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Things

とあるなんでもない一日

2022.03.07 03:43

―――ピピピピピピ…


ともすれば喧しいアラーム音。

今朝だけで通算4回目となったその音、正確には一度のアラームでは足りないと判断した昨夜の誰かさんか、もしくは必要だろうと先読みしたスマートフォン開発者の功労か…スヌーズ音が響き渡る。


「………うぅ…」


いつまでも優しく包み込んでくれそうな真白の羽毛布団から漏れるうめき声、アラームを設定した男その人である。

男はいかにも気だるげに、のろのろと腕を伸ばすと何とか指先に触れるスマートフォンを手繰り寄せ、停止のボタンを押す。

それと同時に緩慢に起きあがった上半身から羽毛布団が滑り落ち、乱れる髪と共にその姿が朝陽の差し込むカーテンからの漏れ日に浮かんだ。


髪は布団に弄られてもすぐにストンとストレートに戻るほどの柔らかい黒髪、多くはないが長い睫がくっきりと目を縁どった彼、紫藤叶雨は、端正とも言える顔を眠気からくしゃくしゃにしてやっと目を覚ました。


朝にはどうにも弱い。

学生の頃は登校の為に口煩く叩き起こしてくる母や姉を疎み、早く大人になって自由に暮らしたいと願っていたが、なってみれば余程大人の方が早起きしなければ生活していけないと気づいた。

ならばもう少し学生時代に朝寝させてくれても良かったではないかと今更恨みがましくいったところで、家族どころか友人や同僚にも今更と笑われる事だろう。


まくり上げた布団も直さず、カーテンを開けると空は爽やかな快晴で、近くに見える街路樹も堂々としていることから風もない穏やかな日なのだろうと予想がつく。

しかしこの晴れ渡る朝に感動する余裕など今は皆無で、余りに重たい体を引きずって行くので精いっぱいだ。

キッチンでコーヒーメーカーのスイッチを入れる、わざと冷たいままの水で顔を洗って歯を磨き、適当な服に着替える。

ここまできてやっとしっかりと目が覚め、暖かそうだから上着は薄手でいいな、などと理性的なことが考えられるようになった。


食パンを2枚トースターにセットしてから冷蔵庫を開ける。

それぞれカットしておいた野菜をいくつか取り出してまとめて耐熱ボウルに放り込むと、ラップをかけて温野菜モードでオン。

その間に一緒に取り出した卵を2つと豆乳、ハーブ入りのウインナーとドライトマトを適当に千切って混ぜ、フライパンでふんわりと焼き上げる。

そうする内にトースターもレンジも動作を終えており、香ばしい匂いが漂った。

楕円のプレートにそれらすべてをのせ、トーストにはバターをひとかけずつ、野菜にはオリーブオイルと粗塩をかけ、ハーブオムレツとトーストの朝食セットの出来上がりだ。


以前余りの眠気にしばらく朝食をとるのを辞めその分寝るようにしてみたのだが、昼食までの間強烈な空腹に集中力が無くなったり、結局コンビニで菓子ばかり買ってしまったりと非常に効率が悪かった為、どれだけ眠かろうとも朝食は摂る事にした。

幸い、料理の手際は良く然したる手間をとるでもない。

ものの10分程度ですべて平らげると、誰に見せるでもなく手を合わせごちそうさまと心の中であいさつし、席を立つ。

一人分の食器は少なく、洗う時間も短い為あっという間に片付けは終わりだ。


程なくして上着を羽織り、昨夜用意したいつものドラムバッグを背負ってスニーカーに足を突っ込んだ。

これまた誰に言うでもなく、行ってきます、と扉を閉めて施錠。鞄のポケットに鍵をねじ込む。

今朝も遅れず、予定の電車に乗れそうだ。



満員電車に揺られ職場の最寄り駅につくと同僚の男性とたまたま居合わせ、共に出勤と相成った。

彼は明るく趣味の筋トレの話や、最近彼女と揉めた話をし、叶雨もそれなりに相槌を打ちながら徒歩10分程度の職場に到着する。

其処はジムやダンススタジオなど複数のスポーツ設備が点在する、複合施設だ。

叶雨はこの中のスイミングスクールに勤めるインストラクターである。

同僚や先輩方に挨拶をし、その日のスケジュールを確認しながら更衣室に入る。

午前中のプール監視、それから親子スイミング教室…別段変わったことは無い。

ただ必ずではないのだが、この親子スイミング教室が苦難の時間になる事があることを、己だけが知っていた。

更にその予想は大当たりで、叶雨は子供向けに浮かべた笑顔を引きつらせることとなる。

親子スイミング教室といえば、まだ幼い子供に親が付き添って水に慣れさせる、水泳まではいかなくとも水遊びが出来るようにさせる、そういったプログラムである。

当然不慣れな幼い子供たちが集まる為、その親とのコミュニケーションをうまく取ることが大切だ。


そしてその年代、幼い子供を持つ母親たちはさして年齢も変わらないくらいで、若い。

いや、実際の年齢でなくとも子供と積極的に向き合える程度の行動力があって、活発だ、つまり。

色目を使われることがある、のだ。

物心ついたころからそれなりに整った容姿だと言われ、まあそうなのかもしれないと安易に受け入れてきた。

不便があるわけではなかったはずだが、若気の至りというか…その所為で良く無い目にも遭い、すっかりと女性に関して食あたり気味なになってしまったのである。

加えて先に述べた通り活発な若い女性が集まる親子スイミング教室。

連れ合いと上手く行っていないのか、元来奔放な性質なのかは不明だが、やれ休日にプライベートでだの、ランチを一緒にだのと声を掛けられることが多々あった。

それでもやんわり断れば引き下がってくれるのだから、彼女たちも少々羽を伸ばしたいという、それだけなのだろうけども。

その時はいつも通り断るだけだと腹を決め、いつも通りの水着、ゴーグルを身に着けてプールへ足を踏み入れれば、独特のこもる音と塩素の香りにカチリ、とお仕事スイッチが入った。



もうすぐ日が傾き始めるだろう、日差しが緩やかになって着た頃合いに職場を出る。

乾かしてすぐの髪も肌が風を受けて心地よい。

この日の仕事を終えたわけだが、この気持ちよさに散歩などしている場合でもなく、まだ帰路に着くわけでもなかった。

叶雨は今度は徒歩のまま20分程度行き、とある校門の前で立ち止まる。

其処は県内でもそこそこの成績を持つ水泳部を擁した高校で、授業が終わる時間から水泳部の監督を担っているのだ。


校内の騒めき具合に時間も丁度良いようだと一人頷くと、真っ直ぐと屋内プールを目指し、日に二回目の更衣室で水着に着替える。

監督自ら生徒と泳ぐことはおそらくほぼ無いのだろうが、自身はずっと水泳をやっていたと言っても指導者としてはまだ未熟な叶雨だったので、口で説明するより見せた方が…という場面は往々にしてあり、念の為指導の度に着替えるのが定着した。

おかげで顧問の教師には、一瞬生徒と見分けがつかないと笑われる始末だが、指導の要領が掴めるまではこのままだろう。

…慣れてもこのスタイルのような気もするが。



水泳部の活動を終えると、辺りはもうすっかり夜だ。

大会に向けて活気づく生徒たちを見ていると、己も元気を分けてもらったような気になり、労働の疲れも吹き飛ぶ…のだが、それはあくまで精神面での話。

水泳は大変に体力を消耗する。

まだ体力的に充実した二十代である為朝から晩まで水泳に向き合っていられるが、あと十年もすればどうだろう、そうくたびれた体に問いかけて一人苦笑した。

さて夕飯はどうしよう、明日は休日なのでスーパーでいろいろと買い出ししておくのも良いかと駅まで歩く最中、着信に気づく。


スマホの画面を確認してみると、十年来の―――訳あって当人は忘れているが―――友人からで、何の変哲もない飲みの誘いである。


変哲もない、というのも実はおかしな話なのだが。

何故なら、叶雨は彼に惚れているのである。

しかも隠すでもない、君が好きだと何度となく口にしている。

…かといって、いずれの場合も返事を求めなかったのは紛れもない叶雨自身であるが、それで態度を変えず友達付き合いを続ける相手の方もどこかネジが飛んでいるのかもしれない。


それはそれとして、休前日に飲みの誘いとは良いタイミングだ。

了承の返事をし、今度こそ喜びに疲れも吹っ飛んだ軽い足を進め、待ち合わせ場所へと急ぐ。



街には同じように店を探す会社員や、大学生たちが溢れる時間になっていた。

駅近くの店を2件はしごし、店を出ればすっかり夜も更けてひんやりとした風が吹く。

アルコールに火照った体には丁度良いくらいか、寒さは感じなかった。

速足で歩けば終電には間に合うであろうといった時間だが、友人は帰るのが面倒になったといつも通りに笑ってみせる。

すぐに絆されて、じゃあ泊まっていきなよと叶雨が言うのを知っていて、こちらの最寄り駅付近で飲むのだ。

駅前に店が多いエリアだというのもそもそもあるが。


帰りにコンビニで歯ブラシとビールを買い、籠の中にパンツを放り込んだのを見て「風呂まで借りるつもりか」と聞くと「沸かしてくれんでしょ?」と当然のように彼は笑った。

自分だって酔っ払いなのに、その明るい、悪戯少年のような笑顔にひどく弱くて、思わず了承してしまう、これもいつものこと。


「君に惚れてる男の部屋で風呂に入るなんていい度胸だね」と揶揄ってみせるが、酔っ払いの戯言かこれまた笑って流されるだけである。

この肩透かしの関係が、何故だか居心地よい。

傍に居られるだけで、なんて献身的な想いでもない、今はただこの距離間でも十分というだけで。

いつかこの距離間では足りなくなることもあるのかもしれないけれど、考えても仕方のないこと。

今、これでいいと思えるのならいいのだろう。

歩き慣れた自宅までの道を、愛しく、親しい友人と歩く。

ぽつりぽつりと灯る街頭は味気なく、時折の風に揺れる街路樹もなにも語り掛けてくるでもない。


今日も一日、なんてことはない日だった。

なんてことのない、大切な一日だった。

歩くスニーカーは足取り軽く、一日の充足感に満ちていた。


帰宅後風呂に入り、結局買ってきたビールで飲み直して、なんとかベッドまでたどり着いて寝たものの、酷い二日酔いになったのも…それは、それで。



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2021.02.13