「危機の二十年」 E・H・カー📖
🌑今、かつてベストセラーになったE・H・カー著「危機の二十年」を読むとき、このロシア・ウクライナ戦争を当てはめて読むととても分かりやすく感じます。
その著第7章「政治の本質」において、
「社会において人は、二つの相反する仕方で、彼の仲間に関係する。一面は、人はエゴイズム、すなわち他の人々をおさえて自分自身を主張しようとする意志を主張しようとする意志を示す。他面、人は社会性、すなわち、他の人々と協力し、彼らと善意や友情を交わし合う、関係に入り、はては彼らに従服さえしようとする気持ちを見せる。」
と述べています。
「政治的行動は、道義と権力との整合の上に立つものでなければならない」
「国家の行為は、その力の面においてすべて、戦争に向けられている」
「大国として認められるのは、通常、大規模な戦争に勝利を得た事の報酬である」
と言い、日露戦争で勝った日本もその例であると挙げています。
「安全のためという動機で始まった戦争は、たちまち攻撃と利己主義との戦争になる」
とも言います。
確かに、一国家の政治力=大国であることを世界に示すには、戦争で勝利している事が、世界に認めさせることにつながるのです。かつては、其れでしたが、今は,核保有をもって大国であることを示そうとします。そして、相手国に、世界に、自国の不動の位置を示そうとします。
「力の均衡」
貧富の差も、軍事力の差も、全て、対等であれば、簡単には、相手を「うらやむ・卑下する・攻撃する」などしない・しにくい・同じレベル意識でいると言う事です。
同時に又、逆に、軍事力、特に核の数を同じにすると、常に緊張感が並行するでしょう。
これは、競争力と言い換えられもします。
日本でも明治においてみられるように、近代化を図り、欧米列強諸国と肩を並べる為には、富国強兵が国策となりました。
そして、「軍事的手段の重要性は、国際関係の力の究極の理由が戦争にあるという事実に存する。国家の行為は、その力の面においてすべて、戦争に向けられている。(146P)」と述べる。
日露戦争において、当時の最たる大国ロシアに幸運にも勝ってしまった日本は、正に「大国として認められるのは、通常、大規模な戦争に勝利を得た事の報酬である(第8章第1節 軍事的力)」であったのです。(147頁)
軍事力こそは、大国に対する自国力をアピールする為の第一義的要因である事は人の考えるものです。(動物的に他ならない)
しかも、軍意力が急速に拡大されていく段階においては、常に、多くの事実を隠蔽するフェイクニュースが、あたかも事実であるかの如く発せられるのは、よく散見されているところです。
人は、相手が自分より下であるとか・上であるとかと言うと、尊厳を持つより、攻撃的・差別的な感情を持ちやすいのです。
GDPは、低いのに、核を持てば大国になると言う意識を持つのは、元々が貧困だからです。
貧困から経済を救おうと自助努力するケースと、貧困の為に外に対して攻撃したり、貧困の理由を外に当てはめたりするケースの二つでしかありません。
E-H-カー:1892年生まれ。イギリスの歴史家・国際政治学者。日本では、「歴史とは何か」で有名(岩波新書)。ケンブリッジ大学卒業。外務省・情報省など勤務をなす。
この「危機の二十年」では、1919年から1939年の20年間の背景を主に置き、理想と現実を繰り返す国際政治にあたり、第一次大戦後、理想主義的な国際政治論が衰退していく。権力と道義による国際政治を物語ります。