花言葉は誠実(下)
桔梗館のとある夜 現行未通過❌
ゆっくりと空の色も変わり始めた時刻、少しずつ風も冷たくなってきた。
スニーカーの靴底で砂利を踏みしめ、見えてきた重厚な門をくぐると、目当ての人物は時間を読んで出迎えてくれたのか、すぐそこにその姿がある。
「いらっしゃい、遠くなかったですか」
「不動さん」
その男は上質な黒の法衣をはためかせ、慈愛に満ちた瞳を細めて微笑む。
友人であり、この寺の僧侶である不動だ。
格闘家と僧侶がどこで友となるのかと他人から見れば奇妙な縁であろうが、それもこれも妙に交友関係の広い一人の友人の為…ありがちな、友達の友達だとしか言いようがない。
初めこそ全く生活や思想も違う者同士ぎこちないやり取りもありつつ、今では連絡を取り合い個人的に会うこともある、一般的な友人と言える間柄だった。
彼は年上であることもそうだが、僧侶であるが故なのか話を聞くのが非常に上手い。
他愛ないお喋りも、真摯な話も、どちらも得意とは言えない浅見でも彼の前では自然と口数が増え、いつの間にか相談事まで漏らして、結果スッキリとしてしまう。
彼曰く、答えを与えているのではなく、自ら話したいことをありのまま話しやすいよう、導く会話をしているだけ、とのことだ。
結局解決するなら答えを貰っているのではないか、とか詳しいことは良く分からないのだが話すと肩の力が抜けるのは事実で、今日ここへ来たのも、それを期待してのことだったのだろう。
「顔色があまりよくありませんね。まだ本調子ではないですか?」
彼は日も暮れ始めた寺の中を案内してくれ、長い縁側の中途で足を止めると、其処に座るよう勧めた。
すぐ傍には、既に用意された茶の用意があり、元より話があるのだと気づいて用意していてくれたと分かる。
樫色の木の盆に、落ち着いた黒無地の急須と白い玉湯飲み、盆を同じ樫色の茶卓の素朴さが彼の純朴な優しさをよく表していた。
「そうですね。身体の方はなんともないですけど…」
さらさらと茶葉を急須へ滑らす音と、熱いお湯を注ぐ音。
ふわりと煎茶の爽やかな香りが広がって、自然と口を開きやすくする。
「浅見君は特に前線で戦ってくれましたから、見たくないものも沢山見たでしょう」
「…そう言ってもらうと少しマシですけど、情けないなって思ってますよ」
差し出された茶はまだ熱く、飲むには少し時間を置いた方がよさそうだが、ふわふわと漂う湯気は冷えてきたこの季節にとても心地よい。
ゆるり、立ち上る湯気は暖かな白色、細かい粒子の集合体。
あたりの空気を窺うように立ち、その合間を縫うでもなく、ゆっくりと表面を撫でるように上り、いつの間にか霧散していく。
嫌な記憶など、この湯気のように当たり前の顔をして消えていけばいいのに。
「視えるんです、屋敷で襲われたような化け物が…本当は居ないって分かっている筈なのに、緊張して、目が逸らせなくて……挙句、実際現実で迫っていた危険には気づかず、自分よりも軽量級の相手に一発KOですよ。まじでダサい…」
熱い湯のみを手に取り、まだ舌に乗せるのは熱いだろうと弄んでいるうちチラリと不動を伺えば、依然変わらぬ穏やかな表情。
年上ではあるが、十も離れていないのに、どうして彼はこんなに大人に見えるのだろう。
答えは幾つもありそうだが、どれも真の正解でもない気がする。
素直にここ最近幻覚を見る程精神が追い詰められていること、そしてその所為で私生活でも己にとっては重大な、生きるに格好悪い状態に陥っていることを打ち明ける。
全く囲まれた環境が違うのも話しやすい要因の一つだろうか。
同い年の友人や、学生時代を知っている友人には悔しくて話せなかったかもしれない。
自嘲染みた掠れ声で浅見がそう零すと、不動は少しだけ考えるように目を伏せ、静かに茶を啜ってから顔を外へ向ける。
縁側が面した中庭は立派な松の木や、磨かれた石灯篭、手入れの行き届いた砂利の小径などがあって自然と人の手の調和がとれた雅な佇まいで、心を和ませてくれる。
耳を澄ませば鳥の鳴き声、日暮れに寝床へと帰る雁か鳶か。
「帯絵さんがね、だいぶ暮らしに慣れたようでうちの手伝いをしてくれているんです」
「……は?」
どことはない中庭の騒めきを見ながら、ふと不動が口にしたのは屋敷から救い出した一人のメイドのこと。
確かに様子が気にならないではないが、何故このタイミングでと動揺して思わず素っ頓狂な返事を返してしまった。
「今は本堂の片づけをしてくれています。折角なので声を掛けてあげてください」
「俺の話は?」
悩み事を打ち明けたからと言って、ではこうしろと答えが貰えるわけではないことくらい理解していたが、まさか聞いたか聞いていないか分からないくらい反応されないとは思っていなかった。
態々ここまで来たのに?だとか、もしかして其の程度の事って意味?などと胸を靄付かせるが、本堂はあっちですと言わんばかりに手でどうぞと指示され、妙に圧力のある―――さっきまでは穏やかで優しいと思っていた―――笑顔に気圧されて、浅見は出された茶にも手を付けず、渋々と立ち上がって本堂へとその廊下を行くことになった。
廊下の奥から続く本堂は隔てる扉があるでもなく、歩を進めていけば段々とその様子は視界に入ってくる。
質素でありながらも頑健、まさに質実剛健といった佇まいの仏像が奥に鎮座し、周りを取り囲むように煌びやかな装飾が並ぶ。
両脇を囲む幾分小さめの仏像や、絵画のようなもの、何かの模様が描かれた軸などそれぞれ謂れはあるのだろうが、仏教に明るくない浅見には残念ながら見た目以上の事は理解できない。
本当にこの家お寺なんだなと、実に幼稚な事を考えながら足を踏み入れた。
本堂では、何か法事などの催しでもあったのか椅子が並べられ、微かに線香の匂いも漂っている。
ただ人気はなく、パタパタと軽い足音をさせながら細かな装飾品を片付けている女が一人いるだけだ。
「鳴戸さん」
片付けに動き回っているその女が、件の鳴戸帯絵だと直ぐに分かり、声を掛ける。
不動も彼女を下の名前で呼んでいたし家の者もそう呼んでいたのだろう、聞き慣れない己の呼ばれ方を不思議に思ったのか、小首を傾げながら振り返った彼女はきょとんとしていて、しかし浅見の姿を見るとすぐににこりと花を綻ばせるように笑った。
「浅見さん、こんにちは。お久しぶりです」
幸い顔を忘れられてはいなかったらしい。
声を掛けたのが浅見だと分かると、女はすっかり表情を和らげて片付けの手を止める。
帯絵は柔らかなロングヘアを一つにくくり、屋敷で会った時のような洋装の使用人服ではなく、取り立てて飾り気のない服を着て、シンプルな木綿のエプロンを付けている。
その姿は最早メイドではなく、そのままお手伝いさんといった風体だ。
しかし濃い化粧をしているわけでもなさそうなのにぱっちりとした大きな眼は、小鹿のようで愛らしく、質素な格好をしていても却って愛らしさが際立つような気さえした。
「鳴戸さんは元気そう、だな」
様子が気になっているのは嘘ではないと今しがた思っていたはずなのに、対面しても何か気の利いた言葉が出てくるでもない。
そもそも彼女のような素直でふわふわした…まるで春風に踊るタンポポの綿毛のような少女にはとんと縁がなかった男だ。
乱暴に話したら脅えられるのではないか、寧ろ何もしなくても怖がられるのではと妙に緊張してしまう。
学生時代からどちらかといえば強面の部類だった浅見は周りに屯するのも似たような男か、其れに動じない派手な女性ばかりだった。
連れの男が強く怖ければ怖いだけ箔がつく、そんな面々。
対して帯絵は正反対だ。
今でこそこうして顔を合わせることも出来るが、例えば同じ学校に通う生徒同士だったなら三年間一言も交わすことは無かっただろう。
今そうでないのだから、まったくこの場では些末なことだが。
かくして気の利いたセリフの一つも囁けず、当たり障りなく元気そう等と口にして頬をかくに留まった。
「はい、おかげさまで。…浅見さんはどうですか?不動さんに相談事でも…?」
浅見の緊張にも気づかず、元気そうと言われればそれを体現して更ににっこりと微笑む帯絵。
お決まりの返答といえば「そちらは?」であろうが、彼女から見ても本調子だとは思えなかったのか、初めから気遣うような声音で言葉は続く。
この寺は不動の家であり、不動の友人なのだから彼への用事かという事は容易に推察されるだろうが。
「相談って程でも…まあ…その…」
幻覚が視えて怖い、なんて。
考えてみれば口に出すのはなんと恥ずかしい事だろう。
特に女性にそんな情けない身の上を話すのは気が引ける。
何を応えたものかとしかめた眉を余計に寄せて一つ考えた後、やっと捻りだしたのは全く答えにもなっていない事で。
「鳴戸さんはもう、平気なのか?」
質問に質問を返す。
しかも、元気そうだとほんの一瞬前に自分で言ったくせに、今度はそれを問うようなことを。
言ってから頭が上手く回っていないと自身で気付いて、首を横にし挽回しようと次の句を探すがやはり出てこない。
別に上手い言葉や綺麗なセリフを探しているわけではないのに、己はこんなに口下手だっただろうか。
「平気じゃない時もあります」
と、そんな当惑した浅見の様子に大きな目を丸くし、帯絵はもう一つくすりと笑った。
それから本堂の端と中心で少し距離が開いていたところをとんとん、と小さな足音を立てて浅見のすぐ傍まで来ると、あくまで穏やかに。
否定でも完全な肯定でもない、柔らかな口調で言葉を続ける。
「ご主人様の事はやっぱりショックでした。今でも時々夢に見て飛び起きます」
「そう…か」
眉を下げて少しだけ寂しそうな顔をする帯絵。
当然のことだ、実の親とも思っていた主人を救おうとしたのに救えず、却って身を挺して庇われた。
目の前で炎に飲まれていく姿を、彼女だって見ていたのだ。
悲しくないわけがない、辛くないはずがない。
概要を知らなかったとはいえ、主人の人非ざる所業の片棒を担いだのではと疑心に震えることもあっただろう。
平気なのか、などと。
余りに稚拙で無神経な質問であったと気付き、黙りこくる。
しかし、帯絵の表情は穏やかだ。
寂しそうにうつむいたのはほんの一瞬だけ。
次の瞬間にはまた笑って顔を上げ、何の迷いもなく浅見を見返してくる。
「でも、無かったことにはできないから。前、向かないと」
まるで自分に言い聞かせるように一つ頷き、すっと前を向く。
本堂の中は日暮れの夕陽も傾き、段々と暗くなり始めて灯された雪洞と蝋燭で柔らかな朱色に染まっていた。
すぐ隣に立つ帯絵の視線の先は浅見ではなく、本堂から見える外のようだが、外の何を見ているわけでは無いのだろう。
前を向かないと、その言葉の通り立ち止まって振り返るのではなく、未来を。
この先も続いていく生活を見つめていかねばならない、そう感じているのだと分かった。
「無かったことにはできない、そうだな」
「はい。起きたことは変えられないし、悲しいとか、悔しいとか感じたことも取り返せません。でもそれも含めて今があるんだと思うんです」
「そうか」
言葉はたどたどしく、やはり抽象的で何かの答えを示唆しているわけではない。
前を向いて生きて行こう、なんて陳腐なセリフ詩でも小説でも探せばいくらでも出てきそうなワードではあるが、実際にそれを体現している彼女の言葉はとても心地よく感じた。
「怖い、って思うのは?」
「怖い?」
悲しみや悔しさも感じたまま胸に取っておくという、言葉だけであれば美談だがそれは心の傷とは言えないだろうか。
胸にあることで痛みを覚えやしないだろうか。
こうして現に参ってしまうほど幻覚を視て、己が情けないやら歯がゆいやら実生活に支障をきたしているのも健全だろうか、と。
前を向いている彼女に頷いてもらえればいい。
少しだけ胸が透く、心が軽くなるだろうと期待しての問い掛けだったが彼女が口にするのはやはり答えではなかった。
「浅見さん。私たちがいま立っているところは外陣、仏様がいらっしゃる場所は内陣というそうです」
「ほと、け…仏像がある場所のこと?」
二人が立っている場所、そして本堂の奥で輝く荘厳な仏像たちのひしめくあたりを指し示す帯絵。
「そうです。中の屋根があるところは宮殿といって仏像を納めるところで、それがあるのは須弥山といって仏教の世界観の中で中心にある山のことです。他にもたくさんの装飾がありますが、これをすべて含めて内陣は仏の世界観を表していると言われています」
一つ一つ、分かりやすいように指をさし、身振り手振りも交えて説明する彼女の表情はどこか楽しそうだ。
覚えたての知識を披露する子供のような無邪気さと、持てる知識を話してやらんとするお姉さん気質とでもいうのだろうか、世話焼きな部分も垣間見える。
さりとて、会話の流れとしては訳が分からず浅見は困惑して首を傾げるしかない。
暗く、夜の帳を下ろし始めた寺院は静かで、燈された蝋燭と、わずかばかりの雪洞の明かりがあたりを照らしている。
木目の床はひんやりと秋口の空気に触れて体を冷やすが、優しい表情の仏像に見降ろされているせいだろうか、寒々しくは感じない。
「私、不動さんにここに置いていただくことになったばかりの時、仏様が全て見透かしているような気がして怖かったんです。でも…」
俯き、けれども言葉に合わせて顔を上げた帯絵に、一拍遅れてついて来る結い上げた髪はふわりと舞ってこの寺院と同じ白檀の香りを漂わせる。
「怖いのはしょうがないです!」
「しょうがない…?」
湿っぽい流れをあえて断ち切るように、きっぱりと。
軽く握り拳まで作って言い切ってみせる帯絵。
恐怖を受け入れろなんて高尚な話ではない。
「しょうがない」のだと。
怖いと感じることは当たり前で、仕方ないと。
答えとも言えない、しかしまるっきり質問を無視したわけではない。
絶妙な返答に今度目を丸くしたのは浅見の方。
「ははは、そうか、そうだよな。しょうがないよな…」
「そうです。今まで知らなかったものと対面するのは怖いです。怖いは感情ですから、抱くこと自体はしょうがない事です」
ほんの些細な、言うなれば他人の一言だった。
しかし、この場においてはどこの誰よりも自分を理解し、慰めではなく、叱咤してくれていると感じて、胸がじわじわと温かくなった。
どこか肩の力が抜け、荷物を下したような気分になって自然と笑い声が漏れる。
そうだ、怖い、というのは感情だ。
抱いたからと言って罪でもない。
男だからとか、自分は強いはずなのにとか、そんなものは一切関係ないのだ、だってしょうがないのだから。
急に気が抜けて笑い出した浅見につられ、帯絵も楽しそうにくすくすと笑う。
「しょうがないから、付き合ってやらないとな」
幻覚に脅え、みっともなくも恐怖する己を恥じ、情けないと頭を痛めた日々を馬鹿らしいと気づく。
恐ろしい幻覚を視る、これは事実で直ぐに治るものではない。
だが、それを恐れることを恥じる必要も、早く直さねばと焦る必要もなかったのだ。
子供でも分かる単純明快な答え、怖いものは怖い、これに他ならない。
答えでもないかもしれない。
けれど、何を悩んでいるのかと良い意味で笑われた気がした。
付き合ってやらないと、その言葉に同意するように帯絵も笑顔を見せて頷いた。
彼女も、その何もかも知られているようで怖い、という感情と付き合い、そのなかでも生活を続け、知識を増やして徐々に身体に、心に馴染ませていったのだろう。
その恐怖というものを。
「笑い声が聞こえましたよ、楽しい話が出来ましたか」
二人して笑いあっていると、また軽い足音が近づいて、伸びやかなバリトンが響いた。
振り向くと、ほんの少し前に別れた装いのまま、不動が本堂へと足を踏み入れて二人へと歩み寄ってくる。
ちょうど良いタイミング…というか、もしや声を掛けるタイミングをうかがっていたのかもしれない。
「はい。なんか、おかげで元気が出ました。ありがとう、鳴戸さん」
「はわわ、いえ!私なんかちっとも…!」
浅見に対しては少々お姉さん染みた口ぶりであるのに対し、不動には世話になっているのもあるかちょっと緊張気味のようで慌ててぶんぶんと首を横に振った。
一瞬前までを考えるとギャップの激しさに余計に笑いが込み上げるが、思い返せば彼女は初めて会った時もこんな風に狼狽えていた。
「折角ですから夕飯も召し上がっていきますか?」
「そうです、浅見さん。是非ご一緒に」
「いや…」
気が付けばすっかり黄昏の空は太陽を地平線へと隠し、暗闇の空に細々とした煌めきをちりばめる。
寺院を囲む林も黒く染めざわざわと音を立てるが、不思議と風は穏やかでお喋りをしているような、温かな団欒を思わせる。
それもこれも、此処に来る前には感じなかったこと。
この寺で、本堂で話したたった数十分の会話、それだけが見る世界を変えてくれた。
いや、これも不動に言わせれば元々浅見自身が持っていた答えだったのかもしれない、それを引き出しただけだ、と。
「無性に体動かしたいから、帰って練習します!」
優しい黒の空、ざわめく木々、悠々とした風と見送りの笑顔が二つ。
燈され始めた街の明かりは少しだけ眩しくて、賑やか。
どこもかしこも飽きるほどいつも通り、だけれども。
こんな平和な日常にも、どこかで事件が起きているかもしれない。
恐れ、怯えている人が居るかもしれない。
想像もつかないような残酷な事が起きているかもしれないし、目も眩むほどの宴に羽目を外しているかも。
どれも日常で、隣り合わせにあるものだ。
それは浅見にも、誰にも。
否定する必要はない、打ち勝とうとするものではない。
ただ知っている、それが必要な事なのだ。
少なくとも、今、は。
見上げた空にはぽつぽつと明るい星も瞬き始めていた。
桔梗館のとある夜後日譚
(10500字/前後編合わせ)