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Okinawa 沖縄 #2 Day 172 (13/03/22) 旧浦添間切 (8) Toyama Hamlet 当山集落

2022.03.14 12:28

旧浦添間切 当山集落 (とうやま、トーヤマ)

[更新: 当山御井 (ウフガー) 3月17日 訪問]



今日は先日訪れた。前田集落の北と仲間集落の東に隣接する当間集落を訪れる。当間集落は明治以降にできた屋取集落で文化財はあまりない。それで、当間集落訪問が終わってから、もう一つ伊祖集落にも足を延ばす。ここでは、当間集落のみの訪問記を記載しておく。伊祖集落については別途。



旧浦添間切 当山集落 (とうやま、トーヤマ)

当山集落は、浦添城跡の北側に位置し、明治時代の廃藩置県後に首里からの帰農士族によって村立てが行なわれた屋取集落。古くは、仲間村に属していたが、移ってきた帰農士族は伊祖と中原の田畑も借地をして農耕を行っていた。古老の話では、ここに最初に入植した人が安富祖当山を起源としていたので当山と呼ぶようになったという。多分、当間集落の一班がある浦添城の東の麓がその場所と思う。 当間は、戦後、1947年 (昭和22年) に仲間、伊祖、西原の各字から分離し独立行政となった。当山部落は、古い地縁、血縁的共同体がない屋取集落なので、御嶽などの拝所はない。 昔からの人々が使用してきた古い井戸は大切にし、村の産井 (ウブガー) などとして拝んでいる。

字当間は1947年 (昭和22年) に独立行政区となったのだが、人口統計のデータは1934年 (昭和9年) からあった。1934年は公式な行政区分なのだろう。古老の話では大正末期には当間部落ト呼ばれていたとある。1919年 (大正8年) の地図にも当間集落が記載されている。1934年 (昭和9年) の集落人口は286人 (62戸) で、浦添村の中では二番目に小さな集落だった。沖縄戦では米軍が浦添城に立てこもっていた日本軍を攻撃する通過地点でもあり、多くの被害が出ている。戦死者は集落全体の55%にも達している。全世帯で犠牲者を出していないのは僅か4世帯のみで8%だけだった。昔から住んでいる家族はほとんどが悲惨な目にあっている。

人口が急増したのは1970年代で、当山ハイツが建設されたときから始まっている。集合住宅が増えていくにつれて人口は増加している。1970年代は年増加率は10%を超えている。当山ハイツの人口は字当山の40%を占めているが、近年は人口が減少傾向になっている。2002年に字当間の人口が20%以上増加しているが、この背景については書かれていない。2005年には行政区の見直しがあり、字牧港、字西原、字伊祖、字前田、字仲間から移された地域の影響かもしれない。

人口は明治時代に比べ、10倍に増え、約3,000人にまで達したが、浦添市の他の字と比較すると、人口は少ない字の状態が続いている。

人口増加率は浦添市の平均増加率とほぼ同じぐらいだ。

民家の分布は翁は本土復帰前までは、元々の集落があった地域からほとんど拡張していない。当山ハイツが建設された1974年以降に広範囲に民家が増えている。字地域の南西部は浦添大公園になっており、今後、住宅地が建設可能な土地はあまり残っていない。


当山集落は明治時代の廃藩置県後にできた屋取集落なので、御嶽や殿は存在しない。


当山集落訪問ログ



普天間街道石畳、当山橋

浦添城の北の崖下にある浦添ようどれからは石畳道が伸びていた。この石畳道は普天間街道と呼ばれ、普天間宮への参詣道で、首里の平良から中頭方西海道で経塚、仲間と進み、仲間集落内の御待毛 (ウマチモー) で分岐して浦添城を通り、ここ当山を経て、嘉数、宜野湾の普天間に通じる街道だった。当山集落の中にその石畳道の一部が残されている。尚賢王が普天間宮を初めて参詣した1644年から、参道として整備されてきた。普天間参詣は、当初は琉球王府の王族や士族たちが行っていたが、18世紀ごろには農民の間にも広まった。約5キロの普天間街道の両側には、尚貞王の世子、尚純 (1660-1706年) の命で植えられたといわれる琉球松が林立し、大木がつくる木陰が普天間宮参りの旅人に涼をもたらし、人々は宜野湾並松 (ジノーンナンマチ) と呼んでいた。1902年 (明治35年) に主要道路として整備され、中部地方の農産物を首里、那覇へ運搬として重要な役割を果たしていたが、1922年 (大正11年) に、那覇-嘉手納間に沖縄県営鉄道が開通すると、街道の利用者は次第に減少していったた。沖縄戦では当時2000本を越す松並木も、防空ご壕の支柱や米軍の障害物にする目的で日本軍によって伐採され、姿を消してしまった。戦後は街道の大部分は米軍普天間飛行場となっている。

浦添ようどれの北、当山集落の南端から下の急な坂道がある。ここに幅約3mの石畳道が200m程残っている。道は馬が転ぶほど勾配が急なことから、馬ドゥーケーラシ (馬転ばし) と呼ばれていたそうだ。道の途中、傍に岩がある。昔の坂道でよく見かける腰掛け石だったのでは無いだろうか?

坂道を降ると牧港川に石橋が架かっている。当山橋という。この橋は大正・昭和時代に改築されたもの。

橋を渡ると、今度は急な坂道を登る事になる。登りきり振り返ると、浦添城が見えている。ここからだと浦添城はかなり高い丘陵上にある。


当山井 (トーヤマガー)

普天間街道の浦添城方面への石畳道の途中に林の中に入る道がある。そこを入っていくと当山井 (トーヤマガー) と呼ばれる石積みの井戸跡がある。この井戸は当山集落の一班が産井 (ウブガー) として使用していた。一班は普天間街道を当山橋を浦添城方面に上がった所にあった集落で、この一班が当山 (トーヤマ) と呼ばれていたので、当山に機能士族が来たのはここからだったのではないだろうか?


浦添大公園 憩いの広場

当山橋が架かる牧港川沿いには遊歩道が整備されて浦添大公園の一部の憩いの広場ゾーンとなっている。


干支橋

遊歩道を進むと橋が架かっている。干支橋という橋がある。公園が造られた際の橋で欄干には干支の12の動物の彫り物がある。


当山世利原古墓群

干支から南側の崖にいくつもの洞窟の穴が見えている。ここは当山世利原古墓群にあたる。崖の上に上がる階段があり、その途中にフィンチャー墓 (掘込墓) があった。崖崩れの恐れがあるので近づく事はできなかった。この墓群については調査報告書が出されているのだが、まだ見ていない。図書館で閲覧予定。


第一橋

牧港川沿いには遊歩道を更に進むと、もう一つ橋が架かっている。これも昔からある橋ではなく、公園造成時のもの。琉球石灰岩で昔風に造られている。これは公園一帯に共通で、グスクをイメージした公園となっている。

遊歩道では人とは出会わず、ゆったりと静かな雰囲気の良い散歩となった。

ここにも洞窟跡があった。


当山公民館

普天間街道の石畳道を登り、昔の街道を少し進むと二班が集落を構えていた場所で、そこに当山公民館があった。広場などはなく公民館の前には酸素ボンベの鐘が吊るされていた。ここは戦前の村屋があった場所ではなく、村屋は別の三班の集落があった場所にあった。この公民館は昭和55年に造られている。三班は、ここの北側にあり、二班と三班は合わせて、カカジヌメー (嘉数ヌ前) と呼ばれていた。


当山東井 (アガリガー)

公民館から北東に道を進んだところに看護学校がある。かつて、この場所には約3メートルの窪みの底にカー(井泉)であった。この井戸は集落の三班が使用していた井戸だった。産井で正月の若水もここから汲んでいた。旧暦の3月3日 (浜下りの日)、4日 (クシュクイ 腰休め) では農作業を休み、カーウガミ (井泉の拝み) を行っていた。カーウガミ (井泉の拝み) の後は三つの班が共に村の北にあったティラガマに行き、拝みをしていた。(ティラガマについての情報は見当たらず)  昭和52年(1977年) に浦添看護学校が建設された時に、埋められてしまい、今のような形で保存されている。また、ここがかつての村屋があった場所でもある。


砂糖屋跡 (サーターヤー)

戦前、このアガリガーの奥にはサーターヤー(砂糖場)があった。現在は浦添看護学校となっている。当間集落にはサーターヤーが四か所あったそうだ。一班に一つ、二班に一つ、三班は西と東で二つあった。


宗地井 (ソージガー)

当山集落の北側の宗地原 (ソージバル) に宗地井 (ソージガー) がある。 昔日は豊かな田園が広がり、当山集落二班の産井 (ウブガー) だった。正月の若水も班毎にそれぞれのカーから汲んだ。 旧暦の3月3日 (浜下りの日)、4日 (クシュクイ 腰休め) では、農作業を休み、ここを拝んでいた。集落住民は水道が普及する時期まで、飲料水や生活用水として使用していた。現在の井戸は隣接の給食センター建設に伴い、新たに整備されたもの。


当山御井 (ウフガー) [3月17日訪問]

浦添城跡の北側、 現在の県立養護学校の西側に当山の人々によって拝まれている当山御井 (ウフガー) があると資料にはなっていた。その周りを探すのだが見当たらず。


このブログを見た玄日さんが、親切にこの井戸への行き道を投稿してくれた。3月17日に浦添市字西原を訪問した後に、教えられた通りに井戸を訪問した。玄日さんに感謝。ちょうどようどれがある丘陵を更に下に降った茂みの中に洞窟がありそこが井戸になっていた。現在、井戸はコンクリートで固められて、以前の姿とは変わってしまったが、まだ水は出ており、水路を通って流れ落ちている。この下には牧港川が流れている、先日歩いた時には、この井戸と牧港川の間は畑になっていた。この水はその畑で使われているのだろう。洞窟の奥は拝所になっていた。当間一班の人々が拝んでいるのだろう。


これで、当間集落巡りは終了し、つぎは伊祖集落に移る。


参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)