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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、 チャルトルスキ公との再会で息を吹き返すフレデリック、スターリング城で本当の孤独を知りコンスタンツァアを回想す…

2022.03.20 00:36

スターリング城の窓の前のスターリング嬢と

ショパン🎶イメージ🎶

グラスゴーに近いジョンストン城から、パリのグシマーワへ助けを求めていたフレデリックだった。

マンチェスターの演奏会で幾らかのお金を手にしたフレデリック。ヒューストン夫人の住む不気味な城の地下室の秘密を見てしまったフレデリックはこれ以上、偽りの慈善事業に関われないと悟り、牢屋のような城から逃亡しようとしていた。しかしそれも失敗に終わった。フレデリックは、

馬車の手綱が突如切れる事故でフレデリックは恐怖を味わった。フレデリックは一命を取り留めたものの、足を打撲して怪我を負っていた。フレデリックはその後、予定通りにスターリング家の邸宅キール・ハウスに戻っていた。そして、2週間後の9月27日グラスゴーの商人演奏会に出演したフレデリックは90ポンドのお金を得ることができた…

その数日後、キール・ハウスから再びペンを執ったフレデリック…相手はグシマーワへ…

「郵便も列車もない。

馬車もない(空を飛ぶことさえできない)、船もない。

口笛を吹く犬さえもいない。

私の親愛なる友よ。」

フレデリックは自由に馬車で出かけることさえ許されなくなっていた。フレデリックはジョンストン城から馬車で逃げて港で誰と待ち合わせしていたのか、船で何処を目指していたのか…結局、スターリング嬢に従うしかないフレデリック…。

キール・ハウスでは気を紛らわしてくれるノアンの頃にいたマルキのようなフレデリックの心を慰めてくれる賢い犬もいない…、寂しささえもだんだんと薄れてゆくフレデリックはとうとう諦めの境地にあるのか…それとも…

「ちょうど私があなたへの書簡を別の紙に書き始めようとしていたとき、姉からの手紙が入ったあなたの手紙を持ってきました。」

誰かが届けてくれたのだ。グシマーワとルドヴィカからのこの書簡は現存しない。

「…あなたに何が起こっているのか、なぜ私に教えてくれないのですか?

あなたは私よりも簡単に書くことができます。一週間前にスコットランド北部(ファイン湖畔の東海岸のストラチャー村)から戻って以来、私は毎日あなたへ書簡を書いています。」

グシマーワへ毎日のように書き続けるフレデリック。

「どなたかご病気の方がいらっしゃるのですね。ロゼールの手紙(現存せず)によると、あなたがロゼール嬢を訪ねてきて、病気の友人のために急いでヴェルサイユに向かったとのことです。祖父のことですか?

もしかしたら、あなたのお孫さんや、ロハンのご近所の方かもしれないと思うと、嫌ですね。いずれにせよ、あまり関係のない人であってほしい。…」

パリに居るグシマーワの家族の安否を気遣うフレデリック、

そして、「ジョンストン城に宛てたあなたの手紙と同じ頃、その手紙の中で

ソランジュと一緒にジムナーゼ劇場に行ったと書いてある書簡がありました。」

グシマーワはソランジュとパリのジムナーゼ劇場に何を観に行ったかはグシマーワの書簡が現存せず不明だが、この劇場は、

1844年からアドルフ・モンティニーが劇場のディレクターに就任し、バルザック、エミールオージエ、そしてジョルジュ・サンドなどの作品を上演して来ていた、しかし、この48年2月革命後の混乱で、劇場は何を上演していたかは全く不明であり、この時、サンドはパリを追われノアン村も追われ、更に田舎へついに逃げてしまっていた。

グシマーワとソランジュは情勢の悪い危険なパリで二人でわざわざ何を観に行ったのか…。フレデリックは知っているが語らない。

……「その頃、

もう一通の書簡を受け取りました。

エジンバラの皇太子と皇太子妃から私に招待状が届きました。

アレキサンドル・チャルトルスキ公と公妃が

エジンバラに到着し、私に会いたがっていました。

私は疲れていたのですが、列車に飛び乗り、まだエジンバラにいる二人に会うことができました。」

フレデリックは公式の招待状を得たため、

チャルトルスキ公と公妃に会いに

エジンバラまで出かけることができた。

フレデリックは疲れてはいたがポーランド人とポーランド語で話すことが出来たため生き延びることができた…。

この出来事がグラスゴーでの商人演奏会だった。グラスゴーに亡命したポーランド貴族の集まる会のことで、フレデリックはポーランド人のために快く演奏したのだった。

「マルセウイナ姫は昨年と変わらず、優しい方です。

私は彼らのポーランド精神の影響をいただきいくらか復活し、グラスゴーでの演奏に力を与えてくれたのです。

そこでは数人の貴族が車で私の演奏を聴きに来てくれた。

天気もよく、王子と王女もエディンバラから列車でやってきて、立派に成長した小さなマルセル少年を連れてきた。 彼は私の曲を歌うことができ、もし誰かが私の曲を歌えば

正しく演奏できないときは、歌って教えてくれるんですよ。

 水曜日の午後3時、王子と王女はジョンストン城(グラスゴーから12マイル)での夕食への招待を快く受けてくれた。

私たちは一日中一緒に過ごしました。

マレー公夫妻とトーフィチェン卿は、この日のために100マイルも離れたところまで車でやってきて、翌日にはマルセウイナ姫を褒めちぎるのに十分なほどでした。

チャルトリスキー一家はグラスゴーに戻り、ローモンド湖を見た後、そこからロンドンに戻る予定でした。

その後、ヨーロッパ大陸に戻られる予定です。」

フレデリックはこの集いで息を吹き返したのだ…

「王女はあなたのことをとても親切に、気持ちを込めて話してくれました。

あなたのような高貴な魂がどんな苦痛を受けるか、十分に理解しています。あなたにはわからないでしょう。

あの日、私に新しい命が吹き込まれたことは想像に難くありません。しかし、私には

この霧がまた押し寄せるのです、今書いている窓からは

スターリング城のとても素敵な景色が目の前にあるというのに。

スターリングの町の近くにある、ロバート・ブルースに出てくるお城で、夜になると

崖の上、山々、湖が見える。

素晴らしい公園など、スコットランドで最も素晴らしい景色のひとつです。

それは、霧が時々出るくらいで、何も見えません。

数分間、太陽に道を譲るかのように、とても親切に景色が現れるのです。

だから、ここではほとんど戦わない。

この家の主はスターリングといいます。

スコットランド人女性の父方の叔父で、当主です。

私はロンドンで彼と知り合いになった。彼は金持ちの独身男性です。

ムリージョや絵画など多くの素晴らしい絵があります。

彼はスペイン語が堪能です。

彼は最近、スペイン学派についての高価な一冊の本を出版したのです。(この国ではこの種のことがよく知られている)

彼は広く旅をしており、東洋にいたこともあるそうです。

イギリスの社交界がスコットランドを訪れると、必ずと言っていいほど彼に会いに来るのです。彼は家を開放しており、通常、約30人で食事をします…」

フレデリックのグシマーワへの報告はまだまだ続いた。フレデリックの怪我も傷ついた心も癒すことができるのは、スターリング嬢ではなく、やはりポーランド人でしかなかった。フレデリックの最愛のひと、コンスタンツァアがフレデリックがポーランドを発つ時に言った言葉の意味が、フレデリックの脳裏に甦り、その言葉の意味の深さを地の果てスコットランドに来た18年後に初めて身に染みたフレデリックだった…


【窓枠に身を乗り出した農民の少年】

1675-80年頃

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵

農村の庶民の姿を描いている。

窓枠から身を乗り出して何に微笑んでいるのであろうか。長閑な生活の一コマ。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

(1617スペイン、セビリア-1682)

バロック期のスペインの画家

✳︎ショパンがスターリングの城で観たムリーリョの絵画は孤児の絵画のコレクションであった可能性がある。ショパンは既にパリではムリーリョのマリア聖母像を鑑賞したことがあったと推測される。

ムリーリョは聖母マリア像などの宗教画や庶民の生活や貧しい孤児などを描いた。

↑物乞いの少年(蚤をとる少年) 1645-1650年頃


スペイン最高の画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョ初期を代表する風俗画の傑作「物乞いの少年」。

廃墟で少年が壁にもたれ蚤を取っている様子が描かれている。

「蚤をとる少年」または「物乞いの少年」と題される。道端の孤児を描いた最初の作品。

ムリーリョは光と影の対比をカラヴァッジォの技法を用いて描いた傑作。