めいて見えるのだろう。
そんな毎日を思うと体が軽くなる心地がして、今なら羽が生えて空も飛べてしまいそうだ。
その一端となるもう一人の弟とはいつ出会えるだろうか。
早く会いたいと、ウィリアムとアルバートは互いに抱きしめ合い嬉しそうに笑っている。
幼い兄がそれ以上に幼い弟を抱いている微笑ましい姿は、両親と使用人の心を癒していた。
「ルイスがうまれない」
「いぜんのとしのさをかんがえると、そろそろうまれていいはずだが…」
ウィリアムは上手く回らない舌を動かしながらアルバートと言葉を交わし、過去の擦り合わせ及び現在の状況について把握していた。
アルバートが記憶を取り戻したのは自分と再会した瞬間だというが、ならばろくに動けもしなかった赤ん坊の頃からウィリアムが膨大な知識及び記憶を保持していたのにも納得がいく。
おそらくウィリアムもアルバートと出会ったあの日に記憶を取り戻したのだろう。
ならばきっと、ルイスも生まれた瞬間から全てを覚えているはずだ。
凄惨な過去など覚えていなくても良いけれど、覚えているのなら同じ感情を共有出来るのだから都合が良い。
いつルイスが生まれてくれるだろうかとそわそわしていたウィリアムだが、アルバートが3歳の頃に自分が生まれたのなら、ルイスはその一年後に生まれてくると予想していた。
アルバートも同様に、ルイスはウィリアムと年子で生まれてくると信じていたのだ。
おそらくは運命の悪戯で以前の年齢差をなぞらえているのだろうと思っていたのに、もうすぐウィリアムが2歳になろうという頃になっても、母からルイスは生まれてこない。
「おかあさんはルイスをみごもっていないのでしょうか…」
「それとなくきいてはいるが、そんなようすはないな」
「そんな…」
ウィリアムもアルバートも、ルイスは血の繋がった弟として生まれてくると確信している。
だからこそ母が身籠るのを心待ちにしているというのに、母はそんな気配もなく使用人とともに今日のおやつを作っていた。
「おとうさんとのなかはわるくないですよね?」
「あぁ、ふうふなかはりょうこうだ。いつルイスがうまれても、きっとふたりはかわいがってくれる」
「じゃあどうしてルイスはうまれてこないのでしょう」
ふくふくした手を握りしめるウィリアムは、隣に座るアルバートの顔を見上げては愛らしい顔に似つかわしくない表情を載せる。
アルバートも幼児らしくない仕草で腕を組み、整った眉を寄せて渋い顔をしては瞳を伏せた。
他人の目がある場面では必死に子どもらしさを取り繕うが、今ここはアルバートの寝室だ。
二人しかいないのだから装う必要もない。
「もしかすると、わたしとウィルのとしのさはぐうぜんなのかもしれない。ルイスはもうすこししてからうまれてくるんじゃないだろうか」
「…そうだといいのですが」
しょんぼりと項垂れるウィリアムの頭を撫でて、アルバートは今ここにいないもう一人の弟の顔を思い出す。
出会った頃には既にもう大人しく、あまり表情を変えることのない子だった。
それでもふとした瞬間に見せる年相応の幼い表情がとても可愛らしい、アルバートを初めて兄にしてくれた大切な存在だ。
再会を夢見るのは当然である。
だがアルバート以上に、ウィリアムこそがルイスの存在を求めていた。
「…ルイス…」
ウィリアムにとってルイスは生きる指標だった。
ルイスのために道を間違ってしまい、ルイスが生きる道を選んだからこそ、ウィリアムは彼に相応しくない己の死を望んでいた。
そんな中でも生きる価値を見出すことが出来たきっかけはかつての友人だが、それでもウィリアムの根幹にあるのは揺るぎなくルイス一人しかいない。
ルイスこそがウィリアムの人生に最も必要な存在なのだから、今こうしてすぐそばにルイスがいないこの状況は耐え難いほどに不安なのだろう。
もう既にこの世界に生きているのかもしれないし、アルバートの言う通りにもう少ししたら生まれてくるのかもしれない。
どこかで生きているという心の拠り所もない現状は、ウィリアムにとって精神が揺さぶられるほど苦痛だった。
「…はやくうまれてきてほしい」
「そうだな…はやくあいたいな」
アルバートとウィリアムが同じ母から生まれた以上、ルイスもきっと同じ母から生まれてくる。
ルイスは絶対に自分達の後を追ってくるはずだと、二人は根拠のない、けれど確かなはずだという自信を胸に顔を上げた。
そうしてまずは自分達に出来ることをすべきだと、ルイスが生まれてくるための計画を練ることにするのだった。
「おかあさん、おとうさん、あしたはけっこんきねんびですよね?ふたりでデートしてきてください。ぼくとにいさんはおるすばんしてます」
「とうさん、かあさん。イブのひはふたりのじかんをたいせつにしてください。ぼくたちのことはきにしないで」
「バレンタインはこいびとのひだから、おかあさんとおとうさんのひです。おでかけしてきてください」
「こどものひはスクールでキャンプのよていです。ウィリアムもつれてきていいといわれたので、いっしょにさんかしてきます。とうさんとかあさんもゆっくりすごしてくださいね」
5歳になったアルバートと2歳になったばかりのウィリアムは、ルイス誕生のためにまずは両親の時間を確保することに専念した。
下世話な話だが、父と母の二人の関係が良くなければルイスは生まれてくるどころか命さえも芽生えない。
そのためには二人の子どもである自分達こそが邪魔だと、ウィリアムとアルバートはイベントごとに両親だけの時間を作るよう促したのだ。
まだまだ幼く母とともにいたがるはずの子どもが、何故だかもう親離れしようとしている。
子どもらしくないその姿に両親は不安を覚え、育児や精神発達に影響があるのだろうかと幾つもの病院とカウンセラーをはしごした。
結果、なんの問題もないどころか非常に手のかからない賢い子だという診断ばかりを得てしまう。
それでも何かあるのではないかと不安そうにする両親の懸念を拭い去るように、ウィリアムは天使のように愛らしい笑みを見せては無邪気に言うのだ。
「おかあさんとおとうさんがなかよくするの、うれしいです」
アルバートが同調するように笑って見せればようやく納得したらしく、父と母は二人に促されるまま夫婦だけの時間を長く持つようになった。
天使のように愛らしいウィリアムの笑みは、ルイスを求めるがゆえ非常に欲に塗れていたと後のアルバートは語る。
以前のように子どもを捨てるような親でもなければ不仲というわけでもない、とても善良で優しい両親には親愛の情を感じていた。
惜しみない愛情を与えてくれる父と母の子どもに生まれてきて良かったと素直に思えるのだから、今世はとても恵まれている。
だから想い合う両親のために二人の時間を作りたい気持ちに嘘はないけれど、ルイスが生まれてくるためにはまずこの二人に仲良くしてもらわなければならないのだ。
そのためなら前世でも与えられることのなかった両親からの愛情などもう十分すぎるほどに貰ったと、ウィリアムは両親ではなくアルバートとともに日々の時間を過ごしていた。
そんな日々を数年繰り返したけれど、未だに母は身籠らない。
決して夫婦仲が悪いわけではないし、「おとうとがほしい」と無邪気を装ってルイスを求めたウィリアムの言葉に「いつか来てくれると良いわね」と笑みを返してくれるのだから、母も第三子を拒否しているわけではないはずだ。
けれどルイスはやってこない。
どうしてだろうと、もしや同じ母から生まれてこないのだろうかと、もう二度と会えないのだろうかと、そんなことばかりが頭の中を占領する。
もしかすると、ルイスは会いたいと思ってくれていないのだろうか。
アルバートとウィリアムは互いに会いたいと望んでいたからこそ再会出来たのであって、ルイスの気持ちは二人に向いていないのかもしれない。
だからルイスと会えていないのかもしれないと、ウィリアムの気持ちは暗く沈んでいく。
「…ルイスは僕に会いたくないのかもしれません」
「ウィル、そんなことはない。ルイスはきっとまた君に会いたいと思っているはずだ」
「でも、もう何年も生まれてきてくれない」
「それは…」
以前生きた人生で、ウィリアムもアルバートもルイスに対して酷いことをした。
あんなにも懸命に尽くして追い縋ってくれていた弟の手を離し、一人きりで何年も放置してしまった。
気持ちの整理が付いていなかった、なんてただの言い訳だ。
ルイスの方こそ気持ちの整理をする暇もなく、ただ一人きりでモリアーティが背負う業に対し真摯に向き合い償いの道を真っ直ぐに歩んでくれていたのに、ウィリアムもアルバートもひたすらに自分のことばかりだったのだから。
一人きりで頑張らせてしまった明確な過去があるのだから、その後にどれだけ言葉を尽くして行動で示したとしても、それが消えることはない。
心を決めて帰ってきたウィリアムとアルバートを穏やかに出迎えてくれたルイスだけれど、本心ではもう嫌気が指していた可能性だってある。
ルイスの厚意に甘えきってしまった自覚は、どちらの兄にも存在した。
「…もしかすると、ルイスは弟として生まれてくるわけじゃないのかもしれない。もうどこかで生きている可能性があります」
「確かにそれは考えられるが…」
「今の年齢なら多少遠出をしても許されます。待っているだけじゃ駄目だ、ルイスを探しに行かなきゃ」
「ウィル」
「もしルイスが僕に会いたくないとしても、僕はルイスを諦められない。ルイスがどう考えていても関係ない、僕がルイスに会いたいんです」
ウィリアムが平和な世界に生まれてもう8年が経ち、アルバートは来年にはプライマリーを卒業する。
母からルイスが生まれるのをただただ待ち続けるよりも行動に起こすべきだ。
血の繋がった弟として生まれてこなくてもルイスはウィリアムの弟で、ルイスがどう考えていようとウィリアムはルイスに会いたかった。
どれだけ考えを改めようとウィリアムはウィリアムでしかないし、結局ルイスの意思よりも自分のエゴを押し通してしまうのだ。
「…ウィリアムらしい。いや、それでこそウィリアムだ。私もルイスに会いたい。協力してルイスを探そう」
「はい」
もしかするとルイスはウィリアムにもアルバートにも会いたくないのかもしれない。
けれど、ウィリアムもアルバートもルイスに会いたくて仕方がない。
たとえ死ぬまで会えないとしても追い求めずにはいられない存在なのだから、必死に藻がいて足掻いて探し続けなければ、自分が納得出来なかった。
「ルイスはきっと同じ世界を生きている。信じよう、ウィリアム」
「はい。絶対に見つけてみせるから…待っていて、ルイス」
酷く落ち込んでいたはずのウィリアムの顔は凛々しく決意に満ちており、それに釣られるようにアルバートもかつてを思わせる不敵な笑みを浮かべた。
ウィリアムはルイスにだけ固執しているし、アルバートも己を兄に押し上げたルイスを必要としている。
敬愛していた兄達に求められているたった一人の弟は、もう逃げられるはずもないだろう。
逃がしはしないと捕食者のような顔をしたウィリアムとアルバートは、今の年齢も所属も分からないルイスを見つけるための計画を練った。
ウィリアムとアルバートがルイスを探し始めて一年ほど経っただろうか。
スクールを休むわけにはいかないため放課後か休日にしか探すことは出来なかったが、可能な限りそれらしい人間の情報を収集していた。
子どもの姿では出来ることに限りがあってもどかしい。
求める情報にも限度があることに思わず舌を打ちたくなったことも一度や二度ではないけれど、それでも二人はルイスを諦めきれずに必死に探し求めていた。
いつかは会える、探してみせる。
そう信じてはともに励まし合う日々を送っていたのだが、その日のウィリアムは朝起きてすぐに浮つく気持ちを自覚した。
求めていた何かを手に入れたような、感じたことのない安堵感が全身に広がっていく。
この世界で生きてからは一度も得たことのない充足感だ。
思わず隣のベッドで眠るアルバートを起こし、見開かれる美しい翡翠色を見て確信した。
「あ、アルバート兄さん…!」
「ん…どうしたんだい、ウィリアム」
朝早くに起こしてしまったというのに少しの嫌悪も見せず、穏やかな顔で起き上がった兄を見る。
寝起きでも整っているその顔を見て言い知れない確信を得たウィリアムは、全身に広がる安堵と充足の理由をもどかしくも伝えるためにその腕を引く。
「ルイスが、ルイスがっ…」
「っ!ルイスがどうしたんだい!?」
「お母さんのところに行きましょう!」
挨拶も交わさずアルバートとともに両親の寝室へと駆けていくウィリアムは、飾りのようなノックをしてすぐさま部屋へと押し入る。
父はしばらく出張のため留守にしているが、母はもう既に身支度を整えている最中だった。
驚く母に構わずウィリアムはアルバートの手を離して彼女へと駆け寄り、薄いその腹に手を添えて泣きそうな顔をしながら母を見上げる。
「ウィリアム、どうしたの?」
「…ルイスが来てくれた」
「え?」
「ルイスだって?まさか、ウィル」
「ルイスが、来てくれた…僕のところに帰ってきた…!」
「…本当かいウィル…ルイス!」
ウィリアムは母の腹に顔を埋め、けれど決して圧迫しないようただ慈しむようにぎゅうと抱きついた。
その様子にアルバートはようやく実感したようで、ウィリアムの背ごと母の腹を抱きしめる。
今ここにはルイスがいる。
ウィリアムは本能でそれを知っている。
ルイスはきちんと自分達の後を追い、ちゃんと帰ってきてくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、この姿になってから初めてと言って良いくらいにウィリアムは大きな声で泣きじゃくる。
アルバートも同じように、今はまだ見ぬルイスを思い胸を温かくさせながら泣き出した。
「ルイス?え、誰のこと?ねぇウィリアム、アルバートってば」
昔から、それこそ生まれたときから心配するほどに手のかからない息子達が突然泣き出したことに母は狼狽えてしまった。
癇癪を起こしたわけではなく、怖い夢を見たわけでも不安なことがあったわけでもないようだ。
おそらくは嬉しさのあまり泣いているのだと母の直感で察しはしたが、大泣きしている息子がひたすらに呼び続ける「ルイス」という名前に覚えがない。
理由を尋ねようにも自分に抱きついているばかりの息子は二人揃って返事をするどころではないようで、ひとまず母は泣き止むように優しくその背を撫でてあげた。
そしてひとしきり泣いてスッキリしたのかと思えば、「もう病院が開いている時間だから行きましょう、お母さん」と周到に時間を逆算したウィリアムに引きずられるようにかかりつけの産婦人科へと足を運ぶ。
執事と息子二人を待合室に待たせ、診察を終えた母は頬に手を当てて息子達が待ち望んでいる言葉を口に乗せた。
「赤ちゃんが来てくれたみたい」
ウィリアムは嬉しそうにそう言った母へともう一度しがみ付き、アルバートはまだ薄いその腹を撫でては愛おしそうに笑みを深める。
おめでとうございます、と執事が涙ぐみながら祝福の言葉を届けるのを耳に入れた二人は、ようやく会えるだろうルイスへの想いを募らせた。
「お母さん、ただいま帰りました」
「あらお帰りなさい、ウィリアム」
「ただいま、ルイス。今日も良い天気だったよ」
母の懐妊を知ったウィリアムは毎日のようにルイスがいるその腹を優しく撫でる。
本当ならずっと付き添っていたいけれど、子どもである以上はスクール通わなければならないのだから面倒だ。
寄り道もせず真っ直ぐに帰ってきては、すぐに母の腹にいるルイスへ今日あったことを丁寧に教えてあげる姿は実に良い兄だった。
「ウィリアムってば、もう名前を付けているの?まだ男の子か女の子かも分からないのに」
「いいえ、この子はルイスです。僕の大切な弟」
「まぁ」
母としてもウィリアムとアルバートが求めていた弟妹を授かることが出来てとても嬉しく思う。
まだ胎動も分からない初期だというのに弟だと確信している息子の様子は実に不思議だ。
けれど妊娠を自覚するよりも先にウィリアムが妊娠に気付いたのだから、きっと腹にいる子は男の子なのだろう。
そしてきっと、この子の名前はルイスになる。
ウィリアムの名付けを長男たるアルバートに奪われた父はそれに渋い顔をするかもしれないが、ここはまた譲ってもらう他ないだろう。
母の腹を慈しむように撫でているウィリアムの手はとても優しく、兄としての貫禄さえ感じられるほどだった。
「ルイス、もうすぐ温室の薔薇が咲くそうだよ。綺麗に咲いたら持ってきてあげるからね」
ウィリアムは母の中にいる子を男の子だと確信し、ルイスという立派な名前を付けている。
特定の誰かを思い浮かべているような様子はとても不思議だけれど、母は恐ろしい気持ちにはならなかった。
昔から達観して子どもらしくない子どもだった息子が、こんなにも無邪気に弟の誕生を待っているのだ。
喜びこそすれ不気味には思わない。
「ただいま帰りました、母さん、ウィリアム」
「お帰りなさい、アルバート」
「兄さん、お帰りなさい」
ウィリアムが腹の中にいるルイスへ話しかけていると、アルバートもスクールを終えて帰ってきた。
既に部屋へ寄ってきたようで、鞄がない代わりにその手には一冊の本がある。
「また読んでくれるの?熱心ね、あなたも」
「早く生まれてほしいですが、まだ生まれてはいけないのでしょう?お腹の中でルイスが退屈にしているといけませんから」
「アルバートもこの子にルイスと名付けるのね」
「えぇ。この子はルイスですよ、母さん」
アルバートはソファに腰掛けていた母の隣に腰を下ろす。
母を挟んだ向こう側にはウィリアムがいて、その手は少しばかり膨らんできた母の腹を撫でていた。
その光景を微笑ましく思いながら、アルバートは持っていた絵本の表紙をルイスへ見せつけるように掲げてみせる。
「ルイス、アルバート兄さんが本を読んでくれるよ」
「今日は昨日読んだ絵本の続きだ」
「ふふ」
左右に息子がおり、腹の中にも息子達曰く「ルイス」という第三子がいるらしい。
母は年齢の割に落ち着きのある声をしたアルバートが絵本を読む音を聞きながら、ウィリアムの小さな手で優しく腹を撫でられる。
こんなにも待ち望まれているルイスはきっと、生まれたらさぞかしこの二人に溺愛されてしまうのだろう。
可愛がりすぎて鬱陶しく思われないと良いのだけれど、と小さく心配を覚えながら、母はルイスという名付けが出来るよう今から父を説得しようと考えるのだった。
「どうしても駄目ですか?ちゃんと静かにしているので…」
「ごめんなさいね、規則なのよ」
「何かあったときにはすぐ退室します。どうか少しだけでもお願いします」
「どうしても駄目なのよ。生まれたらすぐ案内するからここで待っていてね、二人とも」
「「……」」
「ウィリアム、アルバート。お母さん、頑張ってくるからね」
母の腹は随分と大きくなり、外からでも胎動が見て分かるようになった。
健診では多少小柄だが順調に大きくなっていると診断され、ウィリアムとアルバートはその度に大層喜んだものである。
そしていざ予定日が近くなるとスクールを休み、ずっと母に張り付いて陣痛が来るのを待っていた。
全てはルイスが生まれてくる瞬間に立ち会うためである。
だが待ち望んでいた母の陣痛が来てともに病院へと向かったウィリアムとアルバートは、担当の助産師に分娩室から追い出されてしまったのだ。
どうやら子どもは出産に立ち会うことが出来ないらしい。
「…まさかここまで来て立ち会えないとは思いませんでした…」
「子ども扱いされることをこうまで疎ましく思ったことはないな…ルイスの誕生なんて、以前にも見たことがないというのに」
「僕もさすがにそこまでは覚えていません…せっかくの機会なのに」
分娩室前に置かれた可愛らしいピンク色のソファの上、どんよりと暗い顔をした子ども二人が座っている。
大人ならば付き添えたらしいが、生憎と今のアルバートは13歳で、ウィリアムは10歳だ。
成人には程遠いどころか保護者が必要な年齢なのだから、万一の可能性がある分娩に立ち会うには荷が重いと判断されても仕方がない。
だが不幸にも父は出張で立ち会えないというのだから、父の代わりに母を励ます意味でも立ち合わせてくれたって良いのではないか。
二人はそんなことを考えつつ助産師への恨みつらみを心に秘めたまま、母とルイスを思い神妙な顔をしてひたすらに待った。
「…今日、ルイスが生まれるんですね」
「あぁ…長かったな、ウィリアム」
「…はい。絶対に見つけてみせると決めていましたが、また僕の弟として生まれてきてくれるのかと思うと、嬉しいです…嬉しくて仕方がない」
「私もだ。…私も、ウィルとルイスと血の繋がりを持てて嬉しく思う」
他に産婦はいないようで、待合室のソファにはウィリアムとアルバートしかいなかった。
扉一つ隔てた先には母がいて、その腹にはルイスがいるのだ。
こうしてウィリアムとアルバートが再会しただけでも奇跡と言えるのに、ルイスも揃った状態でまた兄弟になれるなんて夢のようだと思う。
恨まれていても疎まれていても絶対にルイスを見つけ出すと息巻いたのに、結局ルイスはこうして二人の弟として生まれてきてくれるのだ。
実際のルイスの真意がどうあれ結果だけを見るならば、兄の気持ちは間違いなく満たされていた。
「早く会いたい。今度こそもう絶対にあの子から離れず、ずっと一緒にいたい」
ぽつりと呟いたウィリアムの言葉にアルバートは何も返さず、けれど静かに瞳を伏せてすぐ近くにいるだろうルイスを想う。
もう一人にはしないし、ルイスだけに頑張らせるようなことはしない。
今度こそ三人で全てを分かち合い、以前は許されなかった明るい道を歩むのだ。
三人ともに、幸せになるため生きていきたい。
何に憚られることもなく互いを大切にして長い人生を生きていきたいと、ウィリアムとアルバートは心からそう思うのだ。
「!」
「この声はっ」
ふぎゃぁ、ほぎゃぁ、あぁぁ、と小さな命から大きな声が聞こえてきた。
慌てて顔を上げて扉を見つめていると、中からは途切れることなく元気な声が響き続けている。
生まれた、と現実を飲み込むため必死に頭を回転させる。
けれど目の前にその子がいない以上は実感が湧かなくて、聞こえてくる声にヤキモキする気持ちを持て余しながら助産師からの指示を待った。
「二人とも、おめでとうございます。元気な弟くんが生まれましたよ」
「あの、中に入っても良いですかっ…?」
「えぇ、どうぞ」
「ルイス!」
ウィリアムとアルバートは助産師の隣を駆け足で横切り、母に抱かれている小さなその子に視線を向ける。
淡いクリーム色のタオルに包まれたその子は、白いだろう肌を真っ赤に染めてふにゃふにゃと口を動かしていた。
泣き疲れて休憩しているのだろうか。
先ほどまで聞こえていた声は聞こえず、むずがるような顔をして目を閉じていた。
愛らしく整っていると容易に分かるその顔は、滑らかな右頬に痣のような色が付いている。
「ルイス。あなたのお兄さん達が来てくれたわよ」
母はウィリアムとアルバートに生まれたばかりの弟を見せるように腕を傾け、出産の疲労を感じさせない綺麗な笑みを浮かべていた。
淡い金髪と右頬の痣と、うっすら透けて見える瞼からは瞳の色が窺い知れる。
「…ルイス…」
「…誕生日おめでとう、ルイス」
腹の中で何度も何度も聞いていたからか、それとも別の理由があるのか。
ウィリアムとアルバートの声があたりに響いた瞬間、ルイスは閉じていた瞳を開けてくれた。
まだ瞼は浮腫んでいるだろうにそれでも大きな瞳は宝石のように透明度が高い赤色で、ウィリアムとアルバートが何度も思い浮かべたルイスだけの瞳の色だ。
ルイスで間違いない。
この子はルイスで、自分達の弟だ。
また弟として生まれてきてくれたと、やっとそう実感したかと思えば、ウィリアムはまたもあの日のように泣きじゃくった。
「ありがとう、ルイス…っ…僕のところに、帰ってきてくれて、ありがとうっ…ルイス…!」
おかえり、ずっと待っていたよ。
ウィリアムがそう言ってルイスの手指を握りしめれば、小さなルイスは「ふ、ぁあぁ」と柔らかく泣いて返事をくれた。
(お母さん、ルイスを抱っこしても良いですか?)
(あら、ウィリアム一人じゃ難しいわ。そうね、アルバートと一緒なら良いわよ)
(ルイスおいで。ほら、ウィリアムも)
(…ルイス…本当にルイスだ…)
(可愛いね。小さいけれど元気いっぱいのようだ)
(生きてる…良かった…ずっと待っていたんだよ、ずっと会いたかった。ルイス、ルイス)
(ルイス、私の弟になってくれてありがとう。また会えて嬉しい)
(だいすきだよ、ルイス。僕が君を守るからね)