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聖ヨセフ(祭)

2022.03.17 20:00

2022年3月19日(土)  聖ヨセフ(祭)

第1朗読 サム下 7章4~5a、12~14a、16節

第2朗読 ロマ 4章13、16~18,22節

福音朗読 マタイによる福音書 1章16、18~21、24a節

 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり(にした。)

 福音書の中でヨセフの存在は、ごくわずかしか現れず、謎に包まれている部分も多くあります。しかし、そこで登場するヨセフは、重要な局面において、卓越した役割を担っています。今日の福音箇所のイエス様の誕生の場面ではまさにそうです。  

 福音書を読むと、イエス様の誕生が、通常のことではなかったことがはっきりと示されています。その一つが聖霊による懐胎です。イエスの両親、マリアとヨセフは幼い頃に婚約していましたが、一緒になる前に、聖霊によってイエス様を懐胎することとなったのです。この前代未聞の出来事は、天使によって告げられ、ルカ福音書において、そのお告げはマリアに向けられていますが、マタイ福音書では、ヨセフに対するものとして描かれています。つまりマタイ福音書では、お告げの出来事をヨセフに焦点を当てて描き出すことによって、ヨセフの神のみ旨に対する、卓越した働きが浮き彫りにされているのです。

 マリアが一緒になる前に懐胎したということから、通常、想定できることは、マリアが他の男と関係を持ったということです。それはユダヤの律法では厳しく否定されていることで、そのことが明らかになれば、マリアは石打刑で殺されかねませんでした。しかし「夫、ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。ここで正しいことが持ち出されるのは、一見すると不思議な感じがします。この「正しい」が正義ということを意味するならば、むしろ、律法の裁きを厳正に受け入れることのほうが当てはまるような気もします。

 しかし、ここで福音書がヨセフのことを「正しい人であった」と言ったのは、私たちが通常基準としている正しさや、世間で広く行き渡る正義を意味するものではありませんでした。それは相手のことを思いやり、寛大な愛をもって受け入れること、つまり無条件の神の愛を指し示すものでした。ヨセフはマリアの存在の尊さに信頼し、マリアのためにこの出来事を表ざたにすることを望まなかったのです。そのことを福音書はヨセフの正しさとして言い表わしたのです。

 相手のことを思いやり、たとえ裏切られたとしても、その人の救いを願い、自らを捨てていく態度こそ、イエスが十字架上の極限で示して下さった愛です。それは真実を見極めて義務を履行し、権利を行使するという、この世で想定される正義とは異なるもので、公平性という観点からは全くつりあいの取れないものです。しかしそのような公平性という見地をはるかに越えたところにおいてこそ、私たちの救いは与えられたのです。すなわち、この世では決して正しさも、完全さも全うすることのできない、救われるべき何物も持たない私たちに、惜しげもなく神の救いが与えられたのです。その神の愛を映し出すように、ヨセフはマリアに対して寛大な愛を示しました。このことがヨセフの卓越した働きを浮き彫りにしています。それがイエス様の誕生の前にあったということが、ヨセフの働きをさらに輝かししいものとしています。

 さて、寛大な愛をもってマリアと縁を切ろうと思ったヨセフのところに、天使が現れ、ヨセフの疑念は恐れるに足りないこと、それは神のみ心による特別な懐胎、聖霊による懐胎であることが告げられるのです。天使は、この子が待望の救い主であることまで指し示します。この前代未聞のにわかに信じがたいことに対して、ヨセフは命じられた通りに、それを受け止めたのです。ルカ福音書では、同じ聖霊による懐胎というお告げを、マリアがその通りに受け止めたことが描かれていますが、マタイ福音書を読むとヨセフも同じように受け止めたことが分かります。この二人の両親の受諾によって、神の子が人となり、救いの歴史が始められたのです。自らの体に神の子を宿したマリアの働きは卓越したものですが、その歩みに寄り添い、支え続けたヨセフの働きも重要なものです。そして、私たちの信仰の歩みも、まさにこの両親の働きを模範として力づけられるものです。

 信仰はすでに確信できる事柄に基づいて、結果を予測し、達成していく歩みとは全く異なるものです。確信できることは何一つなくても、そのことが私たちを根本から救い、真の幸福へと導いてくれることにかけていく歩みです。それは、今日の第二朗読にあるように「希望をするすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」ることに他なりません。

 その歩みをイエス様の誕生に際して、輝かしく踏み出してくれたのがヨセフの卓越した働きといえましょう。それはイエス様の救い主としての歩みを、陰で支える目立たないものですが、並大抵のことでは果たせない重要な役割です。

 私たちもヨセフの祭日に際して、この地味で目立たないながらも、信仰者の歩みにとって核心的な働きに倣う者となれますように。とかく目立つこと、輝かしいことを求めがちな私たちが、隠れたところで表わされる謙遜な働きにこそ価値を見出してくことができますように、願い求めていきたいと思います。

(by, F.T.O)