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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 236 (09/02/23) 旧首里北平等 (4) Gibo Area 首里儀保町

2023.02.10 09:05

旧首里北平等 首里儀保町 (ぎぼ、ジーブ)



今日は旧首里北平等の四番目で最後の首里儀保町の史跡巡りに出かける。今日も徒歩にて巡ることとした。


旧首里北平等 首里儀保町 (ぎぼ、ジーブ)

首里儀保町は北は虎頭山稜から連なる北森 (ニシムイ) が屏風のように聳え、東高西低の地形だった。首里王府時代には士族の街で儀保大通りを中心に、国頭御殿、与那原殿内、亀川殿内などの屋敷が立ち並んでいた。明治の頃は500坪以上の屋敷に石囲い、周囲に福木を植え込み、赤瓦屋根で立派な門構の家が20ヵ所以上も残っていたそうだ。大正の頃には10ヵ所ほどが点在するように変わっている。儀保川に最初に架橋されたハベール橋を中心にして真嘉比 (マカン) 道、儀保大通り、太平橋に結ぶ道など一面に石が敷き詰められていた見事な宿道だった。古くは上儀保村 (現在の儀保1丁目、2丁目) と下儀保村の二村だったが、1880年 (明治13年) に儀保村となり、その後、1914年 (大正3年) に儀保町と呼称されている。

首里儀保町の民家分布を見ると戦前までは、密集地はなく民家が点在している。戦後は82号線 (那覇糸満線) を中心に民家が密集している。 


この地域の人口は明治期が最も多く、戦後一時期はそれに近い人口にまで戻ったが、それ以降は減少傾向となり、現在でもその傾向は続いている。

那覇区内での首里儀保町の人口はどちらかというと少ないグループに属している。


儀保訪問ログ 



上之橋口 (ウィーヌハシグチ)

一昨日に赤平町を訪れた際にこの上之橋に来ている。儀保町巡りをここから再開する。ここは当蔵、儀保、赤平の町界に架にあたり、上之橋一帯を上の橋口 (ウィーヌハシグチ) と呼んでいる。 それと対比して、当藏大中、桃原、儀保の町界に架けられた橋 (この後に訪れる) の付近を下の橋口 (シチャヌハシグチ) と呼んでいる。


上儀保道 (ウィージーブミチ)

上之橋から盛光寺 (旧西来院、後述) 辺りまでの通りを、上儀保道 (ウィージーブミチ) と呼んでいた。沖縄戦後、米占領軍による採石で道路の中程で路線が変更され、さらに県道糸満線 (82号線) の拡幅によって様子はまったく変わってしまった。かつては石畳道だったのだろうが、それは失われて、新しく石敷道に整備されている。


富川殿内小路 (トゥミガードゥンチスージ)

上の橋から北へ進んだすぐに西に伸びる道がある、1875年に琉球王府最後の三司官の一人となり4年間その任にあった富川盛奎 (トゥミガーセイケイ、唐名 毛鳳来 1832年 - 1890年) を輩出した富川殿内 (写真右上) が上儀保道からこの小路に入る角にあったことで富川殿内小路 (トゥミガードゥンチスージ) と呼ばれていた。 1879年の廃琉置県の際に知日漸進派であった富川親方盛奎は沖縄県庁顧問となったが、1882年に日清間の分島増約案 (先島の清国への割譲) に反対して、国場親雲 (王大業) とともに中国へ亡命し、琉球王国の救済と復国運動に奔走しましたが実らず、帰郷を拒否し清国で客死している。


国頭御殿小路 (クンジャンウドゥンスージ)

富川殿内小路と並行して北側にもう一本小路が通っている。奥間鍛冶屋 (クマカンジャー) の次男正胤を始祖とする国頭御殿あった通りで国頭御殿小路 (クンジャンウドゥンスージ) と呼ばれている。国頭御殿は首里古地図では広大な屋敷で盛光寺 (旧西来院、後述) の所までが敷地だった。三世国頭正格は1537年に尚元王が大島遠征中に難病を患った際に正格がその治癒を祈って身代わりとなり病死したとされ、その功績により按司の位を贈られている。子孫も代々按司を賜るという破格の待遇を受けた。尚氏以外で按司家として永世御殿を賜ったのは唯一国頭家だけだ。六世正弥は薩摩滞在中に大坂夏の陣が起こり、島津家久より国頭左馬頭の名と太刀を賜り従軍したが、戦いは終わっていた。七世正則は江戸上り (慶賀使) の正使を務め、王子位を賜っている。十五世正秀も総理官代理としてフランスのセシーユ提督と会見、退去させた功により、王子位を賜っている。いつのころか国頭家は大中へ移っている。戦後の一時期この小路は市がたち、儀保市小 (ジープマチグヮ) と呼ばれていた。


板井戸小路 (イチャガースージ)

国頭御殿小路の途中に南への小径がある。富川殿内小路の南を流れる儀保川の対岸の崖下に板井戸 (イチャガー) があり、水の便の悪かった付近の儀保村の人たちが利用した。その井戸への小径であったことで、板井戸小路 (イチャ ガースージ) と呼ばれた。この道の民家には綺麗な花が咲いている。沖縄ではポピュラーな花だが、本土ではあまり見かけないオレンジ色の火炎葛 (カエンカズラ) と紫色の弁軽矢筈葛 (ベンガルヤハズカズラ) で共に南国の植物。


下之橋口 (シムヌハシグチ)

先程の上之橋が架かる儀保川 (ジーブガーラ) の上流に下之橋 (シムヌハシ) が架かっている。この場所は当藏、儀保、赤平三町の町界で、この付近は下之橋口 (シムヌハシグチ) と呼ばれている。このあたりの屋敷囲いなど周囲は戦前の雰囲気が漂う数少ない地域となっている。


板井戸 (イチャガー)

先程の板井戸小路 (イチャガースージ) の名の元となった板井戸 (イチャガー) が儀保川の対岸の崖下にある。この儀保川が儀保の境界線となっており、板井戸のある対岸は首里大中になる。


儀保村学校所 (就伝門) 跡

下之橋を通る道を北に進むと県道28号線の桃原大通りに出る。交差点を渡った所には儀保村学校所が置かれていた。学問をうつし伝える所という意味の就伝門と名付けられていた。


加良川 (カラガー)

儀保村学校所跡の脇道を下っていくと左手の儀保川沿いに洞穴泉があり、加良川 (カラガー) と呼ばれ、儀保の村井 (ムラガー) だった。首里古地図 (1700 年代) にも描かれている古い井戸で、崖下の洞穴から水儀が湧き出ている。「崖下の洞から湧く泉」を指意味するカロガー、またはカルガーからカラガーに変化したものと考えられている。


加良川橋 (カラガーバシ)

加良川 (カラガー) の下り口、 桃原町との境界に加良川 (カラガー) 橋が架かっている。橋を渡り石敷きの坂を登りつめた向かいの浦添御殿に三司官や王府役人が頻繁に通ったとも言われ、三司官橋とも呼ばれていた。


玉城朝薫生誕碑

加良川 (カラガー) への降り口に組踊創始者の玉城朝薫生誕碑が置かれている。玉城朝薫が生まれた屋敷はすぐ側にあり、生まれた時の産湯に使ったのが先ほどの加良川 (カラガー) の井戸の水だと伝わっている。


ハベール橋

加良川 (カラガー) の更に北側上流にはハベール橋が架かっている。現在はコンクリート橋だが、戦前までは石造りアーチ橋の上に橋が架かるという二段橋になっていた。 大雨の際に、下段のアーチ橋まで増水して役目を果たさなくなったのでさらに上段に橋を架けたと考えられている。ハベル=侍るの原義は「這いつくばう」であることから、ハベール橋とは、ハベルからの変化であろうと考えられる。 因みに、首里方言で蛾のことをハベールというのも、水平に翅を開いたまま静止する状態が、「這いつくばう」形に見えることから付けられたという。


儀保井戸 (ジープガー)

ハーベル橋の袂に香炉が置かれ、形式保存されている儀保井戸 (ジープガー) の拝所がある。戦前には真嘉比道 (マカンミチ) の北直下に、長方形のプール状に掘り下げられた石積み井泉が、二つ東西に並んであり、儀保井戸 (ジープガー) と呼ばれていた。戦後埋め立てられて全く痕跡を止めないが、一時期那覇市が上水道の水源として取水していた。


紙漉所跡 (カミスキジョアト)

球陽によると、儀保井戸がある場所には1843年 (尚育9年) に、同年に、始めて宝口に宅地を借りて、茅屋を建て造作して、宝口のこの地域を製紙区域と指定して、製造が途絶えていた百田紙 (ムムダカビ) を製造したとある。これにより宝口では 百田紙、山川では芭蕉紙が作られるようになった。首里王府の用紙需要の増大に伴って、この儀保井戸 (ジブガー) の豊富な水を利用して、この地でも紙を漉いたと推測されている。1840年 (尚育6年) には、紙漉所を瓦葺きに改造し、「紙座」と呼ばれる役所の管理のもと下役人を常駐させる程までに発展している。1848年 (尚泰元年) には製造所を、更なる用紙需要の増大により増築し、1866年 (尚泰19年) には、租借地を王府財政で買上げている。1879年 (明治12年) の琉球処分の後も、この一帯では民間の手で紙漉が続けられていた。琉球における紙漉の技術は、大見武憑武が1686年に鹿児島へ赴き造紙法を修行し、帰国後の1695年に首里金城村に宅地を賜って金城紙漉所を建て杉原紙、百田紙を漉いたのに始まる。 1717年、祖慶清寄や比嘉乗昌が芭蕉紙を始めて作り、翌年王府の援助を受け首里山川村に一宅を設けて山川紙漉所を始めている。以来、カジノキ、糸芭蕉、青雁皮を原料に、色半紙、広紙、奉書紙、百田紙、藁紙なども作られていた。


宝口樋川 (タカラグチヒージャー)

儀保井戸跡と紙漉所跡から真嘉比川沿いに小径があり、そこの石敷階段を降りていった所に宝口樋川 (タカラグチヒージャー) がある。1807年に当蔵村の平民たちにより開かれたが不便で忘れ去られていたが、当蔵村の宮城筑登之親雲上が大修理を加え利便性が向上し、近隣住民の生活用水として大いに利用されていた。昔は儀保樋川 (ジブガーフィージャー) と呼ばれていた。

宝口樋川の背後は急な崖を相方積みの石垣となり、前は石畳となっている。昭和初期につくられたコンクリートの水槽は、飲料用と洗濯用にわけられている。昔から豊かな水に恵 まれ、干ばつにも涸れることのない重宝な樋川だった。 近年は樋川の背後が開発され、一時期より水量が落ちているそうだが、今でも樋から水は勢いよく流れて出ている。

球陽には「当蔵村の宮城筑登之親雲上が、兼城間切の地頭代平田親雲上など二十四人の附従者と共に、私財を投じてこの泉を修し、上下儀保村だけではなく近郷の利便を図ったことで、宮城を賞し越級して座敷位に陞せ、平田なども賞して爵位を頒賜した」とこの井泉の記載がある。宮城筑登之親雲上は、従七品から従四品への六階級特進をし、財政困難下の首里王府のへの貢献が格別だった。1807年 (尚灝4年) に下儀保の長老たちにより、井泉の側に宝碑とされた石碑が建てられ、表が漢文、裏面が和文でこの功績についてかかれていた。

首里西之平等、宝口之山の南面の地に泉の出る有り。これ美味で源は深く早天でも濡れない泉である。この泉は崖の岩が突き出た地にある。往くに、草深い竹藪にへだてられ、道はめぐって長く狭い。 広く世の中のたることが出来ない。また本村は、南に加良川あり、北に儀保川あり、各家みな井戸があって、用水は常に足る。そこでこの泉は捨て置かれ、無用の地として未だ名もない。当蔵村の宮城筑登之この泉を惜しみ、同じ思いのつき従う者二十四人と相共に、私財で泉に樋をかけ、道を開けて、世の中の用となした。
それ前の泉より便利になるかな、岩石を割り、土地を開け、樋をかけ泉を引く、すなわち昼夜止まらず、混々と流れ出て無尽蔵なり。険しい所をくさぎり開き、道を変更し全く新しくほど近くなり、人々は便利に賞味し、家々にも便利に用いられる。まさにこれ世間の為なり。重宝なり。崖の上の松は、ほとりに影をつくり、真夏に道行く人は、坐してその影をたのしむ。しかも松風も音をかなでる。質朴な弦楽器の糸のような、また大帯の飾り玉のような營々と流れる泉の音がひびく、これまた、宝口のおくゆかしい 景観である。この泉、宝口の地に出でて世間重宝す。故に宝樋を以って名となす。宝口の前、霊妙な二つの水口からそそぎ出るその音は、美しい玉をはねおどらし、すすぎ洗うようにひびき、さらさらと鳴る水の音は、清らかな光のようで、秀でること明らかである。 湧き出る泉は心が洗わ れんばかりで、それに止まらず、万金でも買い難い。この誉れを石に刻み、永久に伝える。

石碑は沖縄戦で破壊されたが、復元されている。


宝口 (タカラグチ)

儀保十字路から末吉に向かって左手の あたりを宝口と呼ばれていた。 その由来は王家の亡くなった方を多くの宝物と一緒に葬ったからとか、近くを流れる真嘉比川の付近まで高価な交易品を積んだ船がやってきたからなどと言われていたが、現在では遺骨を宝物と表現する事がわかり、ここには高貴な人が葬られていたことに因み宝口と呼ばれていたという説が有力だ。


北森陵 (儀保之玉御陵 ジーブヌタマウドゥン)

宝口 (タカラグチ) の案内場所から丘陵へ登る道がある。沖縄戦で丘陵は砲爆撃によって破壊されたが、陵への石畳のフィラは戦後の一時期まで残っていたが、何時しかその跡さえ分らなくなっていた。道には、その石畳の坂をイメージした歩道が設けられている。この丘陵は北 (西) 森陵 (ニシムイウドゥン) と呼ばれ、儀保町にあることで通称、儀保之玉御陵  (ジーブヌタマウドゥン)、または宝口 (タカラグチ) とも呼ばれていた。この陵は、王妾などを葬ったとの口承があるが、尚穆世子尚哲の幼長子尚法、三子尚治など、この墓陵への一次葬の後、玉陵と西玉陵へ移葬されたと由の中山世譜にはある。それから判断するとシルヒラシ (汁干らし、一次葬) 墓としても使用されていたことがわかる。このシルヒラシは沖縄の風葬の洗骨による埋葬文化の中であったもので、遺体を洗骨までの間に安置しておく場所を指す。亀甲墓などの中に設けられている。これが一次葬で、遺体が風化した後洗骨し骨甕に入れ正式な埋葬となる。


北森 (ニシムイ) 美術村跡

北森陵からゆいレールが走る県道82号線 (那覇糸満線) を隔てた丘の上には、終戦3年目の1948年に北森 (ニシムイ) 美術村が誕生している。あまり知られていないのだが、この美術村は米軍の貢献が大きかったそうだ。戦後、沖縄統治に当たった米国軍政府関係者の中には、ジェームズ・ワトキンス少佐やウィラード・A・ハンナ大尉など、沖縄文化の保護育成に熱心な者がいた。彼らは沖縄諮詢会の下に文化部芸術課が設置されると、そこに美術技官の肩書きで芸術家たちを雇用し、後進の指導や展覧会の開催、その他米軍の注文に応じて風景画や風俗画を、さらにはクリスマスカードの制作を行わせていた。これが美術村ができる背景になる。1948年、軍政府の南部へ移動で文化部芸術課が廃され、美術技官の仕事はなくなった。画家達は沖縄諮詢会の松岡政保工務部長の助けも得ながら、首里市儀保町にあった、北森を新たな活動拠点として選び、そこに集まって移り住み、住居とアトリエを設けた。これが美術村だった。県道82号線はかつての真嘉比道 (マカンミチ) で、道幅は狭く丘陵は県道82号線の上まであった。県道82号線工事で美術村の半分は削り取られている。この工事が美術村の終焉のきっかけだったともいわれている。後日、出会ったおじいは琉球政府で働いており、当時の米軍内部を見ていた。おじいは沖縄では米軍は悪く言われるのだが、それ以上に沖縄復興に貢献していたという。もっと公平な立場で沖縄戦後を見る必要があると少し残念そうだった。

ここには米軍からの建材提供によりアトリエを建て、絵の具、画板などの画材を提供を受け、芸術創作活動を開始した場所だった。 

屋部憲、名渡山愛順、大城皓也、金城安太郎、具志堅以徳、山元恵一、玉那覇正吉、安谷屋正義、安次嶺金正など多くの画家が活躍し、終戦直後の沖縄美術界を復興する拠点となっていた。

跡地は閑静な住宅地となり、一部はここで活躍した芸術家の作品をパネル展示していた。


神ヌ坂 (カミヌフィラ)

美術村跡の東端から拝殿小 (グヮフェーディングヮ) と呼ばれたニシムイノ御イベや御願小 (ウガングヮ) と呼ばれた御嶽までは、かつては神ヌ坂 (カミヌフィラ) と呼ばれていた坂道があったそうだ。神が宿る地への坂という事でこの様に呼ばれていた。北森 (ニシムイ) は米占領軍によって掘削され、神ヌ坂も環状2号線の大規模な開削によって跡形もなく消滅している。美術村付近にはまだ細い石畳の路地が残っている。神ヌ坂はこのようなものだったのかも知れない。道は末吉公園の端ととおり北森に沿って、ワイトゥイで削られた丘陵上 (写真右下) まで続いていたそうだ。



儀保公民館

美術村の北側には儀保公民館がある。今はもうないのだが、この隣は製麺所、近くには発電所が置かれていた。公民館の前庭の一画には三つの墓が置かれ、その一つは尚氏浦添家の墓と書かれている。


儀保大道 (ジーブウフミチ)

儀保公民館の北側は末吉公園になっており、その公園の中の道が儀保大道 (ジーブウフミチ) だった241号線 (石嶺本通り) に通じている。241号線のワイトゥイ (後述) から儀保学校所があった桃原へのカーブまでを、かつては儀保大道 (ジーブウフミチ) と呼んでいた。現在は、県道那覇糸満線 (環状2号線) と交叉する儀保十字路までを県道5号線 (石嶺本通り)、十字路から南県道28号線 (桃原本通り) となり、儀保大道は断ち切られてしまっている。首里王府時代は儀保大道から東側が上儀保村、西方が下儀保村だった。


黄金豊饒神(クガニホウジョウジン)

儀保大道脇には北森への入口がある。そこには鉄格子で塞がれた洞穴の前に香炉が置かれた拝所があり、黄金豊饒神(クガニホウジョウジン)と書かれている。この拝所についての情報は見当たらなかった。


北森 (ニシムイ)、北森御嶽 (ニシムイウタキ)

ここは首里の最北で、首里王府時代から1920年まで首里と西原間切末吉村の境だった。丘陵は東の虎頭山まで続いていて、首里城の北側を守る自然の城壁だったので、北森 (ニシムイ) と呼ばれていた。(古文書などでも西森と書かれているものもある) ここにあった「西森の小松」は首里八景の一つで、北森の並松は見事だったという。

御嶽に向かう道沿いには香炉が置かれたいくつかの拝所が造られている。

この丘陵の東側にある北森御嶽は国頭 (正則) 王子が恩を受けた島津光久の厄難消除を祈願するため1657年に弁財天堂を創建したと伝わる。この国頭正則は、国質として鹿児島に滞在していた時に時島津家久に従って大阪夏の陣に出て、国頭左馬頭を名乗った国頭按司正弥 (馬場彩) の子息にあたる。また、古くから儀保村の火の神も祭られていたといわれている。沖縄戦後、米占領軍による道路舗装用の石粉砕石で破壊され、1960年代初頭まで覇市の砕石場となっていた。一部残った北森の中には琉球国由来記にある「北森ノ御イベ」の依代とそこへの階段が残っている。拝所には「自然神 北森軸の神 (十二神)」 と「儀保町土地地盤 守護神 火の神」と書かれている。御嶽の前には香炉が並べられているが、これは拝屋が置いたもので、御嶽とは直接関係はない。


儀保観音菩薩、子宝観音

拝所のある丘の左側に回り込んだところには広場があった。慈母観音菩薩、子宝観音と書かれている。


烽火台 (ほうかだい) 跡、竜宮神

更に道を進むと、北森 (ニシムイ) 頂上に着く。平場の広場となっている。ここは烽火台跡という。船を監視する場所だった。 船が入り江を上ってくると、この岩の上で狼煙をあげて渡来目的を尋ね、船からの返答を受けて再度狼煙をあげ、首里城へ渡来目的を連絡したといわれている。 現在烽火台は岩を残すのみで、広場の端に竜宮神の拝所が置かれていた。


割り取り (ワイトゥイ)

かつては北森は東の虎頭山まで続いていたのだが、切り通しで儀保大道が通り、分断されている。沖縄ではこの切り通しを割り取り (ワイトゥイ) という。この場所は首里のワイトゥイとして知られていた。1931年~33年にかけて沖縄県下一斉に道が整備された際、虎頭山稜に連なる北森 (ニシムイ) も割り取られ、現在の県道241号線 (石嶺本通り) が開通した通る様になった経緯がある。


龕屋跡

割り取り (ワイトゥイ) から県道241号線 (石嶺本通り) を渡り虎頭山稜に続く丘を登る。平良市 (テラマチ) のマチンチジから北森の稜線を行く里道で、神ヌ坂 (カミヌフィラ) 等などに通じていた。この里道脇には龕屋 (ガンヤ) があったと伝わっているが、ワイトゥイ (割り取り) で消滅している。真偽は定かではないが、龕屋近くには、琉球古典歌劇組踊り「執心鐘入り」の鬼女のモデルとされる一途な娘の墓があったとも伝わっている。(平良町のフシマントーの脇にあったとする伝承もある。)


儀保括り (ジーブタビリ)

北森 (ニシムイ) が虎頭 (トゥラジ) 山稜に繋がっていた1930年代初頭まで、東の虎岩山と北森の間の最も括れた地点がこの場所で儀保括り (ジーブタビリ) と呼ばれていた。察度が浦添より首里へ遷都した際も、この括り (クビリ) を使ったと推測されている。


儀保殿内ヌ御待所 (ジーブドゥンチヌウマチドゥクル) 跡

ワイトゥイの虎頭山の丘陵の西端の上には汀志良次村にあった儀保殿内が管轄する西原間切、浦添間切、宜野湾間切、中城間切、越来間切、美里間切、具志川間切、勝連間切、与那城間切、羽地間切、本部間切、今帰仁間切、慶良間二間切 (渡嘉敷、座間味)、粟国島、渡名喜島など16間切の祝女 (ノロ) たちが、儀保殿内参内の際に待機した御待所 (ウマチドゥクル) 所になる。 中頭や国頭から来るノロたちが首里王府の北の入り口にたどり着き、一休みして、儀保殿内へ参拝する身支度をしていたそうだ。


大刃ヌ口 (タキヌクチ)

この場所は1609年の薩摩の琉球侵略の際に激戦地だったという。その事からタチヌクチと呼ばれてたが、いつしかタキヌクチに変化している。クチ (ロ) は、端から転じた 「あたり”」や 「ほとり」を指す沖縄島中南部方言だそうだ。


亀川小路 (カミガースージ)

大刃ヌ口 (タキヌクチ) から道を下って行くと、右側に降りる小道が分岐している。この小路には首里王府末期、宜湾朝保や川平朝範と共に三司官の任にあたっていた亀川盛武の屋敷があった事で亀川小路 (カミガースージ) と呼ばれている。


亀川盛武生家跡

亀川小路 (カミガースージ) にはその名の由来となった亀川盛武が生まれた屋敷跡がある。亀川盛武は反日派士族 (頑固党) 頭目で1872年 (明治5年) には老齢を理由に既に三司官は辞していたが、琉球併合問題で宜湾朝保を激しく糾弾して辞職させ、親清的な持論を展開して琉球王国の体制護持を唱えた。 直孫の盛棟は琉球併合確定 (廃琉置県) 後の1884年 (明治17年) に中国へ亡命し、後に親清派の命を受けて脱清し帰国、沖縄県警察本部に投獄され拷問を受けたという。


儀保の寺 (ジーブヌティラ)、大日山盛光寺 (西来院跡)

亀川小路 (カミガースージ) から下の道に戻り降って行くと盛光寺がある。このと盛光寺がある場所には、かつては西来院があり、儀保の寺 (ジーブヌティラ) と呼ばれていた。1609年 (尚寧21年) 薩摩の琉球侵略の時、山川の千手院に隠居していた菊隠和尚は王府に呼び出され和睦使を命ぜられた。菊隠は尚寧王が俘虜となって薩摩に連行された時に同行しており、これらの功労によって1611年 (尚寧23年) に、この地を下賜され西来院を建てている。このことについて西来院記は、「寔免三国人鏖之難者、是師力也」 (国人みな殺しの難を免れたのは師の力なり) と記している。菊隠は僧侶でありながら、薩摩・琉球両国の要請で加判役に列し、大里間切を領していた。西来院は1873年には金城に遷され、更に1890年 (明治23年) 赤田村に再遷し、達磨峰西来院して現在に至っている。

西来院跡地に建てられた盛光寺の創建年代は不明だが、1660年代に天久聖現寺住持温泉禅師が隠居して久米村に盛光寺を建立したといわれ、1882年 (明治15年) に久米村からここ首里儀保村に移建している。

また、盛光寺は首里十二干支詣りの未と申の御願寺で、大日如来を安置している。

以前は盛光寺境内で 「のまんじゅう (儀保まんじゅう)」 が製造販売されていた。現在でも首里名物として、久場川の店で販売されている。のまんじゅうを販売するこの店は創業100年以上の老舗で、元々は儀保駅近くに店を構えていましたが、2004年に現在の場所に移転している。大きく食紅で描かれた「の」の文字の饅頭で、分厚い皮と程よい甘さの粒あん、蒸すときに敷月桃 (サンニン) の香りするそうだ。のまんじゅう (儀保まんじゅう) を味わってみたく、後日この店に来たのだが生憎、店は閉まっており饅頭は買えなかった。


与那原殿内小路 (ヨナバルドゥンチスージ)

儀保ヌ寺の東側を通っている道は馬氏の出色与那原殿内の屋敷があった事で殿内跡の小路地を与那原殿内小路 (ヨナバルドゥンチスージ) と呼ばれている。

首里古地図では西来寺の斜向かいが与那原殿内が描かれている。現在は天理教の教会となっている。


与那原良矩の生家跡

与那原殿内小路を抜けるとゆいレールの儀保駅の場所に出る。儀保駅近くには琉球王国時代の三司官だった与那原良矩の生家跡がある。与那原家は馬良詮大浦添親方良憲を始祖とする馬氏小禄殿内の分家で、大里間切を領有する総地頭家だった。与那原良矩のほか、王国時代末期の三司官与那原良恭、良傑親子など9人もの三司官を輩出した名家だった。

与那原良矩 (唐名 馬国器) は1718年生まれ、1762年進貢正使として中国へ赴き、1765年その報告として鹿児島へ上国している。1769年三司官に就任し1796年に辞任するまで28年間務めた。 この間に琉球王国の刑律典である琉球科律の編さんなどにも携わった。

道徳を重んじた人といわれ、教訓的な琉歌を数多く残し、後に「君子親方」と称された。 また、和文学にもすぐれ、沖縄三十六歌仙の一人に数えら れている。 1797年死去、享年80才。与那原良傑は琉球王国最後の三司官として尚泰王の東京行に随行し、3年後の1879年 (明治12年) に尚家が侯爵家となり、その整理、護持に尽力し、在職10年余にして帰郷後、病没している。


これで首里儀保町をぐるりとまわった事になり終了。今日も一日中晴天で、少し暑いぐらいだった。今日は家に帰ると約20kmを歩いていた。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)