ほんの一欠片
それは何の変哲もないある日の事だった。
確かにその日はここ最近の中では一番天気も良く、風も吹いていなかったので気持ちよく過ごせると思ったのは事実だが、それも別に珍しい事ではない。
道路が空いていて、大学まで一回も赤信号に捕まらなかったことも。
いつもは並ばないと買えない構内カフェテリアのコーヒーがすぐに買えたことも、ちょっとしたことではあるが、その程度のこと。
気分よく…顔には全く出ない…須藤数馬は、度重なる小さな幸運を感じながらもいつも通りに慣れた廊下を歩いていた。
「須藤君!」
燦燦と陽の光で照らされた白とガラス張りの廊下で、伸びやかな声が響く。
呼ばれた名前に気付き振り返ると、大きく手を振って駆けてくるのは友人の一人、星野あかり。
まさに今差し込んでいる陽光のように晴れやかな笑顔が愛らしく、明るい瑠璃色の髪が小走りに合わせてふわふわと舞っている。
「星野も次のコマか」
「うんそう!一緒に受けよー」
自然と隣に並んで歩き始めるあかりだが、頭一つ分も離れた身長差の所為でつい見下ろす形になる。
まるで大人と子供のような雰囲気、彼女は気にしていないようだが。
同じ大学に通っているといっても学びたいこと、目指す職業は皆違う。
ましてや同じ授業を取るにしても日程までわざわざ合わせる様なべったりとした関係を望んでもいない数馬は、基本的にはいつも一人で行動していた。
それでもいつの間にか見つけ出してくれ、ごく自然に集ってくれる、友人とは有り難いものだとしみじみ感じた。
というのも、数馬はあまり話すのが得意ではない。
嫌いなわけではないし、声や吃音が気になるといった意味でもない。
ただ所謂世間話という物が自分からはなかなか見つけられないのだ。
振ってくれた会話に返事は出来るし、質問されれば勿論真摯に答える。
冗談という物に関してはあまりうまく拾えた試しがないので、得意ではないどころではなく、不得意なのだろうが。
しかし星野はそれも織り込み済みなのか、はたまた何も考えていないのか定かでないが、途切れることなく様々な話をしてくれる。
今日はいつもより早く起きたから朝ごはんをしっかり食べた話。
電車の中で見た面白い広告の話。
今すれ違った人が持っていたドリンクが気になるという話。
立ち寄ったコンビニでくじが当たった話…。
どれも他愛のない話だが、楽し気に弾む声が心地よい。
「そんなわけで、あげる!」
と、目指していた教室へと到着し、適当に後方の席を陣取ったところで目の前に何かを差し出される。
座ろうと身を屈めたところで急に出されたので、一瞬物が近すぎて焦点が合わなかったがそれも一瞬のこと。
ひとまず腰を落ち着けてから改めて視点を合わせると、それは有名メーカーの新作チョコレートだった。
よく思い返してみれば、先ほどコンビニくじの当たりで欲しいものが買えたからおやつを買い足すことにしたと言っていた気もする。
これもその一つだろうか。
洒落たパッケージのそのチョコレートは、毎年季節限定で発売するチョコレートの新作で、大人が食べる事を想定として苦みとオレンジピールのコントラストを…などと今売り出し中の若手女優が言っているテレビCMを一日一回は見ていたことも同時に思い出した。
「須藤君オレンジ入ったチョコ前に好きって言ってたし、これも気になるって言ってたよね!」
にっこりと満面の笑みで差し出す星野は既にとても満足そうだ。
実は特に好物といったわけでもないのだが、確かに以前オレンジピールのチョコレートを貰った時に美味しいと漏らしたことがあったし、星野を含め友人たちがCMを見て絶対買いだね!などとはしゃいでいる時に相槌で頷いたこともある。
実際はその程度であったが、嬉しそうに差し出してくる姿に微笑ましいものを感じてしまい、しかしそう口に出しては子ども扱いだと怒られそうなので口元を引き結び。
ありがとうと礼を言って受け取ると、彼女は余計に笑顔を綻ばせていた。
講義を終えて時計の針は昼時。
午後からはジムで練習なのだと軽快に走り去っていく星野を見送ると、見計らったようにぐうとか細く腹が鳴いた。
時間に余裕があるとはいえ、まだ当日中に選択しているコマがある数馬はまだ帰るわけにはいかない。
今朝寄り道した構内カフェテリアで昼食を取ることにするかと足を向けた。
相変わらず天気が良く、人気の多い廊下は賑やかで、時間的に皆昼食を考えているようでカフェテリアへの道行きは混雑している。
ランチタイムには正しくドンピシャすぎたかもしれない、もしや席が取れないこともあり得るという懸念が浮かび、悩みながら足を止め。
コンビニで適当に買えばよいか、天気も良いしどこでも座れば食べられるだろう…と、カフェテリアを諦めて大学を出ようと踵を返しかけたところで。
「数馬!ちょうどいい所に来たっちゃ」
またも不意に声をかけられる。
今度呼ばれたのは先ほどの星野に比べれば少し大人びた女の声。
故郷の訛りの所為なのか時折特徴的な語尾が出てしまうので、声だけだったとしても非常に分かりやすい友人、里田亜希。
声がした方を探して辺りを見回すと、陽光の下でも眩しい赤毛と赤いネイルの彼女が傍のテラス席にいる。
「此処の席が空いたの見つけたところだったっちゃ。数馬のも一緒に買って来るから席番してっちゃ」
席へと歩を進ませると、亜希にグイと腕をつかまれて席に座らせられる。
その席は小ぶりな二人席で、テラスではあるが温かい陽光に包まれた其処はとても気持ち良い空間となっていた。
ここ最近メイクや服装の趣味を変えたという彼女は、艶やかに象られた赤い唇を嬉しそうな笑みの形に変え数馬との偶然の出会いを喜んだ。
「いや、二人分になったら重いだろう、俺が買いに…」
「ダメっちゃ!数馬は絶対私の分も払っちゃうっちゃ」
今までの数馬の所業を知っている亜希は、連れなくもふいと顔を背け口を尖らせる。
有り余るほど金があるとか、奉仕精神が並外れてあるとかそういったものではないのだが、どうも数馬は自分よりも他人を優先してしまう癖がある。
過去に幾度も食事の支払いを済ませてしまったり、欲しがっていた物を無言で買ってやったりと善意とも言えない癖のようなもので施してしまったせいで、その面ではひどく警戒されているのが否めない。
食い下がったが、絶対に嫌という彼女に根負けし、自身の分の注文と支払いを任せ席番を全うすることと相成った。
見上げた空は青く澄み渡り、微かに流れる風が木々を揺らす。
近くを行き交う喧騒も穏やかで丁度良い騒がしさ。
いつになく爽やかな昼下がりに、ゆったりとした時間を過ごすというのも今朝の幸運の続きだろうか。
先ほどの講義の時もそうであったが、何も昼食の約束をしていたわけでもない。
更には、カフェテリアへ来ることも毎日ではない、そんな中で偶然出会った友人と、更にそれを違和感なく受け入れてくれる当たり前の日常がやはり心地よかった。
「お待たせっちゃ!」
そこへ二人分のランチプレートを携えた亜希が戻り、ことりとトレーをテーブルに置いた。
木製のテーブルとコントラストの良い、オフホワイトの清潔なトレーの上には、その日のメニューであった食事が並んでいる。
麺料理、サラダ、ドリンク…それと。
「里田、これは?」
指をさした先にはたっぷりと野菜と生ハムが挟まったクロワッサンサンドがあった。
カフェテリアにはランチメニュー以外にもちょっとしたパンやスイーツがあることは知っていたが、基本的にセットには入っていない。
無論注文を頼んだ覚えもない。
疑問符を浮かべながら対面に座る彼女の顔を見遣ると、悪戯が見つかった少女のようにくしゃりと笑ってみせ。
「これ、前なかったちゃろ?美味しそうでつい…でも全部食べたら絶対太る…から、半分こしよっちゃ。私のわがままだからこれは奢り」
「そう、か。里田がそれでいいなら」
頷いて見せると安心したようにまた笑って、二人は食事を始めた。
その食事の間にも中々世間話をできない数馬に変わり、亜紀が最近の出来事を楽しそうに話してくれる。
小さな劇団に入ってアクション女優を目指し頑張っていること。
次の舞台に立つことが決まり、体作りに食事制限をしていること。
新しく買ったネイルの発色が良くて気に入っていること。
友人の一人がまた恋人を乗り換えたらしいということ。
訛りはあるがよどみなく話す涼やかな声は、彼女が目指す女優にピッタリだと思う。
一人で食べる食事も別段悪いものではない。
けれどやはり会話をしながら、人と摂る食事にはまた別の有意義さを感じた。
爽やかな昼下がりに美味しい食事と軽快な会話。
きっと午後の講義も順調に済ませられることだろう。
一日の予定をすべて終え、夕陽に暮れ始めた空を眺めると椋鳥や雀など野鳥たちが寝床に帰る為羽ばたいていくのが見える。
そろそろ自分も帰り支度をせねばと上着を羽織り、鞄を手にした瞬間。
ドンッと、急に背中に衝撃と重みを感じ思わず小さく呻いた。
首だけで振り返って肩越しに状況を確認すると、黒髪をばさりと振り落としたこの世のものとは思えぬ…もとい何がそんなに楽しいのかニコニコと口角を緩ませた友人、葛谷夏彦が其処に居た。
彼も親しくしている友人であるが、悪戯好きで横柄なところがあり、更には女性にだらしがないというところも相まって一部ではちょっと有名人だ。
今もこうして教室に現れただけで、周りに居た何人かの中には頬を染めてちらちらと様子を伺う女子がいたり、関わり合いたくないと目を逸らす男子が居たりと様々。
「葛谷…どうしたんだ」
「お、さっすが数馬!全然動じないじゃん~」
急に飛びついたわりに倒れることも無く振り返ってみせた数馬に、いかにも面白いといった顔でへらりと笑い、その腕をとく。
改めて体ごと振り返ると、そこには先に確認した通り、黒髪に泣きぼくろ、ラフな格好という井出達の夏彦が立っていた。
「なぁ、今日のコマもう終わったんでしょ?じゃあさー、数馬の家行こ、今日泊めてほしくてさ」
「構わないが、何かあったのか?」
「え~?心配してくれるの?やっさしい!ま、いいからいいから。車で来たよね?運転しようか?」
「…いや、俺がしよう」
「おっけ~任せた!」
普段から突拍子もないことを言い出すのは慣れたものだが、今日は宿を探しているという事だったようだ。
彼に家がないわけではないだろうが、先ほども思い起こした通り女遊びもトラブルも激しい彼だ。
きっと何か揉め事を起こして帰りづらい理由でもあるのだろう。
何か危険なことが起こっても数馬なら大丈夫と思われている節もなくはないが、頼られるのに悪い気はしない。
なにより、日中に共に過ごした二人もそうだが、友人の多くない己にこうも構ってくれるのだから少々甘くなるのは仕方がない。
問題ないと宿泊の件を了承すると、背負おうとしてそのままになっていた鞄をやっと肩に掛ける。
冗談めかして運転しようかなどと言われるが、それには苦々しい…というか不便になった思い出があるので首を横にした。
車に乗ってすぐは夏彦もあれこれと話をしていたが、運転するでもなく助手席で暇そうに座っていた彼はいつの間にか居眠りをしていて、車の中にはラジオアナウンサーの明日の天気予報しか流れていない。
外を通り過ぎるバイクの音や、時折吹き付ける風の音はあるものの、ほとんどが静寂だ。
道路も混雑なく順調とくれば、特に慎重になることも無い。
ふと傍らで居眠りする友人を横目に見れば、助手席だというのに器用に大きな体をシートに収め、至極気持ちよさそうに転寝している。
この友人とも付き合いが長くはないとはいえ、自由奔放で悪い噂も飛び交うような彼も、分け隔てなく明るいという一面があることを知っている。
人付き合いやお喋りが得意ではない数馬にとっては貴重な友人だ。
漏れる夏彦の寝息も規則正しく穏やかで、道路も滞りなく順調。
スムーズな道中に、程無くして車はアパートの駐車場に滑り込み、エンジンを切った。
「…葛谷、ついたぞ」
「んぇ…?ふわ~あ、早かったなー…あ、やべ」
「ん?」
家に到着したのだから降りねばならない。
車の中に寝かせたままにしておくわけにはいかないし、自分と体格のそう変わらない男を引きずって部屋まで行くのは無理だ。
助手席で居眠りする夏彦の肩を揺さぶって声を掛けると、よほどしっかり眠り込んでいたのか、大きな口を開けてあくびしながらその目を開けた。
暫し首を回したり目を擦ったりと眠そうにしていたが、意識が覚醒するにつれ眉を顰め、しまいには「やべ」などと口に出すものだから疑問を持たざるを得ない。
何かあったのかと首を傾げるが、夏彦はあーだのいやーだの笑うばかりで要領を得ず、とにかく車を降りて部屋に行こうかと扉を開けたところで。
「あー!!もう車あるじゃん!」
「さては夏彦、失敗したっちゃね!?」
日中に別れたはずの聞き馴染みのある声が二人分響いた。
勿論それはあかりと亜希のもので、大学で見た時と同じ格好であるが、二人とも大きなスーパーの袋をいくつも抱えていた。
「ごめんごめん~寝ちゃった~」
「やっぱり買い出しの方任せるべきだったっちゃね」
「寄り道とかして時間稼いできてねって言ったのに!」
二人は数馬の車を見つけると足早に近づき、各々不満そうに口を開く。
それに対するのは数馬ではない、助手席からのんびりと降りてきた夏彦の方に向けてだ。
「星野、里田…うちで集まる約束でもしていたか?」
「え、えっとそうじゃなかったんだけど…う~…もう!葛谷君のバカ!」
「締まらないっちゃね~…でも、こうなってはしょうがないっちゃ」
「そうそう、もう起きたことは戻せないし、ね!」
一体何のことだか分からない。
だが状況を理解していないのはどうやら数馬一人であるらしい。
他の三人は怒ったり、呆れたり、笑ったりとバラバラだが、しょうがないと零した亜希が何やらごそごそと袋の中に手を入れると、手のひら大のカラフルな紙の筒をそれぞれに渡した。
…その紙筒に見覚えも無くはないが、あれだな、と口にするのは流石に空気を読めていないと数馬でも分かった。
なので一連の流れを黙って見守っていると、ほんの1分も待たずして。
「数馬、お誕生日おめでと~」
「おめでとう!」
「おめでとっちゃ!」
パン パン パン
カラフルな紙筒、クラッカーが小気味のよう破裂音をさせて更に色とりどりの飾り紙をまき散らす。
パーティグッズのコーナーで前面に鎮座されているそれ、クラッカーは同時に…とはいかなかったがそれなりに音を合わせて言葉と同じように祝福の意を示した。
「誕生日…そういえば、そうだったか」
「やっぱり忘れてたんだ~?数馬らしいなあ」
言われてみれば今日だったと納得してひとりでに頷いていると、そんなところが己らしいと笑われてしまう。
どうやら足止めを夏彦に頼み、その間にあかりと亜希で買い出しを行ってからクラッカーを持って家の前で待機、帰ってきたところをサプライズで祝福…という段取りのはずが、夏彦が助手席で寝てしまった為に順番が崩れてしまったようだ。
場が締まらないのも何よりだが、このお騒がせな同性の友人も相変わらずの抜けようと言えるだろう。
しかしふと思い返してみれば生まれてこの方、誕生日をこうして賑やかに過ごしたことなどあっただろうか。
あまり記憶はないが、両親は真っ当とは言えない人間たちであったらしい。
その為というのがすべてではなくとも、どうも自分の事を一番にすることが、甘やかすことが出来ず、深く友人関係を築くことは出来なかったのは自覚している。
今時、自ら交流しようとしない男に態々構ってくれようとする物好きは多くない。
かといって、それを憂いたことはなかったし、直そうとも思わなかった。
それで構わないと思っていた、必要最低限の事だけしていれば生活していくのに不便はなかったし、くだらないことをして楽しむ…そんな時間がなくても、こうして問題なく大学生まで育ってきた、必要なかったのだ。
けれど。
目が合えば自然と笑いかけてくれる友がいる。
何かと気にかけて当たり前のように一緒にいてくれる友がいる。
つまらない奴と決めつけず性懲りなく揶揄ってくれる友がいる。
己を挟んで交わされる笑い声が、こんなにも心地よいと、この年になるまで知らなかった。
見上げた空はもう陽も落ち、紺色の夜の帳と朱色の夕陽が見事なグラデーションを描く。
少しずつ冷えてきた風も一日の終わりを告げている。
だがこの騒がしい笑い声はどうだろう。
一日の終わり?まだまだこれからだろうと言わんばかりに響く賑やかな声は、どうも明日まで開放してくれなさそうだ。
行こう行こうと両手をあかりと亜希に引かれ、いつの間に奪い取ったのか既に部屋の鍵をもった夏彦が大きく手を振っている。
かさかさと音を立てる大きなビニール袋の中には沢山の菓子とつまみ、酒が溢れんばかりに詰まっているらしい。
どうせ散々騒ぎ立てて最後に片付けるのは己なのだろう?
そう思っても、胸の中でうずく暖かな気持ちに、嘘はなかった。
「あれ~?数馬いま笑ったっちゃ?」
「笑ってた!やったー、レア!」
「えぇ、うっそ俺見てないよ!?数馬~もっかい笑ってよ~」
「…レアなつもりはないのだが」
気づかぬうちに上がっていたらしい口角を、下げようにも両手とも掴まれていて無理に戻す手立てはない。
元より敢えて笑わないようにしているわけではないのだが、そう囃し立てられると何やら気恥ずかしくて一層に頬が緩んだ。
くすぐったいような、落ち着かないような疼き、下がる目じりは彼らにしか与えられないもの。
大切な宝物。
自分らしくないと思いながらも、願わずにはいられない。
この楽しい三人が、優しい三人が。
いつまでも楽しく過ごせますように。
出来ればその片隅にでも、自分の姿があれば…と。
Happy Birth day Saku!
(7025字)
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