俳句のクセについて
Facebook蛯名 健仁さん投稿記事『癖』
病とは癖がもたらす教えである 癖、対、癖 みなそれぞれ癖を持つ
善の仮面を被る癖 良い人ぶり戦っている
悪の仮面を被る癖 悪い人ぶり戦っている
中立の仮面を被る癖 己を隠し傍観している
どんな癖にも 理由がある…そして歴史がある
分かってやれなかったのだ 気付こうと努力もせずに ずっと背を向けてきたのだ 本当の理由を偽りだから 分かりにくく姿形を変え顕われては絡み続け その都度苦をもたらしてきたのだ…
この世の現象あの世の声 心と体 過去と今 自と他 鏡のように映し出す仕組み
愛と憎しみ 調和と不条理
善と悪 この世界は 繰り返し繰り返し 闘いながら もがきながら 苦しみながら
変わっている…
嫌悪感を 誰かの所為にしては憂い 世に責任を押しつけては叫び また変わってゆく…
虚言は 隠し続けてきた本音の代弁である 映し出される心象 問われ続ける 因縁因果の巡業
見よ、恐れずに 受け入れよ
時は来た すべて 己の中にあったのだ…
すべての原因は 己の中にあった 癖、なのだ。。。
変わる変わる みな変わる どんどん変わる ありがたいありがたい ずっと…付き合ってくれて ありがとう 学ばせてくれて ありがとう そして さようなら 変わる
どんどん変わってゆく…さようなら わたしの癖 さよなら。。。 癖
2022.3.10 蛯名健仁
https://liaison11.exblog.jp/21281490/ 【俳句のクセについて】より
最近さぼっているが、曲りなりにも俳句を詠み始めてから、早いもので6年ほどになる。
この間に読んだ句はまだたいした数ではないが、最近になって、詠んだものにあるクセのあることが自分で分かった。
●
クセというものは、ほとんどが自分で意識できないものだから、結構クセだらけなのだろうが、意識できたものは、数に明らかに好みがあるということだ。
●
月を入れる場合は、なんとなく五月と八月が好み。
北国育ちだから、暖かい月や暑い月を無意識で選んでいるとしたなら、では何故六月や七月ではだめなのだろうか、ちょっと不思議だ。
●
単なる数の概念を示す数字では、文句なく三が好み。三年、三人、三個等と、詠む時はだいたいが三の数字だ。
どうした訳か、俳句には三という数がしっくり馴染む気がして、詩心がそそられてしまう。
●
この三という数の概念に情緒を感じるというは、なにも私の個人的な感覚ではなくて、おそらく日本人の多くが持つ感覚のようにも思われる。
ミスターの長嶋さんほど、日本人にかつてあれほど愛され、そして今もなお愛されている人はいないだろう。
それは言うまでもなく実力とそのキャラクターに負うのだが、3という背番号と全く無縁ではないように思うのは私だけだろうか。
●
だが、ひょっとすると三を好きなのは日本人に限ったことではないような気もする。
中国の故事に、「孟母三遷」とか「三顧の礼」とかあるのは、中国人もまた三が好きなのかも知れない。
さらにはもっともっと広く、そもそもアジア人は三が好きなのかも知れないなんて思ったりもする。
●
ごさんぱち
と、ここまで書いてきて、若かりし頃に何かの本に「嘘の五三八」とあったことを思い出した。
人はウソをつく時とか誇張する時には、数字ではだいたい五と三と八を用いるというのだ。
そう言えば、植木等は「読まれた鼻毛は五万本」と歌っていたし、「白髪三千丈」とか「三百代言」なんてあって、お江戸「八百八町」に大阪は「八百八橋」、極めつけは「嘘八百」だろう。
因みに、クセについては「無くて七癖」というから、これは本当のようだ。
●
なんだか脇道に逸れて、つい、だらだら取り留めもない話しになってしまった。
締めに、クセのない(と思われる)口直しの一句を。
黄の葉の郵便受に乗りてあり 子瞳
https://blog.goo.ne.jp/kanekuti3515/e/e67f0addcdfd7134890b1bccd04f4205 【七癖の六つまで父似】より
昨日も句会でした。夜久し振りに友人と電話で話していると、だんだん昔の初心の頃の話になって尽きることがなく、気がつくと、アラ、もう11時過ぎよ…、というわけでブログを書く余裕がなく寝てしまいました。ゴメンナサイ!句会のことは後日にでも。
今日は〝父の日〟。もう主人にも私にもとっくの昔に父はいません。
生きていた頃何をプレゼントしたのかなあ…余り記憶がない!きっとシャツとか甚兵衛とか、何か着るものを上げていたような。でも自分が貰う歳になって、何がうれしかった?…と聞かれると、何だろう。あまり思い出せない!
貰ったときはみなそこそこ嬉しかったには違いないが、一生消えないような…すぐに思い出すようなものはありません。
母にはそれがありました。私が大学に入ってすぐの時、なけなしのお金で買って送った〝半衿〟…
母はいつも着物でしたから、私が買えたのはそれぐらいしかなかったのでしょう。高校まではお小遣いなどという決まったお金は貰っていませんでしたので、母に何かプレゼントするという機会はありませんでしたし…。
大学に入って初めて…でも余分なお金は貰っていませんでしたし、バイトも奨学金もまだ後のことで…。どうやって工面したのかしら?でも、母はその半衿を使っても、洗濯していつもアイロンをかけ大事に仕舞っていました。何かの時私に〝これあんたが大学の時送ってくれたもの…〟と、見せてくれたので、〝わあ、もう黄色くなってるじゃん!捨てんさいよ。また買ってあげるから…〟〝いいや、これでいい、捨てられんよ!〟と。
そういえば、去年の形見分けの時〝これ、ちわきさんが使うといいわ〟と言って、義姉が呉れた肩掛け…。〝わあ~これ私が大学…確か3、4年の時、編んで上げたものよ。まだきれいやね~〟〝そうよ、いつも寒い時はおばあちゃんこれ離さなかったから…〟
人生で我が子に初めて貰ったプレゼント…母のその嬉しかった思いが伝わってきます。兄たちはやはり男だからそういうことには気がつかなかっただろうし、また今のような時代でもなかったから。
それで、父は…というと全く記憶がないんです。私の父はサラリーマンではありませんでしたので、全てお金は自分で管理していました。母も私たちも父にお金を出して貰わない限りどうにも出来ませんでしたから、母は時たま内職を、私たちはバイトとかで自由になるお金を少し得ていました。そういうわけで父に頼ることはあっても、してあげるという意識がなかったのかも知れません。歳を取ってからはどこか温泉などへ連れて行ったり、食事に行ったり、またプレゼントもしたり…
今思えば、父は亭主関白でしたからその分寂しい思いをしたのかも知れません。この歳になってみると、父ととことん思いをぶっちゃけて話がしたかったなあ~と思います。子に親の心を伝えるのって難しいですよね。つい怒ったりして。反対に子の心を親に分かって貰うのも…。却って赤の他人の方が話しやすいことってたくさんあるでしょう?
私の句には父や母を詠んだのものが多いのですが、今回の句集『甘雨』にも…
硯洗ふ父の胆気を指先に
気短の父へ走り茶供へけり
七癖の六つまで父似豆の飯
因みに、性格から体型まで私が一番父似と言われていました。また、第一句集の『風聲』にも…
げんこつといふ菓子父の日なりけり
今父が生きていたらきっとこの句集を喜んでくれたでしょう。だからこれで許してね、お父さん! アリガトウ!(今見たら去年の父の日のブログタイトル…「げんこつといふ菓子」でしたので、変えました。スミマセン!)