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2023.02.04 06:47

https://kaigen.art/kaigen_terrace/%E4%BF%B3%E4%BA%BA%E5%85%9C%E5%A4%AA%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%A7%A9%E7%88%B6%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E2%91%A3%E3%80%80%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E4%B8%87%E5%AF%BF/ 【俳人兜太にとって秩父とは何か④ 岡崎万寿】より

㈤ 産土から――「土の思想」の深化

⑴ 妻・皆子と秩父の「土」

 金子兜太の句集には、ふるさと秩父の句と並んで、いわゆる愛妻句が多い。兜太自身、堂々その姿勢を述べている。

 四百句(『現代俳句全集』のための自選句)を書き抜いてみたら、秩父の句にはじまり、秩父の句に戻る結果になってしまった。(中略)

 私には、妻ということばを読みこんだ句が多く、妻俳句をたどることによって、自分史が書けるようにもおもっているほどである。(飯田龍太等編『現代俳句案内』)

 そうした数多の妻俳句の中から、ここでは兜太の生涯的な作品だと思う三句を、私なりに挙げる。

  朝日煙る手中の蚕妻に示す(『少年』)

  夕狩ゆうがりの野の水たまりこそ黒瞳くろめ(『暗緑地誌』)

  雪の夜を平和一途の妻抱きいし(『百年』)

 一句目。兜太はトラック島から帰国した翌一九四七年四月、同じ秩父・野上町の眼科医の娘塩谷みな子(後日、俳号皆子)と結婚した。この句は、皆野町の実家で初夜を過ごし、翌朝、二人で晩春の畑径を歩いてその途中、親戚の農家の飼屋に立ち寄ったときの作である。

 当時、養蚕は「蚕おこさま神さま」と言われた秩父農家の大事な生業。その蚕を掌に包んで「これが秩父だよ」と、新妻に示した。この「妻に示す」という表現が、この句の眼目である。「蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、これからの生活への意思表明でもあった」(『現代俳句案内』)と、兜太は言っている。「朝日煙る」、なんとも清新で生命感に満ちた抒情の秀句だと思う。

 二句目について、これが愛妻句であることは『金子兜太戦後俳句日記』(第二巻)を読んで、初めて判った。その全文を紹介する。

 一九九三年(三月二十九日・73歳)

 結局、いまにして思えば、小生を支えてくれたのは、〈土〉と〈妻・皆子〉だった、と。

  夕狩の野の水たまりこそ黒瞳

 この句は皆子をうたったもの。二人で家族をつくりあげてゆくという基本作業があったこと。いつの日か、『むしかりの花』(皆子第一句集)の句を挙げつつ、二人の来し方を書いてみたい、と思い定めている。

 この句の初出は「寒雷」一九六八(昭43)年六月号である。確かに同年三月二十一日の『俳句日記』には、「毎日新聞の句の題を“暮狩ゆうがり”とほぼ決め、一寸したひらめきあり」と記入し、翌二十二日には「車中、茂吉の『万葉秀歌』。〈古代的声調〉ということについて考える」と書いている。

 その前年の七月に兜太は、妻・皆子の「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という、つよい希望に応じて、秩父に近い熊谷に転居した。そして日夜、秩父の「土」を感じつつ、土と親しみ土に根を据えて、人間と自然を見定める暮らしに変わった。それは俳人兜太にとって、人生の大きな節目となる出来事だったのである。その時期、兜太は感謝をこめ、俳句で「皆子をうたったもの」だろう。

 しかしこの句が、兜太の妻俳句だという理解は、一般には薄かったと思う。兜太の「自句自解」(『中年からの俳句人生塾』『自選自解99句』など)でも、そうは書いていない。たとえば――。

 わが家は、北武蔵の野の一隅にあり、散歩もする。そして、夕暮れどきの野に、水たまりが「黒瞳」のように見受けられたこともあった。夕空を映していたのだろう。私は若い頃「万葉集」の「朝猟に今立たすらし夕猟に今立たすらし」の歌句に惚れて、朝猟夕猟の語を覚えていた。そして、野の水たまりに「黒瞳」のようだと感応したあと、これこそ夕猟(狩)のときに見受けられたものだろう、と思ったのである。夕狩に立つ人たちを見送る黒瞳。(『自選自解99句』)

 兜太のこと、『俳句日記』に書いたその句の内意は、妻・皆子にも話していないのではないか。それは含羞というより、兜太という男の美学かも知れない。

 三句目。兜太は妻・皆子の遺句集『下弦の月』(二〇〇七年刊)の「あとがき」で、見合いで「一目惚れ」し、結婚五十九年に及ぶ二人の生活・活動を軸に、皆子の全人生を温かくまとめている。そして「妻逝きて十一年」の二〇一六年、妻が秩父から運んで植えた花梨の実の熟す頃、「妻よまだ生きてます武蔵野に稲妻」の句で結ぶ、連作「亡妻つまと平和 十二句」を発表している。掲句はその一句。

 抱きしめる「平和一途の妻」、その皆子自身にも戦時体験があり、長兄(陸軍軍医)はシベリア抑留、従兄はフィリッピン沖で戦死している。その傷みをたおやかな感性で受けとめ、第三句集『山樝子』(二〇〇二年刊)の「あとがき」で述べている。

 戦死した従兄たちのことは、現在の私の感性の中に涙と共に立ち上り、思いや土の匂いを手渡してくれるのです。(中略)私の来し方の歴史の中には、広島や長崎に原爆が落とされた日のこともまざまざとあり、冷静に語り継ぐべき責任をも、しきりに覚える昨今です……。

  戦争いくさ遠くに青年よ青麦の穂よ 皆子

 さきの句集『下弦の月』の「花恋抄」の一句である。

 二十代中頃の戦場体験から、生涯かけて反戦平和一筋を通した俳人兜太が、最晩年に当たって亡き妻へおくる純白な愛の連作が、秩父の自然に裏打ちされた「平和の俳句」であったことに、私はしみじみ熱いものを感じる。

 さて、これを夫婦の絆と呼ぼうか、私は兜太、皆子の句集や文章を読み込む中で、二人の、人間にとって最も肝要な三つの点で、ふるさと秩父に根ざした太い共通項があることを発見した。

 一つは、いのちの原郷としての産土・秩父の土の上に立つ人間観である。先にも取り上げた半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』の中で、兜太は「女房がいなかったら、現在の私はなかったというくらい大袈裟な言い方もできます」と、手放しの妻礼賛の話をしている。妻が他界して五年余の春である。

 今でも、皆子という女は土そのものだったような気がします。透明感のある土の神のような。(中略)おのずから彼女の体には秩父の土がしみ込んでいる。そこで育ったいのちがそのまま、丸々生きている、そういう印象でしたね。だから土のよき理解者、産土のよき理解者という感じでした。

 そのことを証明するかのような、皆子のエッセイがある。「海程」昭和五十五(一九八〇)年四月号に載った、「日常を」である。

 それはすべて斜めの景色なのです。山人の話の中に「和でころがるべえ」とゆう生活くらしの表現がありました。あの山々にかこまれて立ってみますと、その言葉のぬくもりは、手垢のつかぬ、みんなの言葉として充分に人の想いを充たしてくれるものがありました。素直で土の斜面にさからわぬ人々のくらしの言葉が此の上なく美しい。土の匂いもしみ込んで、時の流れの音もしみ込んでなつかしいものでした。

 二つは、秩父で育った冴えた感性で、ともに俳句を詠み、俳句をもって生きる力とした生き方である。先の半藤一利との対談集で、兜太は続けて語っている。

 私の女房も結婚間もないころから俳句をはじめまして、感性がいいんだな。澄んでいて、すばらしくデリケートで、私より俳句の資質があったんじゃないかな。

 作句の動機は、「夫との対話を持つため」だった、という。同時に、勤めの日銀でも、俳壇でも、文字通りの波乱万丈だった夫・兜太を支えて、長い社宅暮らしの不快にも耐え、並はずれの苦労を続けた皆子にとって、俳句は生きる支えともなっていた。

 句歴四十年の一九八八(昭63)年に出版した第一句集『むしかりの花』から、その新鮮で芳醇ないのちの驚きをとらえた、皆子の俳句世界を紹介しよう。

  新緑めぐらし胎児あこ育ててむわれ尊とうと

  土に終るひとりの神楽風の顔

  むしかりの白花白花しろはなしろはなオルゴール

 この年、皆子は現代俳句協会賞を受賞した。

 三つは、なにより人間の自由と平和を願い、時代、文化への批判の目を確かに、個人の生きる価値観を共有していたことである。これも兜太の語り口で聞いてみよう。

 私たちのいいところは、二人の間でいつも闊達な会話がなされていたことです。……妻の関心は、私の立身出世ではなく、むしろ、生きるとは何か、神とは何か、人間とは何か、といった類のことに置かれています。ですから、私たち夫婦の会話も自ずからそのような話題に進展しました。

(中略)

 私たち夫婦に共通した理想とは、一言で言えば、一家を築くことです。……一人一人が平等で、個が確立した、親愛に満ちた家です。(中略)

 夫婦の間で同じ価値観を持ち、日頃から闊達な会話ができたことは、結果的に、私の人生にとって大きなプラスでした。(『二度生きる』一九九四年刊)

 「そうでしたよ」といった、俳人皆子にとっては珍しく硬質な一句を、句集『山樝子』から挙げておこう。

  天人合一心身精霊秋草に 皆子

 こう共通項を並べると、二人はまこと理想の夫婦像そのものであったかに見える。しかし、それぞれ個性的な人間同士、複雑な面もある。長い歳月の中では矛盾や多少の葛藤、幾つかの修羅場もあったかも知れない。兜太自身、妻の他界後のエッセイ「霧の白粥」で、「臍ほぞを嚙む」思いでこう書いている。

 鈍感もいいところだった。……私は、そうした話をするときの妻の置かれていた苦労の日常に、ひどく鈍感だったから、恵まれた佳よき日の回想を夫に語ることによって、自分の辛さを癒いやそうとしていたことに、ほとんど気が付いてはいなかったのである。(『酒止めようかどの本能と遊ぼうか』)

 だが――。これから紹介する兜太の『俳句日記』には、知的で率直な信頼に満ちた夫婦像のすばらしさが、正直、胸を打つものがある。ユーモアさえ感じる。

 三月四日(一九七〇年・50歳)

 ついに「梨の木」を書きあげ、さっぱりした気分。……帰って皆子に読ませると彼女夢中で読む。ほめてくれる。珍しいことだ。はじめからほめられたのは。

 四月七日

 角川書店から、蛇笏賞推せん依頼がこず……小生アウトロー――と悲観的になる。皆子にいうと、「自分のもの」に集中して、啓蒙とか民衆とかいうことは忘れたほうがよい、といわれ、やっと眼が――本当にさめる。春のいたずらである。

 四月二十二日(一九七一年・51歳)

 夜明け、うとうとしながら、出版ジャーナリズムがシャクにさわり、俳句関係でも、どこでも、〈陰〉から、次第につぶされつつあるのではないか、という不安がつのり……しかし起きて皆子と話すうち、不安一切が消え、とにかく一茶と小説に集中しろ、と思い定めて、明るくなる。気分闊達。

 九月十七日(一九七二年・52歳)

 一茶略評伝に入る。午前、いま一度はじめ部分(文化句帖まで)読み直し、皆子にも読んでもらう。彼女の指摘事項十以上。夜、修正。

 一月二十七日(一九七三年・53歳)

 戦記か一茶かで、皆子と話し合う。皆子「一茶をやるべし。俳人としての仕事と評価を確定し。退職後散文へ」。小生「戦記やりたし。……戦記で散文の方法を掴み、「困民党」のように、仕事の幅を作りたし。(俳人が書く小説の意味)……」。

 八月九日

 「わが俳句観」終り、一・五枚、書き直す。皆子「まれにみる不出来ね」。指摘正当。直してすっきり。

 十月十一日(一九七五年・55歳)

 皆子「あなたは俳句に徹底しなさい。富士30句はよかった。あのスケールはほかにはない。碧梧桐をまずやりなさい。その上に立って散文を書きなさい。スケールの大きい記録より畸人伝がむいています」――これは頂門の一針。いい意見だった。

 十月十八日

 皆子、「俳句研究」十一月号を読んで、小生の悪口ばかりだと、イライラしながらはいってくる。チラチラ覗くと、えげつない……小生をぶったたくための特集号の感がある。

 十月十九日

 皆子の「怪物になれ」の言に元気付き、「俳句研究」への寄稿を停止……することを決めて、サッパリする。

 一月三十日(一九七九年・59歳)

 「ふるさと」(NHK放送予定)を、〈原点〉と考える自分の思考のあいまいさを責めているうちにほぐれる。〈ふるさとの翳〉、〈ふるさとの土〉。皆子と喋るうちに構想さらに固まる。伹し、〈ふるさとと血〉に来て議論となる。

 十月十五日(一九八三年・63歳)

 皆子「秩父事件」より、小生の戦時戦後史をゆっくりまとめよ、という。小生もそうおもい定める。

 見るように、日常の夫婦の会話にしては、感心するほど対等で知的な中味である。兜太という「怪物」(皆子)の性格や仕事ぶりをよく承知の上で、大局とポイントを掴んだ適確なアドバイスをしている。兜太にはまたとない人生の相談相手であったことが、よく判る。

 読みながら、兜太の『俳句日記』にも、敬意を込めて八ヵ所ほど登場しているフランスの作家・思想家のジャン=ポール・サルトルと、その生涯の伴侶で作家・評論家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとの関係が、戦後の私たち学生の憧れであったことを、兜太・皆子夫妻と、微笑ましく思いを重ねている。 (この項つづく)


https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000140.000012754.html 【朝日新聞「ひと」欄掲載で話題! 「新宿歌舞伎町俳句一家・屍派」初の句集、『アウトロー俳句』を出版!】より

NHK「ハートネットTV」でも特集。大反響!

2017年12月19日、北大路翼・編『新宿歌舞伎町一家「屍派」 アウトロー俳句』が河出書房新社(東京渋谷・代表取締役社長 小野寺優)より発売になりました。

歌舞伎町の路地の奥、現代芸術家の会田誠から引き継いだ「砂の城」を拠点に屍派を束ねるのが本書の編者、北大路翼。昼は会社員として働きつつ、句集『天使の涎』で第7回田中裕明賞を受賞した気鋭の俳人です。

屍派に集まるメンバーは元ホスト、バーテンダー、女装家、鬱病・依存症患者、ニートなど、行き場をなくした“はみ出し者(アウトロー)”たち。「生きづらさ」を抱える彼らが夜な夜な砂の城で詠み続ける型破りな俳句は、切なさ、やりきれなさの感情がまじり合った、不思議な魅力にあふれています。

本書では、屍派家元の北大路翼と、そのメンバーが詠んだ2000句以上のなかから珠玉の108句を選びだし、屍派にまつわるストーリーをまじえて紹介しています。

【内容紹介】

風俗店、キャバクラ、ホストクラブが立ち並ぶ、新宿歌舞伎町。

欲望が渦巻き、人々は騙し合う。勝者になれば王のごとく振る舞い、敗者は静かに街を去っていく。

そんな歌舞伎町の路地の奥で、やりきれない思いを俳句に載せて詠み明かす人たちがいる。

元ホスト、バーテンダー、女装家、鬱病・依存症患者、ニート……。“はみ出し者”ばかりだ。

これは、新宿のアウトローたちが贈る

不寛容な時代に疲れたあなたのためのアンソロジー(句集)である————。

軽トラで持つていかれたぬひぐるみ    キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事

この毛布ぢゃないときつと眠れない    一番えらいのは伊達巻を考へた人

駐車場雪に土下座の跡残る        春一番次は裁判所で会はう

春の風邪キスをしてもうつらない     蒲公英は倒れてゐることが多い

ウーロンハイたった一人が愛せない    六本木ヒルズに行つたことがある

【もくじ】

1 厳冬 2 春寒 3 炎天 4 秋雨

屍派ストーリー 新宿コマ劇場が消え、屍派が生まれる/歌舞伎町で俳句を詠む理由/屍派は「人間再生工場」/北大路翼とは何者なのか

https://www.yuichihirayama.jp/2018/02/09/312/ 【『アウトロー俳句』】より

『アウトロー俳句』 北大路翼・編  河出書房新社・刊

この連載で何度か紹介している北大路翼は、俳壇よりも俳壇以外でよく知られ、かつ活躍している俳人だ。彼の作品はいわゆる花鳥風月ではない。俳人から見捨てられた題材や人間模様を、独特の筆致で描く。好き嫌いはあるだろうが、まだ誰も詠んだことのないモノを俳句として提示するところに面白さがある。だから“俳壇以外”で注目されるのだろう。また俳壇以外の人にも分かる句を詠んでいることの証でもある。

今回、北大路が編んだ『アウトロー俳句~新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」』は、そんな彼の周辺にいる人々が詠んだ108句を収録している。彼らの棲息するのは主に新宿で、北大路の運営するアートサロン“砂の城”にたむろしている。偶然なのか、必然なのか、性癖や人格に変わったところのある者が多い。

ひょんなことから彼らは俳句を詠むようになり、恐ろしく簡便な句会の方法を発明し、夜ごとに作品を積もらせていった。翼はその中心人物として夥しい数の句を作り、結果、3年間で1万5千句を詠み、その中から2千句を抜粋して2015年に句集『天使の涎』を発表。2016年、田中裕明賞を受賞した。してみるとこの『アウトロー俳句』は、翼の出世作『天使の涎』誕生の背景のドキュメントと言うべき一冊だろう。同時に歌舞伎町でしか生きられない、世の中から見捨てられた人々が織りなした俳句アンソロジーと言うことができる。

「もぐらから雪のふる日を聞いてきた とうま」(季語:雪 冬)

「更新の度寒々とワンルーム   山中さゆり」(季語:寒し 冬)

「呼吸器と同じコンセントに聖樹  菊池洋勝」(季語:聖樹 クリスマス・ツリーのこのと 冬)

切ない句が並ぶ。「もぐらから」は民話のような語り口で、ヒリヒリするような寒さを伝える。「更新の」からは、社会の底冷えを感じる。「呼吸器と」は、クリスマスの浮かれた気分と、機械の助けを借りなければ呼吸すらままならない病者の孤独が鋭い対比を成す。

「大根を静かにさせて漬ける祖母   寅吉」(季語:大根 冬)

「湯たんぽの中に眠れぬ猫がゐる 地野獄美」(季語:湯たんぽ )

「駐車場雪に土下座の跡残る  咲良あぽろ」(季語:雪 冬)

「大根を」は、大樽に大根を一本一本納める祖母の食べ物に向ける感謝と、それを食べる家族への愛情が、極めてユニークな言葉遣いで表現されている。「湯たんぽの」は、メルヘンチックな発見が、句に広がりを与えている。よく読めば「大根の」の句には多動症が、「湯たんぽの」には不眠症が隠れていたりして、俳句の掘り起こす深層を鑑賞するのも一興だ。

これらの句は、ほとんど俳句を初めて作る人たちから生まれた。中でも「駐車場」は、マッサージ師のあぽろが生まれて初めて作った句だ。初めてでもこれほどセンスのある句が詠めることに翼は可能性を感じ、彼が家元を名乗る“屍派”を立ち上げるキッカケになったという。

「蚊柱にぶつかりあやまつてしまふ 五十嵐筝曲」(季語:蚊 夏)

「自転車のサドルを全て薔薇にせよ    照子」(季語:薔薇 夏)

「踏切の音になりたい夏休み      ふしぎ」(季語:夏休み 夏)

何かと過剰な人が多いのも、屍派の特徴である。「蚊柱に」の作者は人付き合いが苦手で、自信をなくし居場所を見失っていたとき、屍派に出会った。僕も彼とは何度も一緒に句会をしているが、俳句の場では優れたイジラレ役として周囲を笑顔にしている。翼が彼に付けた俳号の“筝曲”は、双極性障害(かつては躁うつ病と呼ばれていた)に由来している。翼が俳号を推奨するのは、別名を持つといつもの自分ではないキャラクターを演じやすくなるからだという。“翼”もまた、俳号である。

「自転車の」と「踏切の」には、自虐や加虐の匂いがする。それを句にすることで、救われる魂がある。照子はまた「柘榴から生まれる皮膚のない子供」(季語:柘榴=ざくろ 秋)とも詠んでいる。何かが他人と少し違うだけで苛められたりする世の中で、この句が優しく響く場面は少なくないだろう。

「屍派は人間再生工場」という翼ではあるが、『アウトロー俳句』には俳句そのものについても興味深い言及が多々ある。

「歌舞伎町に集まる人々が詠む句は、飾らない魅力で溢れていた。余計な知識がないぶん、表現がストレートで何でもありなのだ。(中略)季語を学び、俳句の知識が増えるほど、ありきたりの句を詠むようになりがちである」。

「ルールはあるが、時にそれを破ることも美学になる。いわば不良と同じなのだ。これが僕の俳句観であり、俳句に魅せられた理由のひとつである」。

これらは俳句にまつわる警句として、新しいものではない。が、『アウトロー俳句』を読むと、それを実践している俳人がほとんどいないことに気付かされる。その実践から生まれた純度の高い句も、この本に収められている。

「恐ろしや花火も母になる君も  西生ゆかり」(季語:)

「蓑虫の中にこつそり二人居る  西生ゆかり」(季語:)

本を編むにあたって集まった句は2千を越え、投句者は57人にのぼった。タイトルを“アウトロー”としたために、漏れてしまった佳句も多かったと翼は言う。しかし、そうした仲間がいたからこそ、翼自身も俳句を作り続けることができた。また己の俳句観が鍛えられたとも語っている。

通読して思うのは、『アウトロー俳句』は翼が連衆に捧げた感謝の本だということだ。この感謝は、俳句で言うところの“挨拶”に、見事に通じている。なお『天使の涎』は、この1月に再版された。

「太陽にぶん殴られてあつたけえ 翼」(季語:暖か 春)

俳句結社誌『鴻』コラム【ON THE STREET】2018年2月号より転載

https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n199/n199_044.html 【セルフヘルプグループの役割】より

中田智恵海

▼セルフヘルプグループとは

 自助グループ・当事者組織・本人の会などともいわれ、病気、障害、依存や嗜癖、マイノリティグループなど、同じ状況にある人々が相互に援助しあうために組織し、運営する自立性と継続性を有するグループである。

 アルコール依存症者が「AA」というセルフヘルプグループに入って断酒できた場合のように、セルフヘルプグループでは相互に援助しあって状況が改善したり、解決したりすることもある。しかし、それだけに終わるものではない。セルフヘルプグループのメンバー、つまり、セルフヘルパーには内なる変革・外なる変革が伴って生じるのである。

 時には状況の改善のないまま、病気や障害を抱えたまま、生きつづけなければならないこともある。例えば、顔に血管腫があるために顔貌が異形の人はそのままの顔で生きつづける。こうした変えられない宿命を負った者には、「自分」にしか生きられない生き方に気づき、語り、他者に伝えて、生きる力と勇気を自ら獲得することが必要である。セルフヘルプグループはそれを可能にする。

 仲間同士が出会って孤立から解放され、抑圧されない対等な関係の中で、情報を交換し、体験を語り合い、感情を表現する。そうした出会いを通して、ありのままの自分が仲間に受け入れられることで、自己否定やとらわれから解放され、ありのままの自分を受け入れることができるようになる。そして自分への信頼や自信を回復して人間としての尊厳性を自覚し、自立への意欲が喚起される。内なる変革である。

 さらにその過程を通して、社会の矛盾に気づき、病気や障害をもったまま生き生きと生きられる社会の実現をめざして、社会へとスピークアウトしていく。平均的状況からの逸脱を許さない社会、少数者を偏見によって差別し、排除しようとする社会の非人間性と不正常さを訴える。そして一般市民の理解を得て意識や態度の変更を求め、さらには新たな社会制度や社会サービスの創出や整備を図る。外なる変革である。

 このようにセルフヘルプグループは一般社会とは異なる独自の文化をもち、内には生きる力と勇気を育み、外にはスピークアウトして、自らの力と能力を最大限に引き出し、生き直すことを可能にするインキュベーター(孵卵器)である。

 困難な状況にある時、援助しあって単に状況を改善し解決するだけにとどまるものではないことを再度、強調しておきたい。

 また、かつて援助は民間の施しや恩恵であった時代から、自立した生活を営むために利用する権利としての公的な社会サービスへと転換した。しかし、これらはともに与える側と与えられる側とが明確に分かれている。そして今、セルフヘルプグループの援助は与える側が同時に与えられる側となる、援助の受け手と与え手とが同時平行する相互通行となる点で援助のあり方を大きく転換するものである。

▼セルフヘルプグループの特質

 セルフヘルプグループの援助特性の詳細については、本シリーズの最終を担当する岡が「わかちあい」「ひとりだち」「ときはなち」という概念によって明確にしている。ここでは一般的な特質と機能について整理して概略することとする。

①仲間を見つけ、孤立からの解放と安心できる場を提供する

 苦悩するのは「私一人ではなかった」と孤立から解放される。仲間は「そこにいる」だけで「丸ごとわかりあえる」宝である。温かい人間関係を基に心理的な支援が得られ、人格的な模範としての役割モデルとなる。安心して本音で話し合い、体験談を語り、感情を共有する。考える場、発言の場ともなり、人格と人格をぶつけあって、人間としての存在を認めあうことにつながっていく。

②主体的に課題を選択する

 他の誰でもない自分たちが課題と考えることに取り組む。例えば、子どもを亡くした父親の会である。父親はそうした事態を哀しんでいたり、泣いたりすることは社会が抱くあるべき男性像から逸脱し、女々しいとされ、率直に哀しみを表現できないと会を発足させた。感情の表現の仕方に至るまで、社会から押しつけられていることへの異議申立てともいえる。社会が自分にどのように期待するかに従うのではなくて、生活の主体者としての自分がどのようにありたいかに忠実に生きようと、主体的に選択した課題に取り組み、社会的に認められている常識や言説を書き換えていく。固有の文化をもって市民が社会のオーナーになる始まりである。

③援助にまつわるスティグマを除去する

 援助を受けることには、依存心を助長し、自立心や自尊心を喪失させる側面がある。逆に援助を与えることには、肯定的で積極的な意識を高める側面がある。援助し、援助されることが同時進行のセルフヘルプグループでは自分は他者に与える何かがある、という有能感を得、他者に役にたったという喜びが付与される。援助を受けなければ、生きていけない駄目な自分ではない。他者を援助できたという自信から自立できていると感じられ、自分の人生を自分で決定しようとする意識が高まる。

④反専門職主義を提唱する

 物事に疑義が生じると必ず、専門職の見解が権威をもって表明される。そしてその見解が間違いのない、全き正義として社会を横行する。また、人は困難にある時、専門職の見解を求め、それに従う。これは専門職は間違わないという幻想が刷り込まれているからであろう。また市民は、権威ある専門職に依存し、逆らわないで従うことが正しく、立派な市民であると刷り込まれているのである。例えば、医師患者関係において、おまかせ医療が妥当性をもつ根拠はここにある。しかし、専門職も人である限り、時には間違いも生ずる。弊害も限界も当然、存在する。しかし、市民からは権威づけて遇され、自らも権威づけることに習慣づいている専門職にはその間違いを率直に認め、真実に対して忠実であろうとする態度や思索が希薄な場合もある。これに対して、当事者であるセルフヘルパーは自分の実感を大切にして専門職に体験を伝え、仲間とともに異議を申立て、社会の主人公は専門職ではなくて生活主体者である市民にあることを訴えていく。

▼セルフヘルプグループの現状と課題

 1960年代に米国で始まった公民権運動・女性運動・消費者運動といった種々の市民運動に続いて、1970年代にはセルフヘルプ運動が台頭している。わが国でもこの運動の実施主体であるセルフヘルプグループの多くがこの時期に発足している。

 このことはノーマライゼーションの理念が1970年代から強調されるようになったことと無関係ではない。インテグレーションやメインストリーミングがノーマライゼーションの理念を具体的に展開していく原則だとすれば、セルフヘルプ運動は、これを実現する具体的な方法である。ちなみに自立生活運動やバリアフリー運動などとも互いに影響しあってこの理念を具体的に推進している。

 では、セルフヘルプグループはどのような人たちによって創出されているかをみると、①心身に病気や障害のある人―難病・精神障害者などの会 ②依存や嗜癖のある人―アルコール・拒食などの会 ③ライフスタイルの変更を強いられる人―子どもを亡くした人・離婚した人などの会 ④人間関係や社会との関係に悩む人―閉じこもり・虐待・不登校の人などの会 ⑤これらの人たちの家族などの会、などに分類できる。

 セルフヘルプグループは実際にはどの程度、存在するのであろうか。このグループには極めて多様な形態が存在し、一まとめにして数えあげることは難しい。

 ①その範囲をどのように限定するか。何らかの共通性をもつ当事者によるグループをすべて含むなら、公害・薬害運動からPTAや趣味のサークル活動までをも含んでしまう。

 ②グループの形態を一見しただけでは、上述のセルフヘルプグループの機能を有しているかどうかを見極めることが難しい。この機能には専門職との関係が「依存している」か「自立している」かに大きく影響されるが、グループ内部で生じるダイナミクスは複雑でメンバーがグループの代表になっていても実際には専門職の言われるままに従っている場合もあり、外観からは判断が難しい。

 ③グループの規模・組織のあり方が多様である。都道府県、国、世界のレベルで連携しているものもあれば、地区だけの小規模のグループなど多様に存在する。会費制を「とる・とらない」、会長から地区支部長といった役員制を「設けている・設けていない」、会合の開き方が「オープン・クローズド」、さらに同じ分類に属するグループでもそれぞれ異なるグループの目標を掲げている場合もあるなど極めて多様である。

 ④グループの創出契機が状況の共通性と自発性だけに依るので、グループの創出も崩壊も自由に実践される上に、メンバー間に上下関係を築かないように役員等の入れ変わりを積極的に実施するので、移動が激しく、実態を把握し難い。

 セルフヘルプグループを支援しようとする大阪セルフヘルプ支援センターの名簿をみれば、241グループが登録されている。一方、全国患者会障害者団体要覧(プリメド社、1996年)には770グループが記されている。しかし、これらがすべてセルフヘルプグループとみなすことができるかどうかは極めて難しい。

 形態も活動内容も多様であるからこそ、市民が容易に自分の直観や体験を基にグループをつくり、ニーズを充たしていくことができる。しかし、そのことが同時にセルフヘルプグループが一般市民や専門職らの承認を得にくい条件となっている。

 援助専門職らはセルフヘルプグループについて、市民や専門職らに正しく理解されるよう広報するとともに、セルフヘルプグループとしての機能を有するように当事者の立場に立って支援する必要がある。セルフヘルプグループの全容を正しく把握する人たちはまだまだ少ない。海外のセルフヘルプグループを紹介する本稿の11回のシリーズでその理解が一層、深まることを願っている。

(なかだちえみ 武庫川女子大学)

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」

1998年2月号(第18巻 通巻199号)44頁~47頁