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柳津町「軽井沢銀山の大煙突」 2017年 晩秋

2017.11.21 12:06

“軽井沢”と“銀山”という名前に興味がわき、柳津町の「軽井沢銀山の大煙突」を訪れるため、JR只見線の列車に乗車後に根岸駅(会津美里町)から銀山街道を自転車で走り、現地に向かった。

 

“軽井沢”とは柳津町軽井沢地区を指し、会津若松城(鶴ヶ城)から西に直線距離で約17kmの位置にある。柳津町軽井沢地区は、旧会津藩領軽井沢村から東川村、西山村を経て、昭和の大合併で河沼郡の柳津町と合併(1955(昭和30)年)し、大沼郡から移籍した経緯がある。

 

“軽井沢”といえば長野県の避暑地が有名だが、全国にその名はあるようで、

・『古語・方言で荷物を背負って運ぶことを「かるう」ということから、峠に続く谷間のことを呼んだという説や、枯井沢(水の枯れた沢)という説がある』(Wikipedia)
・『軽石や火山灰土など火山堆積物に由来する地形につけられた地名だといわれている』(軽井沢観光協会)

などの由来がある。

 

“銀山”は1558(永禄元)年に軽井沢村民の松本左文治が発見したといわれる、銀鉱山だ。

戦国期の会津領主・蘆名氏によって採掘が開始され、閉山-加藤嘉明によって再開-閉山-保科正之によって再開-閉山-会津5代藩主・松平容頌の世に再開・閉山...と閉山再開を繰り返しながら、会津(藩)の財政を支えた。

その後、1879(明治12)年に古庄銀三郎古河市兵衛大島高任の経営により再開され、大島が国内に持ち込んだオーガスチン精錬法を導入するなどし、1893(明治26)年に年産4トンを記録し全国6位の銀山となる。しかし、金本位体制の確立を受けて1896(明治29年)に閉山された。

この「軽井沢銀山」は福島県で一番早く電灯が灯る(1895(明治28)年)など活況を呈したが、現在は溶鉱炉の「大煙突」と精製後のカスが積み上がった「ズリ山」、そして「軽井沢銀山碑」が残るのみとなっている。

   

(会津)銀山街道は、会津若松城下と軽井沢銀山を結ぶために整備されたもので、街道は更に奥に延び、銀山峠ー西山温泉ー石神峠ー美女峠ー吉尾峠を経て小林(現只見町)で沼田街道に繋がっている。

街道の概要は2014(平成26)年に三島町に設立された「銀山街道を活用して地域を元気にする会」のホームページに分かりやすい図が掲載されている。*参考:「銀山街道を活用して地域を元気にする会」URL:https://www.ginzan-kaidou.com/

   

 

今回は、次の予定を立て、旅を始めた。

・只見線の根岸駅に接する銀山街道を自転車で走り、軽井沢に向かう

・「軽井沢銀山の大煙突」とその周辺を見る

・「軽井沢銀山の大煙突」から銀山街道を離れ県道53号(会津高田柳津)線を北進し、柳津町市街地に向かう

・柳津町内では名物「ソースカツ丼」を食べ、足湯に浸かり、「あわまんじゅう」を食べる

・会津柳津駅から只見線の列車に乗り、帰宅の途につく

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF) (2013年5月22日)

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の秋

 

 


 

 

早朝、磐越西線の始発列車に乗るため郡山駅に向かった。

駅頭で自転車を折り畳み、輪行バッグに入れ、切符を購入。自動改札を通り1番ホームに停車中の列車に飛び乗った。 

 

5:55、会津若松行きは定刻に出発。切符は平日ということで「Wきっぷ」を利用。

列車が郡山富田、喜久田、安子ヶ島、磐梯熱海を過ぎると、中山宿あたりで外はうっすらと雪化粧していた。

   

沼沢トンネルで中山峠を抜け、会津地方に入ると一面の雪景色。猪苗代手前で車窓に目を遣ると、「磐梯山」は雪雲に覆われ見えなかった。

しかし、終点が近づくにつれて空が明るくなり、雪の量は減っていった。

 

  

 

7:09、会津若松に到着。一旦改札を出て、駅舎を見ると空に雲はかかっていたが、周辺にはまったく雪が見られなかった。切符を購入し、再び自動改札を通り、只見線のホームに向かった。

 

連絡橋から、南西の西部山麓方面の空を見ると青空が広がっていた。下に目を向けると、改札と陸続きの2番ホームに到着した喜多方発の列車からは多くの高校生が下り、列をなして出口に向かっていた。会津若松が会津地方の教育の中心として存在していることを改めて思い知った。

   

只見線の4番線に向かう。しばらくすると、遅れてきた折り返しのキハ40形が入線した。

  

7:37、会津川口行きの列車は、多くの高校生を乗せ出発。下車する根岸までの運賃は240円。

  

列車は七日町西若松でも多くの乗客を乗せ、会津本郷を経て会津高田で県立大沼高校の生徒を降ろしたものの席は県立坂下、会津農林高校の生徒で埋められていた。

  

 

 

  

 

8:11、定刻に根岸に到着。乗降客は私一人。列車が向かう北の空は灰色の雲に覆われていた。「軽井沢銀山の大煙突」は西北。天気が心配になった。

  

南、列車がやってきた方向に目を向けると青空が見えた。

   

輪行バッグから自転車を取り出し、組み立てた。

  

8:18、ホームの先に接してる銀山街道(県道59号(会津若松三島)線)を、西に向かって自転車を走らせた。

 

西部山麓を見ると、上部がうっすらと雪を被り、晩秋の紅葉に味わいを与えていた。

 

奥に見える「明神ケ岳」(1,074m)は全体に冠雪しているようだった。

  

 

旧街道を進み米田地区に入ると、前方に山門が見えてきた。

  

「中田観音」として親しまれている曹洞宗普門山「弘安寺」だ。建立は1279(弘安2)年で、「軽井沢銀山」開山(1559年(永禄2)年)の280年前になる。境内は来年2月末までの予定で、改修工事が進められていた。

  

本尊は高さ187cmの銅造十一面観世音菩薩で、地蔵菩薩・不動明王を脇侍し、国重要文化財に指定されている。また、日本遺産「会津三十三観音」の第30番札所ともなっている。

1915(大正4)年9月15日、世界的細菌学者・野口英世が黄熱病の現地研究に臨む前に一時帰国した際、月参りを欠かすことのなかった母シカとお礼参りした。当時の写真が観音堂内にあるという。

次の機会、改修工事の終わった「中田観音」を訪れたい。

  

  

先を進む。緩やかで、長い長い坂を上った。

 

沿道の柿は熟れて、秋の終わりを感じさせてくれた。

  

上り切ったその先に、町の教育委員会が設置した「旧銀山街道」の案内板があった。

 

その脇には道標があり、右に銀山と彫られていた。

左は上部が掛けているため不明だが、“若松市至 約三里”、“米澤至約○○”と読めるだろうか。ここから銀山街道の起点である大町辻(現会津若松市)まで11.3kmであるため、“若松市至”は間違いないと思われた。“米澤”は若松を起点とした米澤街道と、かつての若松城主である上杉氏が移封した先であるということで当てはめてみた。

     

「旧銀山街道」の案内板の向かいには「新鶴温泉 健康センター」がある。今回のサイクリングを会津柳津駅(発)-根岸駅(着)とした場合、汗を流すことができる貴重な場所となる。今後機会を作り、是非利用したいと思った。

 

  

先を進む。かつての宿場である、佐賀瀬川地区の住宅の中を通り抜けた。

  

緩やかな坂を登ってゆくと、両脇にはうっすらと雪が積もっていた。この後、雪の量が増えた。

 

中江橋を渡った後、県道は佐賀瀨川に沿って上ってゆく。

   

8:49、松阪地区を通過する。

 

松沢橋に差し掛かったところで、前方に巨大な"壁"が見えてきた。

 

福島県が設置した農地防災用のアース式「二岐ダム」(1969年築)。ゲートは無く、余水吐となる横溢流側溝が特徴的だ。

 

ダム高は30m、長さは123m。天端の標高は379.90m。 *出処:会津宮川土地改良区「二岐ダム

 

灌漑期間が5月17日~6月20日ということで、貯水されていない。事業費7億800万円の躯体が来夏の出番に備え全身を露わにして横たわっていた。

  

県道は、ダムを過ぎると下り坂になり、佐賀瀨川に並んだところで緩やかな上り坂となった。

  

さらに進むと、前が開けバイパスとなる。私は旧道を進むためここで右折した。

 

佛沢橋を渡り、雑草に覆われた旧道を進む。

   

9:08、二岐集落に到着。二軒の無人の家が残っていた。一つは手入れされた家。

 

もう一つは第2二岐橋のたもとに、いまにも崩れそうな廃屋。

2014年のストリートビュー(Google®)を見るともう一軒あったようだが、そこは更地になっていた。

    

旧道を進もうと“上平”の標識を確認するが、その状態に唖然とした。雪の下には落葉が積もり、木々の枝や笹が旧道を覆っていたのだ。

 

国土地理院の地図にも旧道は記載されていたので、安心していたのだが...。

    

一旦躊躇するが、気合を入れ直し、自転車を抱えこの“道”を進むと、石碑があった。“川上尚朝神”と読めた。二岐集落で佐賀瀨川と合流する、二岐川の源流域となっている「明神ヶ岳」に関連があるのだろうかと思った。

   

5分ほど進むと“道”は、再びバイパス(県道)に合流。路面は雪に覆われ、シャーベット状だった。

   

9:22、上平地区の西端に到着。少し集落の様子を見てから、また県道に合流し先を進んだ。

  

ここもバイパス化されているようで、大型車も相互通行可能な道が続いた。県道59号線は二岐集落付近で県道53号(会津高田柳津)線と合流し、軽井沢地区で分岐している。

  

バイパスはカーブも傾斜も緩やかで、自転車でも苦にはならなかった。

   

緑資源幹線林道「飯豊・桧枝岐線」の分岐点を過ぎ、坂が少し急になると市野地区の標識が現れた。

 

この先を少し進み、左に入る小道に立って見下ろすと“南沢集落”があった。進入路は荒れ、空き家が点在していた。

  

県道の右側を見上げると墓地があり、新しい墓石も目立った。生まれた地に骨を埋めたいとの思いを感じた。

   

さらに県道を進むと、大きな杉の立ち並んでいた。いつ植えられたものだろうか、と思った。

   

まもなく峠の頂点となり、下り坂となった。地理院地図にはこの峠の名称が無かったが、機会があれば古地図などを 見て調べてみたいと思った。

    

路面は変わらずシャーベット状だったため、自転車でも問題なく下る事ができた。ただ道幅が乗用車がすれ違うにはギリギリと思え、車の往来に気を遣いながら下った。

   

7つの急カーブを過ぎ、緩やかに蛇行する箇所にさしかかると前方に色づきの残る山肌がうっすらと積もった雪に映えて、美しい景観を創っていた。

   

 

 

9:41、 会津美里町から柳津町に入った。

  

県道脇の森林では、伐採が行われていた。

 

傾斜がほとんどない道を蛇行しながら進む。気持ちが良かった。

   

  

まもなく、前方が開けた。

    

9:46、軽井沢地区に到着。

 

坂を下りながら集落を抜け、自転車をおりて見上げた。

   

この先の、軽井沢橋から山側(南)を見る。銀山川(写真の右側、左は貉沢)が細く流れていた。銀山川は柳津の中心部、福満虚空蔵尊圓蔵寺の門前で只見川に合流している。

  

さらに県道を進むと、T字路が見えてきた。

 

「軽井沢銀山」の脇を通り「銀山峠」に向かう県道59号(会津若松三島)線の新道だ。旧道である本来の「銀山街道」はこの先、塩野集落付近から峠に向かって延びている。

  

左折すると、まもなく“銀山より先車両通行不能”の標識が現れた。県道59号(会津若松三島)線は未成線で、車両の通り抜けができない。

  

よく整備された道を進むが、新道は山を切り開き造られたようで、走りながら見るべき景色もなく、傾斜があり長い道のりはきつかった。

 

  

 

約10分ほどで登坂を終え、T字路に到着。まずは右折、県道59号線の様子を見る事にした。

 

県道59号線は変形十字路ですぐに、塩野集落から延びてきた「銀山街道」と合流している事を確認できた。

 

この合流点を左折すると、“未成県道”である県道59号線が「銀山街道」として銀山峠に向かっていた。

 

雪が降っていなかったら、この道を歩き「大煙突」が見えるところまで往復しようと思っていた。来年開催されるであろう「銀山街道トレッキング」に参加して、歩くことにした。

*参考:福島県会津若松建設事務所 地域づくりニュース『歩く県道 (銀山街道)』

平成23年度Vol.1(PDF)平成25年度Vol.1(PDF)平成25年度Vol.2(PDF)平成26年度Voi.3(PDF)平成27年度Vol.1(PDF)平成27年度Vol.2(PDF)

 

 

  

道を引き返すと、T字路の角に「軽井沢銀山の大煙突」と書かれた標杭が立ち、その先に銀山跡地の跡地が広がっていた。

軽井沢銀山の大煙突」はオーガスチン精錬法が導入された1886(明治19)年の建造と言われ、福島県近代化遺産に登録さている。

   

 

道を進むと、二階建ての民家があった。無人だが、荒れた印象はなかった。

 

続いて、右手に平屋の民家が現れた。この家を見た瞬間『誰か居るのでは!?』と思ってしまうほど、人手を感じさせる家屋だった。

ここは「銀山」の操業当時に事務所を兼ねていたそうで、古庄さんという方が最近まで住まわっていたという。 *銀山の共同経営者であった古庄銀三郎氏との関係は不明

   

 

そして、山の方、南に目を向けると今日の目的地である「軽井沢銀山の大煙突」が見えてきた。

  

10:11、「軽井沢銀山の大煙突」前に到着。只見線根岸駅を出発してから約2時間かかった。

 

案内板はステンレス製の真新しいもので、文字はしっかり判別できた。

福島県登録近代化遺産
軽井沢銀山の大煙突
 軽井沢銀山は永禄元年(1558)に発見されて以来、三百年以上に亘って栄枯盛衰を繰り返しながらも会津藩の財政の支えになってきたが、明治に入って個人経営になり、同12年、当時鉱山王と云われた古河市兵衛によって経営された。同19年、精錬の新技術であったオーガスチン工法が取り入れられ大煙突はそのために建てられた。
 この措置で鉱山の業績は大きく向上し、最盛期の明治26年には、年間産銀量約4tに達し、全国鉱山の第六位にランクされた。(鉱山史話) しかし、明治28年、金本位制の実施などで銀価が大暴落し、同年中に採鉱を中止、そして二年後には設備を解体して草倉鉱山と足尾銅山に送られて軽井沢は閉山になった。


煙突の規模
管理者 柳津町 建立 明治19年(1886)
 角型レンガづくり、底辺の一辺 4.2m、高さ約25m、使われているレンガの大きさ 幅14cm・長さ28cm・厚さ6cm、現地で製造されたものと伝えられている。
 平成4年、関係者から煙突本体が柳津町に寄贈されたのを期に、倒壊を防ぐため、下部土台部分のコンクリ巻工事を行った。

   

 

案内板の建つ場所から振り向いて「銀山」跡地の様子を眺めたが、当時をしのばせるものは何もなかった。眼下に見える小屋は物置のようだったが、鉱山を思わせる雰囲気ではなかった。

 

東に目を向けると、最後の秋の色付きを見せる森があった。この景色は当時から変わらぬものだろう、と思った。

 

 

「軽井沢銀山の大煙突」は積み上げられたレンガの崩落が進んでいるため、頭上に注意しながらギリギリまで近づき、見上げた。下部土台部分にはブルーシートが巻かれていた。保護のためだろうが、風化し劣化が進んでいた。

   

脇を通り抜け、反対側から見上げる。順光でキレイに見えた。

下部土台部分の四辺の色が、コンクリ巻工事(1992(平成4)年)の結果変わり、一体感が失われているように感じた。柳津町が民間からこの大煙突を譲り受けた際、倒壊の恐れと判断し補強の為に緊急に工事したという。しかし、この工事が原因の一部となり柳津町文化財への登録は見送られている。 *出処:「平成29年第2回柳津町議会定例会会議録」p45~46

  

再び、煙突に近づき表面をよく見ると、剥離が起こっていた。

 

先端は激しく損傷していて、多くのレンガが崩れ落ちていた。

このレンガの崩落について筑波大学名誉教授である下山眞司氏がブログで以下のように述べている。*出処:建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える「会津柳津・軽井沢銀山の煉瓦造煙突-2」(2008年4月17日)

[引用](煙突の崩落は)冬季、煉瓦の目地が凍結して破裂し、接着力を失ったからだ。レンガの中にも、凍結で破砕したものもあるかもしれない。目地が凍結するのは、使われていた目地材がセメントモルタルではなく「砂漆喰」だからである。レンガが破砕するのは、レンガが吸い込んだ水分が凍結するからだ。(中略)製錬所が稼動を続けている間は、このような崩落は起きなかっただろう。煙突は、いつも暖められているからである。そして、稼働中であるならば、セメントモルタル目地よりも、漆喰目地の方が、強かったと思われる。以前触れたように、漆喰目地には弾力性があるからだ。

   

コンクリ巻工事が行われた基礎部分も崩壊が進んでいて、『このままで大丈夫だろうか』と心配になった。

 

煙突の周囲には雪を被ったレンガが多数あった。

この「大煙突」について柳津町は昨年度に約200万円の予算を計上し、足場を25m組み無人カメラを使い、今年2月に調査を完了している。 *出処:「平成28年第4回柳津町議会定例会」p56

この調査報告書では『煙突に極端な傾きやずれ、煙道内の損傷はなく、煙突そのものが直ちに倒壊する危険性はない』『頂部及び柱脚部の凍害が深刻で、頂部については崩落または崩れかけており、強風などの外的要因でれんがが落下する危険性があり、柱脚部においては凍害が進行している状況であることから、安全対策を講じることが適当である』と意見されているという。 *出処:「平成29年第2回柳津町議会定例会会議録」p45


 

「大煙突」の先は急な坂になっていて、「ズリ山」に続いている。

 

今回は、時間の関係もあり、ここで引き返す事にしたが、気になっていた“沢”の源が見えた。

 

付近の沢がせき止められ、道に流れ込んでいるのだろうか、勢いよく流れているようで、「大煙突」の周囲にも大小の丸い石が散らばっていた。

  

この“沢”は道に沿って流れ、舗装面にも石を拡散させ、足元を不安定にしていた。

  

 

「大煙突」に通じる道の脇には「軽井沢銀山碑」があった。

碑文は漢文で、表面は汚れで一部文字の判別が難しいこともあり、詳細を理解することは難しかった。冒頭には『正五位 子爵 松平容大 篆額 』とあり、『明治27年8月 古河軽井沢銀山所長 鈴木誠 介書』と締めくくられていた。“松平容大”は会津松平家の第11代当主で、戊辰戦争当時の会津9代藩主・松平容保の嫡男だ。ちなみに第10代当主は、容保の養子となっていた徳川15代将軍・慶喜の実弟・喜徳である。

  

10:36、「軽井沢銀山の大煙突」で30分ほど滞在し、只見線の会津柳津駅に向けて再出発した。

  

シャーベット状の県道59号線の新道を快適に下り、県道53号線にぶつかり左折すると目の前に除雪用の重機の鮮やかな黄色が目に飛び込んできた。「福島県土木部 除雪ドーザ WA380」「国土交通省交付金除雪機械」と車体に文字入れされていた。これから冬本番に向けて活躍することだろうと思った。

   

銀山沢にかかる塩野橋を渡り塩野地区を通り抜け、緩やかな傾斜とカーブが続く道を自転車で快調に下った。

  

欄干が真新しい銀山大橋で銀山川を渡り、短い平坦部を走る。

  

その後、一転登り坂となり、ペダルを漕ぐ足に力を入れて進むと、前方が開けてきた。

   

峠を越えて、見下ろすと猪鼻地区の家々が密集していた。

   

二つのヘアピンカーブを慎重に走った後、集落の中を通り、広域農道を渡り、その後は、県道53号線は平坦な道が続いた。

  

銀山川の両岸に家が点在する黒滝地区を走り抜ける。いつの間にか雪は見当たらなくなり、落ち葉が目立つ晩秋の光景となっていた。

   

集落を抜け、銀山川の狭い谷を進む。

 

すると、前方に鉄道橋が見えてきた。

 

只見線の「銀山川橋梁」だ。

  

この先に分岐が現れ、“会津柳津駅”と書かれた標識が建っていた。ここを右折して、柳津町の市街地の中を進んだ。

 

 

 

11:13、朱色が鮮やかな銀山川に架かる、中の橋に到着。

 

中の橋から下流を見ると、只見川と国道252号線の柳津橋が見えた。

   

観月橋に移動し、銀山川の河口(写真、右端)を見る。銀山川は福満虚空蔵尊圓蔵寺のすぐ脇で只見川と合流している。

銀山川では錦鯉や緋鯉の群れを見る事ができたというが、只見線の運休に追いやった「平成23年7月新潟・福島豪雨」でこの魚群は消えたという。

 

昨年の8月1日、錦鯉や緋鯉の群れを復活させるため稚魚の放流が行われたという。地元紙・福島民報が伝えていた。

  

観月橋のたもとに戻り、只見川に架かる国道252号線の柳津橋を見る。周囲が色を落としている中、真っ赤な躯体は目立っていた。瑞光寺橋と並び、柳津町の象徴だ。

   

只見川に目をこらすと、カモたちが優雅に泳いでいた。

  

 

 

再び中の橋に戻り、銀山川を渡り、前回、休業で訪れる事ができなかった「すゞや食堂」に向かうと、今日は開いていた。入口に居た女将に確認し、店内に入った。

 

12時前ということもあり、私が本日最初の客のようだった。テーブル席に座り、躊躇なく「ソースカツ丼」を注文。

   

  

10分ほどで料理が運ばれ、卓上に並べられた。“柳津ソースカツ丼”と中華風スープ、おしんこの組み合わせだった。

 

卵焼きの柔らかい香りと、カツの香ばしさに空の胃が刺激された。

食べ始める。

期待に違わぬ旨さ。カツは薄いが、メシとキャベツの千切り、卵焼きと違和感なく食べられる柔らかさで“柳津ソースカツ丼”の特徴を一口で確認できた。

箸が止まらず、一気に平らげた。 

  

私の後から入ってきた客人は皆、このソースカツ丼を注文していた。地元の方々ではなかったようで、“柳津に来たらこれ”という逸品に間違いないと改めて実感した。次回は、また別の店舗で食べたいと思った。


 

 

列車の出発まで時間があるため「足湯」に行く事にした。中の橋を再び渡り、只見川沿いに出て、「魚渕」の横を通る。

 

ここには国指定天然記念物である「柳津うぐい」が居る。*参考:文化庁 文化遺産オンライン「柳津ウグイ生息地

 

欄干に身を乗り出し川面を見ると、大きな鯉とともに、うぐいの魚群が確認できた。ここは観光客が餌を投げ入れらる場所になっているようで、魚たちはここで群がっているのだろう。

  

 

 

中の橋から、5分程で「憩いの館 ほっとinやないづ」に到着。玄関脇には赤べこプランターとともに、赤べこ一家の“息子”「もうくん」が置かれていた。

 

館内に入り、直進し階段を下り、無料開放されている「足湯」に入る。平日という事もあってか、中には誰の姿もなかった。

畳の上に座り、ゆっくりと浸かる。少しぬるめだったが、足先からじんわり温まった。

  

今回(冬期期間)は内湯だけだが、外には広く多様な足湯場があった。

この「ほっとinやないづ」は食事や買い物もでき、「斉藤清美術館」や道の駅「会津柳津」が近接していて、少し離れたところに日帰り入浴が可能な公共の宿「つきみが丘町民センター」もある。「足湯」を絡めて、様々な楽しみ方ができるエリアになっている。

  

 

 

「足湯」にゆっくり浸かり後、駅に向かう。福満虚空蔵菩薩圓蔵寺を見上げながら、緩やかな坂を上った。

 

裏参道門の前の楓は、今年最後の色を出し切っているようだった。

 

 

さらに坂を上ると、小池菓子舗が現れた。「あわまんじゅう」をバラで購入し再び駅に向かい、自転車を進めた。


 

 

12:52、会津柳津駅に到着。自転車を折り畳み、輪行バッグに入れてから、無人の改札を通りホームのベンチに腰を下ろした。

  

そして「あわまんじゅう」をいただく。柔らかく、無二の食感に嬉しくなってしまった。

多くの人に、柳津にやってきて店頭でこの饅頭を食べて欲しいと、思った。

 

 

 

13:21、ホームに入って少し待っていると、会津若松行きの上り列車が入線。

    

列車の停車し扉が開くと、多くの客が下りてきた。「第一只見川橋梁」からの車窓を見た観光客のようだった。

紅葉の最盛期は終わり時期外れのような気がしたが、楽しめたのだろうか気になった。お客さんは駅頭に停められた観光バスに乗り、宿に向かうようだった。

   

13:23、私が乗り込んだ列車は会津柳津を出発。切符は今朝郡山駅で買っておいた。

    

 

会津坂下町に入り、列車は会津坂本から七折峠の登坂を開始。その後、塔寺手前で下りになり、しばらくすると、左手が途切れ途切れに開け会津盆地を見る事ができた。ここは伐採や枝打ちなどを行い、会津盆地が見渡せるような“景観創出”を行って欲しい区間だ。

  

杉第二踏切を過ぎると七折峠は終わり、列車は左に大きくカーブし会津盆地の平野部に入って行く。今日は雲に隠れて「磐梯山」は見えなかった。

この後、列車は会津坂下若宮を経て、会津美里町に入りて新鶴と各駅で停発車を繰り返していった。

   

13:57、今日の出発地である根岸に停車。自転車と列車で一周したことになった。


列車は会津高田会津本郷西若松七日町で停発車を繰り返し、快調に進んだ。


 

 

14:23、会津若松に到着。ホームには複数の駅員とスーツ姿の方などが居て、いつもと雰囲気が違っていた。連絡橋に上がり、乗ってきた列車を見下ろすと行き先表示が『団体』と変わっていた。

 

振り向いて電光掲示板を見ると『団体専用14:40会津川口』との表示。

 

紅葉のピークは過ぎ、なんの団体だろうと思い、郡山行きの列車が出発する1番ホームに行くため連絡橋を下りようとすると子ども達の声が聞こえ、階段を下りきると目の前に体育帽をかぶった小学生の一団が居た。

 

聞けば福島大学付属小学校の児童約100人で、先ほどの団体専用「JR只見線奥会津学習列車」に乗って行くのだという。

会津川口から先の予定は判明しなかったが、この時間なのでどこかに泊まるだろう。

この児童達が自らの意思で只見線に乗るのは全線が復旧した後で、「上下分離」運営が定着している頃だろう。復興策が実を結び、彼等がワクワクしながら再乗車することになる事を強く願った。

 

 

この1番ホームと“陸続き”となった2番ホームの壁にはポスターがずらりと並び、高い頻度で交換されている。今回は福島県の新イメージポスター(JR東日本版)だった。*参考:福島県「公式イメージポスター」URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/01010d/newposters.html

 

その隣には、会津若松市の「戊辰150周年記念事業」のポスター。*参考:会津若松市「戊辰150周年」URL:https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/bunya/boshin150/

こちらはこれから盛り上がってゆき、来年の本番には会津若松が注目を浴び、河井継之助が没した地を走る只見線への関心も高まるものと思う。大いに期待したい。

  

15:05、私が乗り込んだ乗車した郡山行きの列車は、1番線から定刻に出発。順調に進んだ。

 

 

 

16:19、郡山に到着。まだ日は暮れず、明るかった。

   

今回も無事に旅を終える事ができた。 

「軽井沢銀山の大煙突」は見ごたえがあり、根岸駅~軽井沢銀山~柳津駅と進む“只見線と輪行”の新しいコースを確認でき、充実したものになった。 


「軽井沢銀山の大煙突」の今後だが、柳津町議会で各案について費用が提示されている。*出処:「平成29年第2回柳津町議会定例会会議録」(PDF) p47

①現状維持案 630万円

②柱脚補強案 620万円

③耐震補強案 A.7,000万円 B.1億9,000万円

④解体撤去案 670万円

今年2月に行った調査を元に算出された金額のようだが、報告書の総括で『解体より安価なコストで補強を行い、地域のシンボルとして生かすことも可能である』と述べられているようだ。

 

同町議会で述べられた柳津町長の意見は以下の通り。 *出処:「平成29年第2回柳津町議会定例会会議録」 p49

(引用)『我々も実際に中をめぐって、鉱口から入って出口までしっかりと歩いてまいりましたが、観光の部類に入るような状態ではありませんでした。(中略)歴史的な文化財としてもそれを指定していくにはちょっと物足りないということを感じております。最終的には、この調査を踏まえて、多くの皆さんの意見を聞きながら、そして、最終的にはやっぱり危険なものと皆さんが認めた場合には最終決断をせざるを得ないと、私はそう思っております』

 

教育長の意見は以下の通り。 *出処:「平成29年第2回柳津町議会定例会会議録」 p48

(引用)『軽井沢銀山、県のほうから産業近代化遺産というふうに指定を受けてはおりますけれども、煙突以外の鉱山の状況を示すものが何一つ残っていないと。そういった中で、果たしてそれを例えば町外の人・町内の人に見ていただいて、どれほどのそういった、何ていうんですか、学ぶものがあるのかということにつきましては、今のままでは大変薄いものだというふうに思っておりますし、さて、それを例えば撤去するということになれば、まさに歴史の一部が全く具体的な姿を消してしまうということになります。
なぜそのような状況になったかということについては、以前にも調査の中で報告がありましたけれども、柳津町と鉱山のかかわりといったものが大変薄いものであると。つまり、鉱山の産物であるものについても、町を経由してではなくて直接、会津平のほうに行っている、高田経由のほうで行っているというようなこともありまして、町との歴史的な結びつきが薄いと。種々そういうような状況がございますので、今後、町内・町外の皆さんの意見をいろいろ聴取しながら判断を進めていくしかないだろうというふうに私としては考えております 』

 

「軽井沢銀山の大煙突」の存在は教育長の“柳津町を経由してではなくて直接、会津平(会津若松)のほうに行っているので、町との歴史的な結びつきが薄い”という言葉が的確に表しているうようだ。

 

 

「軽井沢銀山」は会津若松(鶴ヶ城城下)を支えたもので、柳津町の郊外にある施設を、町が遺産として維持してゆく大義名分は“薄い”と私も思う。 

ここは、広域行政を担う福島県の出番だ。

「福島近代化遺産」に登録されていることもあり、只見線沿線の重要歴史遺産=観光資源として予算を確保し、柳津町と協議を進め、「軽井沢銀山の大煙突」の安全確保と維持保全を行って欲しい。

 

 

(了)

    

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室: 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

  

以上、よろしくお願い申し上げます。