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NPO法人YouToo

4月10日~女性参政権獲得の日

2022.03.13 23:09

 20世紀の初頭、世界の半分の人々の自由を獲得するための闘いがあちらこちらで勃発していた。世界を覆っていたのは社会でも家庭でも地位を持たない女たちの不機嫌な空気だった。その時代、女性に参政権などなかった。

 アイルランドでモード・ゴンが女性の政治組織「エリンの娘たち」を結成したのは1900年だ。1902年にはオーストラリアで女性に参政権が与えられた。1893年のニュージーランドに次いで、国としては世界では2番目の快挙。英領だったオセアニアの国の女性解放は早かった。しかし本国では苦戦する。

 1903年にマンチェスターで結成された女性社会政治連合(WSPU)は「Deeds not words」(言葉より行動を)を合言葉に女性参政権を求める行動を始めた。しかし、WSPUメンバーのクリスタベル・パンクハーストとアニー・ケニーが自由党の選挙集会で「自由党政府は女性に参政権を与えてくれますか?」と質問すると、即座に警官に逮捕された。1905年のことだ。言葉だけで社会は変わらないと、クリスタルベルの母も姉妹もWSPUで過激に行動した。妹のシルビア・バンクハーストは女性参政権運動を行っている間に15回も逮捕、投獄されている。それでも、シルビアは獄中でハンガーストライキを繰り返し、抗議活動を止めなかった。主にバンクハースト姉妹によって率いられた女性参政権獲得運動家は「サフラジェット」("suffragette")と呼ばれた。Suff-rageは英語で参政権を意味する。メンバーを「サフラジスト」と呼ぶこともある。妹のクリスタルベルは、戦争反対を唱え、常に労働者の側に立つ社会主義者でもあった。

 海外の女性運動は日本でも注目されていた。1912年3月15日、讀賣新聞の「婦人参政権の論戦」欄で「英国に於ける婦人参政権問題の運動は、頗る猛烈で其の過激な活動振りが世界の視聴を驚かしめつつある」と報道されている。

 1913年、大観衆の前で事件は起こった。サフラジェットメンバーのエミリー・ディヴィソンが乗馬中のジョージ5世の前に立ちはだかり、王の馬に衝突して死亡したのだった。9回も投獄の経験のある彼女はその時、「Vote for Women」(女性に投票権を)と書かれたスカーフを持っていたという。痛ましい彼女の死は、世界中に女性参政権獲得運動を世界中に知らしめる契機になった。

 しかし1914年に第一次世界大戦が始まり、活動は休止状態となる。戦後、戦時に貢献した女性への褒美のように1918年に投票権は与えられた。ただし、最初の参政権は“財産に関する特定の条件を満たした30歳以上のイギリス女性”のみへと範囲が狭められた。21歳以上の全ての女性が参政権を得るまでには更に10年が必要だった。

 日本の女性参政権の獲得はさらに遅く、第二次大戦後となる。1945年、女性の国政参加が認められ、1946年4月10日の戦後初の衆議院選挙で日本初の女性議員39名が誕生することになった。1947年5月3日、「法の下の平等」で女性参政権が明確に保障された日本国憲法が施行される。「4月10日」は日本で女性が参政権を獲得した日として祝い、今なお進まない男女平等を謡う日とされている。