花言葉は誠実(上)
桔梗館のとある夜 現行未通過❌
轟轟と舞い上がる炎が漆黒の空に上っていく。
辺りだけまるで昼間のように眩く光り、とっくに寝静まったはずの動植物も鳴いていた。
頬に吹きかかる風は火傷しそうな熱風。
ガラガラとそこらじゅうで不穏な音をさせながら崩れていく豪奢な洋館は、美しいシャンデリアも、高価な蔵書も、夥しいほどの絵画も、不気味な機械も。
全部全部、赤に包まれて脆くも崩れ、煤と返る。
季節外れの噎せ返る熱風を浴び、星すらも瞬かなくなった常闇に包まれ。
女の悲痛な泣き声を聞きながら、男たちは呆然と立ち尽くすしかなかった。
奇妙な館から命辛々免れて暫し、警察の事情聴取や病院での検査など、異様な日々は目まぐるしい早さで過ぎ去り、少しずつ日常が戻ってきた。
朝起きてシャワーを浴び、トレーニングかバイトをして、食事して寝る。
普段通りの生活を取り戻す中で、段々と不可思議な体験の記憶というものは薄まっていくものだ。
それがほんの些細な、ちょっとした不思議であったなら、だが。
「———浅見!!」
真っ白に揺蕩う生温い意識の淵にいたところを、頬を叩く軽微な衝撃と、熱心に名前を呼ぶ声で徐々に引き上げられる。
反射的に瞼を押し上げれば、目の前には心配そうに顔を覗き込むジムの同僚や後輩たち。
更には怒りとも呆れたとも言えない複雑な表情を見せる会長。
一瞬遅れて感じるのは鈍い顎の痛みと、全身の重だるい不快感。
練習中にダメージを食らい意識を失ったのだと気づいたのは、目を開けてからたっぷりと1分は皆の顔を見回してからだ。
「大丈夫ですか?思いっきり顎入りましたよ、珍しい…」
「ダウン前から完全に意識飛んでたぞ、お前」
起き上がろうとついた肘は踏み慣れたマットの上。
そうだ、今は所属する格闘技ジムでの練習の最中であった。
実際の試合で行うラウンドや時間を想定し、実戦を体に馴染ませるためのスパーリング。
最終調整ともいえるこの時期の練習に、意識を飛ばすなどあっていい事ではない。
「試合は来週だぞ!?こんな腑抜けを出せるか!」
会長の怒鳴り声が響いた。
びりびりと鼓膜から脳まで揺さぶられるような声量と怒声、これは仕方がない事だろう。
本番を目前に控え、最も集中していなければならないこの時期に、浅見は見事に集中力を欠いていた。
原因は明らかではあったが、人に言ってどうにかなる問題でもなければ抑々信じてもらえるかどうかも定かでない。
自身でもこの状態はまずい、そう思いながらも抜け出せず。
ふとした瞬間に気が散見し、目の前のことに集中できなくなる。
否、目の前を“正気で”見ることが出来なくなってしまうのだ。
あり得ないと理解していても、よそ事を考えて振り払っても、頭を振って物理的に振り払っても付き纏う。
恐ろしいものの迫る手、が。
「…今日は帰れ。ただし頭を打っているかもしれん、人の居ないところには行くな」
「…分かりました、すみません…」
リングの中で言い訳はできない。
何が起きていたとしても、目の前の相手から目を逸らせば試合も、体も、精神力も終わりだ。
今回は本番ではなかったとはいえ、いざ試合中に同じことがあればすぐさま致命打を食らい昏倒し、負けるだろう。
負けるだけならまだいい。下手を打てば死んでしまう。
そういう競技を、仕事を、しているのだ。
だからこそ会長の怒りは最もで、このまま続けさせるわけにはいかないという判断も当然のものだった。
後輩や同僚たちからは様子の違う浅見を気遣う声も聞こえたが、やはり深く話すことはせず、リングを下りてからもう一度すみませんでした、と小さく口にし、ジムを後にした。
異様な日であったと思う。
その一言で済ませるのも甚だ言葉足らずだが、しっくりくる言葉がそれだった。
恐ろしい、悲しい、様々な感情が入り乱れたその日は確かに異様であったのだ。
茜色の空が物悲しくも美しい秋の日に、迷い込んだのは嫋やかな紫色の桔梗に囲まれた「桔梗館」。
事件に巻き込まれ、燃え盛る屋敷から脱出してすぐ、浅見をはじめ友人ら三人と連れ出したメイドの女、犯人一味の一人である男はまとめて病院、そして警察へとたらい回しにされ、怒涛の非日常を味わった。
幸い怪我は軽い火傷程度―――防衛の為とはいえ思い切り殴る蹴るの暴行を与えた犯人一味の男はそれだけとも言えなかったが―――であった為病院にいた時間は長くなかったが、警察での事情聴取はとても長かった。
急な洋館の大火事による消失、屋敷の主人の死亡と、焼け跡から見つかった異常な数の遺体、不可思議な機械装置の数々…警察とて分からないことだらけだったのだろう。
しかし正直自分たちも分からない事ばかりだった。
自分たちは被害者であったから包み隠さず屋敷で起きたことを話せばいい…とも思ったが、友人らも含めた浅見達四人は示し合わせたわけでもないのに、偶然にも口裏が合ってしまったことがあった。
それは屋敷の主人がこの世のものとは思えぬ冒涜の術で、妄想の姉を造ろうとしていた、その為に何人もの人間を殺したという❝事実❞についてだ。
目の前で見ていた自分たちにとってそれは現実だが、話だけ聞いて信じられるような有体の事件でない事は明白。
奇妙な体験のすべてを話し、その特異性が世間に知られれば…首謀者である主人に育てられたという、メイドの鳴戸帯絵はどうなるだろう。
ひどい仕打ちもあったであろう、だがそれでも帯絵は主人を慕っていた。
そんな彼女にとって、この現実は、その現実を面白可笑しく報じるであろう世間はどれほど残酷で無情であろうか。
十分傷ついた彼女に、これ以上の業を背負わせる必要はない。
皆がそう話し合ったわけではなかったが、その思いが一様に胸にあったらしい。
嘘をついたわけではない、肝心なところを話さなかったのだ、襲われかけて反撃して逃げて、何が何やら分からないうちに火から逃れて今に至る。
いや、話していたとしても警察が信じなかった面もある。
話が虫食い、更に奇妙な体験を語っても確認することも出来ないのだから、辻褄が合わなくなることも勿論なかった。
多少の曖昧な証言は、こんな事件に巻き込まれた精神的ショックと片付けられたのも都合がよかった。
程無くして全員が釈放されて家に帰ることになったが、家族も主も、職場や家も失った帯絵の処遇は迷った。
一人きりで放り出すことも気が引けたし、かといって成人女性である彼女に施設や病院を薦めるのも違うと感じた。
長くない話し合いの末、決めたのは友人らの一人、不動の所へしばらく身を寄せる事。
彼は由緒ある寺の僧侶であるし、立派な両親もあるという、一人暮らしの男の部屋に転がり込むよりも余程安心して良いだろう。
其々の安寧に戻り、少しずつ事件の事は忘れて日常に戻る筈が、浅見は自分でも思った以上の傷を受けていたことをに、ここ数日で気づかされていた。
眠る時、暗い道を通る時、ふと点いていないテレビ画面を見た時…あらゆる瞬間に視えるのだ、屋敷で見た、あの恐ろしい姿が。
どす黒く変色した肌は臭気を纏い、ずるずると引きずるようにその皮膚を垂れ下らせ。
落ち窪んだ眼孔から零れぶら下がる眼球、或いはぐちゃぐちゃに潰れた深淵の顔面。
おおよそ人語とは思えない唸り声をあげ、ただただ命令のままに前進する。
秘術によって無理矢理動かされた死体、ゾンビたちがあの桔梗館には溢れていた。
そんなものに襲われれば気も狂うというもの。
なんとかその瞬間こそ友人らに囲まれ、事なきを得たが段々と日常生活を送る中で、不安定に残っていた恐怖というしこりが育ち。
不意に視界にその姿を現すのだ、幻覚となって。
一度見えてしまえば正気ではいられない。
いくら幻覚だと己で言い聞かせても、眼前に迫るその腐り落ちる腕、獰猛に獲物を食らおうと伸ばされ、変色した爪の脅威は偽物だと思えない。
思い出すだけで恐怖と激しい嫌悪感で息が止まりそうになる。
幻覚が視えた日はどうしても集中力を欠き、視線を一転に集めることも難しく、得も知れぬ不安感に頭を掻きむしって叫びたくなってしまう。
そして自分はこんなにも弱虫だったのかと、悔しく思うのだ。
今日、リングの中で気を失ったのもその所為。
練習中に幻覚がちらつき、打ち合いの最中だというのに目を逸らしてしまった。
結果は当然の事で、相手は同ジムの後輩であったが相当に良いパンチを貰ってしまったらしい。
何をどのように貰ったか、分からないほどにバッサリと意識を刈り取られてしまった。
強烈なあごの痛みで殴られた箇所と、失神したのだろうという事は理解できるが。
ジムを出てふと空を見上げると、まだまだ日が暮れるような時間ではなく、冬に向かって青みを失いつつある空は高く、流れる雲は乾燥してか薄っぺらで白々しい。
日曜だったので道を行く人出は多く、世間は賑やかだ。
まるで自分だけ置いてけぼりにされているような錯覚にすら陥る、そんな代り映えのしない日。
人の居ない場所には行くなという会長の言を守るには自宅に戻るわけにもいかないだろう。
かといってたまの骨休めだと息抜きする気にもならない。
浅見は少々逡巡してからスマホを取り出し、電話帳をスライドさせると、微かに躊躇う指先に力を込めて、一件の電話をかけ、その場をまた歩き出した。
(後編へ)