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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

ウィーン体制22-仏六月暴動鎮圧

2022.03.14 11:15

フランスの7月王政では1832年6月5日、早くも六月暴動が発生した。7月革命で市街戦を戦ったのは労働者達だが、最後に遺物というべき、ラファイエットやタレーランが出てきて、ルイ・フィリップが王にされた。選挙権は拡大されたものの、選挙権は0.6%やはり金持ちしか選挙権がなかった。

さらに不作で物価が高騰、またコレラが蔓延して、18402人が死亡、特に貧困層で死者が多かった。貧民の不満の上に、ボナパルティストや、王党派の不満も重なり、あちこちで暴動が起きていた。共和主義者の人権協会は、草の根的に国民の中で組織を広げていた。

6月5日、ラマルク将軍の民衆葬が行われ、将軍がイタリアやポーランドの革命を支持していたという演説が行われた。その亡命者も、その中には入っていた。赤旗が降られ、民衆が激高する中で、軍からの発砲があり、暴動が市内で広がり、参列していたラファイエットも止められなくなった。

暴動は3千人に拡大して、バリケードが築かれた。しかしその夜、4万人の正規兵が到着して軍が強化された。ルイ・フィリップは、サン=クルーからパリに戻り、公衆の面前で軍を閲兵し、蜂起の鎮圧にあったった。暴動は6月6日の夕方まで抵抗したが、最終的に鎮圧された。