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四旬節第3主日(C)

2022.03.18 20:00

2022年3月20日 C年 四旬節第3主日

第1朗読 出エジプト記 3章1~8a、13~15節

第2朗読 コリント一 10章1~6、10~12節

福音朗読 ルカによる福音書 13章1~9節

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 今日は、良い土地に植えられているにも関わらず、実らないイチジクの木の話しです。主人は切り倒すことを園丁に命じました。「 三年もの間、実を探しに来ているが見つけたためしがない。なぜ、土地をふさがせておくのか。切り倒しなさい」。これはルカ福音書だけが伝えるたとえです。

 旧約においてイスラエルの民は、イチジクやぶどうにたとえられています。イザヤ書の言葉です。

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために……。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。……わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。(イザ5:1-4)

 ここで語られていることは、神からの信頼と期待を裏切り続けてきたイスラエルの姿です。「ぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか」と神は嘆いています。イチジクは環境が整えられたぶどう園に植えられたものです。世話をする園丁もいます。にもかかわらず実りがない…。主人の言っていることは極めて当然なことです。実りのない木は切り倒されても仕方がないのです。しかし、ここで驚くべきことは園丁の言葉です。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら切り倒してください」。

 園丁は、実らないイチジクの木を来年まで残して欲しいと主人に求めていますが、それは、そうすることが園丁にとって利があるからではありません。むしろ労苦が増えるだけであるにもかかわらず、園丁はこの木を残すために主人に執り成しているのです。

 この園丁の言葉は、十字架上での「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)というイエスの祈りに通じるものです。「どうか、切り倒さないでください。もしかしたら、来年は実るかもしれません。」と必死に願う園丁の姿の中に、私たちは十字架上のイエスの姿を見ます。そして、忘れてならないことは、このイエスによるとりなしの祈りは、今も続いているということです。

 私たちがキリスト者として生きていることは当たり前のことでしょうか。そうではありません。「もう一年待って下さい」と祈り求める園丁のとりなしのお陰です。このたとえで語られていることは、私たちの間において既に起こっていることなのです。

 イエスは、イチジクの木が実を結んだか、結ばなかったかについて何も語っていません。私たちが目を向けるべきところは、本来切り倒されるはずだった木が、恵みによって今ここで生き残っているという事実なのです。このたとえを通して私たちの目は、今も取りなしておられるイエスに向けられます。その時、全てが「恵みの時となり、救いの日」(Ⅱコリ6・2)となるのです。

 第一朗読の出エジプト記3章に登場するモーセの体験も非常に印象的です。モーセには絶えざる痛みがありました。それは同胞であるイスラエルの人々がエジプトで奴隷にされ苦しめられている現実でした。しかし、巨大な権力を前にして彼にできることは何もありません。このモーセを動かしたのは、「わたしは、民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き彼らを救い導き出す」という神の言葉でした。

 なぜ、このような苦しみや悲しみの体験があるのか、と思うことがこの世にはたくさんあります。その苦しみにどんな意味があるのかも、私たちには分かりません。神もそのことについて、モーセに何一つ説明しておられません。モーセが知らなければならないことは他にあったのです。それは、苦しむ者に目を留める神、悲しむ者の叫びに耳を傾ける神、私たちの心の中にある深い痛みを知っておられる神の姿です。これこそが、モーセが知らなければならない第一のことでした。たとえ、国を失っても、神殿が破壊されても、異国で捕虜になろうとも、私たちの神は、人間の痛みをつぶさに見、その叫びを聞いておられる神です。神の慈しみ深い心に限界はありません。この神は人となって、ついに人間の歴史の中に入り、自らも苦しむ者、悲しむ者にまでなって下さいました。

 「さあ、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす…」。モーセに与えられた新たな使命です。私たちもこの世の現実、教会の現実に同じように派遣されています。そこで働くのは主ご自身です。「わたしはある。勇気を持ちなさい。わたしは必ずあなたと共にいる」。この神が私たち一人一人と共に働いて実現するもの、それが神の救いです。大切な事は、私たちの現実の中で、この神が共に働いておられることに気付く事です。それが、私たちに求められている悔い改めに必要な心構えなのです。

(by, the Spirit of EMET)