Pilsner
照明が落とされ、申し訳程度に足元が照らされた暗闇の部屋。
行き交う人は多くなく、ただ無人ではなく。
ごく僅かな観覧客が足を止め溜息をつき、あるいは特段感想もないという風にふいと興味を失って去っていく。
部屋の中央には豪奢に飾り付けられた鬼百合が禍々しく其の花弁を垂れ、其の色に統一されたネオンライトが照らし出した不可思議な形の水槽には、ふわりふわりと優雅に尾を靡かせた金魚たちが泳いでいる。
スポットライトを浴びる主役の金魚たちは、自分たちが一体どのように見えているかなど検討もつかないのだろうけれど。
其のような部屋がいくつか連なる此処、商業ビルの中途階に設けられたアートアクアリウムは現在プレオープンの期間であった。
実際のオープンの日には盛大なセレモニーが開かれて、華々しく客を迎え入れるようだが、試験的なオープンである今日はごく一部の関係者、またその伝手で訪れる雑誌編集やデザイナーなど限られた人数である為大変に静かだ。
静まり返った会場では、BGMで流れる神秘的なクラシックの音楽ばかりが耳につく。
平日に設けられた試験開場は時間も通常とは異なり、夕方から夜にかけてであったことも静けさと人の少ない要因かもしれない。
そんな幻想的でありながらも少し寂しいアクアリウムを眺め、件のようにデザイナーとしての付き合いで握らされたプレオープンチケットをポケットにしまいながら、南雲は体ごと振り返る。
「なんだか凄く場違いですね。」
男女のデートにこそ似合いそうな暗さと美しさを備えた其処に、ぱたん、とスニーカーの足音が響く。
南雲は染色した金髪をカチューシャで軽くまとめ、ラフなTシャツに大きめのスニーカーと鞄を持ったいつも通りのスタイルであり。
振り返った先、くるりと会場を見渡した黒髪の男は細い銀のフレームのメガネを少しだけ指の背で押し上げ、小首を傾げた。
「お前が連れてきたんだろう?」
「ちゃんと説明しましたよ。長尾さんが嫌なら別にいいですよ、とも言ったし。」
綺羅びやかなネオンに照らされた水槽の前まで足を進め、其のアート解説に目を通す前に今度は首だけで振り返れば、長尾と呼ばれた男は南雲に数歩遅れてではあるものの、しかと其の道順をなぞって水槽の前で足を止める。
デザイナーの美的感覚養いという名目を持つ南雲と違い、医師であるらしい―――はっきりと聞いたことはない―――長尾に興味があるものではないだろう。
無論アートや金魚が趣味として好きだというのなら話は別だが、其のような話も聞いていない。
ただ、なんとなく約束もなく決まった店にふらりと赴いて偶々会えば、一緒に酒のグラスを交わして、店の前で別れる。
其のような逢瀬を暫し重ね、偶には酒を飲む以外の約束でも取り付けてみようかとほろよい加減に話が出たので、これまた偶然手にしたばかりのプレオープンチケットが同行者1名可能と書いてあるといって誘ったのが始まりだ。
アートアクアリウムというものすら知らなかったらしい長尾の不審そうな眉間のシワは、酔っぱらいにはそれだけで面白おかしいものではあったが、まあいいか、と許諾したのでもっと笑ってしまった。
そうして約束した当日、今日となって神秘的で美しい、非常にムード溢れる空間を互いの名前くらいしか知らない男二人で周ることになったのだ。
「まあ…全く詳しくはないが、誰かが心血注いだモンを興味ねぇからつまらないとは思わねーよ。」
遅れてきていないことを確認してすぐに目の前の水槽が奏でるアートと、その解説に目を落としていた南雲の背後で、ふと長尾が口を開く。
場違いと言われたことへの反論だろうか、似合わないが嫌いではない、そう言っているのだろう。
「意外と真面目ですよね、長尾さん」
わざわざ言い訳してきたことが何やら可笑しくて小さく吹き出すと、長尾はまた小首を傾げ、昔からずっと真面目だよと揶揄して笑った。
「確かに真面目に勉強しないとお医者さん、やれないですよね」
ふわり、ふわりと絹のように揺れる尾ひれを嫋やかに靡かせ、目の前の水槽をゆく金魚に視線は置いたまま。
この水槽では和の世界観、とりわけ華やかな花魁道中をイメージしているらしく、簪や手鏡といった女性らしいモチーフの飾りと、淫靡な紫色とピンクに照らされたネオン、クラシカルな金魚鉢の形でありながら豪快に上部を牡丹の花で飾り付けた様相が圧倒的で目と感想を奪われる。
視線はしっかり水槽と金魚に、思考はどこか靄がかるように曖昧に、受け取った彼の言葉の揶揄を理解しながら、当たり障りなく返答する。
そんな時。
「…お前も医療系の大学だったって言ってたな…聞いたことあるか?」
と、ぽつりと紡ぎ出されたのはある一人の男の名前だ。
ライティングで飽きずにいつまでも違った顔を見せる金魚に気を持っていかれすぎて聞き逃しそうな名前だった。
しかし、それでもしかと耳に届いた名前、靄がかった思考の先にそういえば聞いたことがある、程度の乱雑さで置かれた其の記憶。
確か20年以上前に日本中のニュース、ひいては医療業界を震撼させたとてつもない医療事故の加害者医師の名前だったはずだ。
まだ小学生で世間のことやニュースになどさしたる興味もなかった南雲ではあるが、現役医師であった父親が非常に話を重く見て家族にも話していたことと、連日ニュースで流れる其の名前は自然と脳にこびりつき、記憶として残っていた。
とはいえ反発して医療の道に進まなかった時点で最早関係のない過去の、他愛もない事件の一つであり、わざわざ思い起こすほどのものではない、そんな印象だったが。
「それ、俺の親父なんだ」
えっ、と聞こえてきた次を紡ぐ言葉に一瞬理解が追いつかなくなり、意味のない声が漏れる。
変わらず金魚を眺めていた南雲は慌てて振り返るが、言葉を発した本人である長尾は背後を通ってさっさと次の部屋へと足を進めてしまい、一体どんな表情で今の言葉を発したのかも見えない。
彼の言葉が本当なら、昔から真面目…というのは、親も医者だったからであろう。
だが其の意味だけで終わることの出来ない言葉だ。
ニュースに取り上げられるほどの医療事故を起こした加害者医師と其の家族、彼らがその後一体どんな人生を歩んできたかなど想像に難くない。
先に行ってしまった長尾を追って足早に次のエリアへ入ると、そこは壁に埋め込むタイプの他の部屋に比べると大きな水槽があり、照明も綺羅びやかと言うよりは白と青に統一されたトラディショナルな空間だった。
緻密な彫刻で額縁のように飾られた水槽の縁のおかげで、照らし出された金魚たちが一枚の絵画のように見える。
それを見上げる長尾は照明のせいで顔色も青白く見え、少しだけ胸がざわついた。
「…どうして、俺に教えてくれたんですか?」
名前とおそらく…という曖昧な職業くらいしか、互いのことを知らない二人だ。
関係性が何かと言われれば答えようもない、敢えて名付けても飲み友達、程度のものだろうか。
そんな二人であったのに不意に家族の話を、それだけではない。
普通であればなかったことにしてしまいたい、隠していたいだろう問題までまるごと口にされて、戸惑わないわけがなかった。
たとえば酒に酔った時、無性に話をしたくなったり悩みを打ち明けたくなる時もある。
信頼できる相手を得た時もそうかも知れない。
けれど話は唐突に、前触れ無く。
理解の聡い南雲には、言葉通りの意味はすぐに飲み込めたが、なぜそれを今このタイミングで、自分相手に話したのか分からない。
どうして、と率直に尋ねながら水槽を見上げる長尾の隣に並ぶと、彼の口元が呼吸を漏らすようにちいさく緩んで、笑みの形を作り。
「さあ?なんでだろうな。」
ゆっくりと瞼を下ろし、一言だけそう零した。
質問への答えでは決して無い、だがのらりくらりとした返答は普段の長尾らしいもので、どこか安堵して知らぬうちに詰めていた息を吐き出し、嘆息した。
目の前の男は青白い光に照らされ、その眼鏡にちらちらと金魚の優美な尾ひれが映る。
誰が言ったか、月を思わせる鈍い金色の瞳は眼前の水槽を眺めてはいるが、どれほど真剣にこのアートを観察しているかと言うとさしたるものではないらしい。
金魚の姿を追うでもなく、ぼんやりと水槽全体を視界に入れている、それが隣からでもよく分かった。
「腹減ったからなにか食ってから飲みに行こう」
青白い光に照らされてしんと静まった空間の中、不意に俗っぽい言葉が漏れ聞こえたかと思えば、顔をこちらに向けた長尾とかちりと目が合う。
いつの間にか水槽ではなく長尾を見ていたのだと其処で気づいたが、彼は特に気にする様子もなくポケットに入れていた手をひらりと振って、此処はもうおしまいと言わんばかりに歩き出した。
嫌いではないと言っていたが、やはり彼の興味をそそるものではなかったのだろう。
それでも誘われるままについてきたのだから…多少は、親睦があるといえるのかもしれないが。
先を行く彼を追って小走り気味に部屋を出て、再び隣に並べぶと「何食いたい?」とまた他愛もない質問を放られ、うぅんと考える。
二人の関係は一体なんだろう。
名前と、明確に聞いたわけではない曖昧な職業しか知らない。
いや今日新たに知ったのは父親のこと。
けれどそれについて詳しく聞いたとも言えず、ただ情報として仕入れただけで劇的な変化には成りえない。
暗闇と輝くネオン、ゆらゆらと泳ぐ金魚のせいで最早これが現実かも疑わしい。
ただいつもと変わらずに皮肉っぽく笑う横顔と、同じように空腹を訴える胃袋が今夜の出来事は夢ではないと、証明してくれているような気がした。
「じゃあ肉が食べたいです」
「肉?じゃあ焼肉だな」
他愛もない、気さくな会話はやっぱりいつも通り。
ビルを出てすぐにポケットを漁り、長尾が取り出したのは手のひらに収まるほどの小さな白い箱。
手慣れた様子で一本のタバコを取り出し、火をつければもう嗅ぎなれた甘い煙の匂いが鼻孔をくすぐる。
もしや腹が減ったのではなく、煙草が吸いたくなったというのが会場をあとにした理由では?とふと気づいてしまい、思わず笑みを零せばその意図に気づいたのか、なんだよ、と彼も笑っていた。
くゆる煙が夜の街に溶け、眩しい街の光に追いやられて霞んだ月を余計に隠す。
甘くて苦い、重たい煙は自然と癖になった「俺にも」という貰い煙草を誘い、またいつも通り箱ごと軽く受け渡される。
普段と違うことをしてみようか、と連れだったものの何が変わるでもない、共通点の少ない男二人の、しかし居心地の良い戯言とともに滲む日常の一幕。
焼き肉、だなんて。
そういえば飲みの席のツマミではない、食事らしい食事を摂る彼の姿を見るのは初めてかもしれない。
もしかしたら、他人と差し支えない程度しか知らない一面をまた一つ、知れる切っ掛け…というほど大層なものでもないか。
いつもより早い時間に顔を合わせた二人は、まだ繁華街の明かりも眩しい賑やかな通りを歩いていく。
年齢も、服の趣味も、似たところのない二人が。
だが口遊むように交わされる軽口は心地よく、自然と紡がれ霧散して夜に溶ける。
今夜も【偶には違うこと】などと企ててはみたが、同じように暮れていくのだろう。
彼が酒やツマミばかりで、根気強く勧めないと中々食事らしい食事を摂らないことに気づくのは、また別の話。
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2021.6.30 Happy Birthday! Torajiro.