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Okinawa 沖縄 #2 Day 173 (17/03/22) 旧浦添間切 (10) Nishihara Hamlet 西原集落

2022.03.18 09:03

旧浦添間切 西原集落 (にしはら)


浦添市の最西端の字の西原集落を訪れる。地図で見る限り、浦添市の中では最も西にあり、内陸部に位置している。今まで集落を巡った限り、このような位置にある集落は過疎化に悩まされていたので、この西原も同様化と思っていたが、実態は全く逆で、浦添市の中では最も人口が多い地域だった。集落を巡りながら調べていくと、その発展の理由が見えてくる。



旧浦添間切 西原集落 (にしはら)

西原部落は、浦添市の北東にあり、北は宜野湾市、東は西原町に隣接している。

西原集落の始まりについては仲間集落から分家してきたという説がある。大昔、仲間の本部落に浦添按司の子の渡嘉敷大屋子が住んでいた。渡嘉敷大屋子には三人の子供がおり、長男は按司で、次男は仲間祝女殿内、三男が新屋 (ミーヤ) となった。その新屋 (ミーヤ) が浦添グスクの北斜面のようどれ下のハル名「西原」 に分家し (薩摩の琉球侵攻の1609 年以前と考えられている)、そこには七世帯ほどがあったという。村人がこれを古島とよんでいることから、かつてはその西原に村落があったと考えられていた。 

この古島はあまり良い場所ではなたったので、拝山 (御嶽) の下の方に移住した。移住前の古島には御嶽や殿など古い村落にあるべき拝所がないことから、西原村が遠い昔から古島にあったという事に疑問がある。西原村の御嶽は、古島にはなく、現西原村落の東方にある 「拝前原 (ウガンバル)」のウガン山ただ1つで、そこには古棚原之嶽と棚原之殿があり、アガリガー (産水ガー) があった事から、大昔の西原村は、このウガン山の御嶽の前にあったとも考えられる。

しばらくはこの拝山付近で落ち着いていたが、西原町の棚原集落後方のシーサー森に部落ごと移動した。そこでは (シーサーに食われて?) 繁盛しなかったので、また元の古島に戻ったが、落ち着かず、また西原に帰ってきた。その後、現在の本部落 (広栄) に下りてきたと伝わっている。

字西原は以前は浦添の中でも交通に不便な地域の一つでサトウキビ栽培の兼業農家が多かったが、これまでのターク地 (タコ地: タコの足を広げたような地) の農地だった。

集落の南側に浦西団地ができたことにより農地は減少し、専業農家も少なくなっている。また、バイパスの開通や高速道路のインター開設に伴い、交通の要となっている。近隣の町に琉球大学や沖縄国際大学などが移転したため、地の利を生かし、発展している。

人口は現在では浦添市の中で最も多い字になっている。明治、大正、昭和戦前でも人口は多い地域だったが、戦後本土復帰前までは、他の地域の発展のスピードが速く、人口は増加率が低く、人口は市の中で真ん中ぐらいで停滞していた。

人口が増加し始めたのは、住宅地建設にある。まずは1970年前後にその地域の住民が資金を出し合い民間会社により造成した住宅地だ。1980年代には住民の陳情活動で浦西住宅が造成、更に住宅地は陽迎橋地域まで拡大していった。これは住民の行政への働きかけによることが大きい。この結果、昔からの西原集落も人口増加となり、現在では11,000人の人口にまでなった。そのうち元々の集落地域人口が半分、広栄団地、浦西団地、陽迎橋の三つの戦後の住宅地が半分を占めている。

人口増加率は、元々人口の多い地域であったこともあり、浦添市平均の人口増加率を少し下回っている。

民家の分布を年代別に見ても、その発展がはっきりと見て取れる。

琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 古棚原之嶽 (神名: カサモリギミノ御イベ、イビ)
  • 殿: 古棚原之殿

西原集落の祭祀は浦添 (仲間) ノロによって執り行われていた。


西原集落訪問ログ



古島ガー

浦添城跡の北側、県立養護学校敷地一帯を古島と呼んでいる。字当山になるのだが、西原集落に関係ある古島井戸も 残っている。井戸があることから、昔は、ここに人が住んでいたことは確かで、この地域で西原の村立てを行い、後に現在地に移動したとの説もある。ただ、この辺りには村の御嶽や殿は存在せず、西原の拝所は西原集落東に位置する拝山 (ウガンヤマ) に集中している。そのことから、ここが村立ての場所ではないとの意見の方が強い。大方の意見は、村立ては拝山 (ウガンヤマ) の下側だったと考えられている。ただ、仲間集落の渡嘉敷大屋子の三男が新屋 (ミーヤ) が分家し、この古島に暫く住んだが、不便で、拝山 (ウガンヤマ) に移ったとされている。以後、何度か移動しているが、本格的な村立ては拝山 (ウガンヤマ) 下方とおもわれ、この地はその前の暫定的な経由地だったと思われる。古島ガーは養護学校建設のため移動しているが、井戸の石積みなどは、そのまま再現されている。この古島ガ-は集落の根屋である棚原門中が拝している。


おもろの碑

古島ガーから道を少し下った所の浦西中学校前に浦添市にある9つのおもろ歌碑の一つがあった。おもろの碑には、「名高い按司様が 浦添に居給えば 太陽が誇り給う 有名な按司様が 世の頂に居給えば」と彫られている。意味は「すぐれた按司様が浦添には居るので、太陽 (神) もご満足であらせられる」世の頂 (つじ) は浦添城の中にあった聖域で、転じて浦添の美称となった言葉で浦添グスク、浦添按司を讃えた歌だそうだ。


陽迎橋

おもろの碑の側に流れる牧港川に陽迎橋が架かっている。このあたりは住所表示は西原だが、陽迎橋地区として独立行政区になっている。橋はちょっと変わった欄干デザインだ。

浦西中学校の側にあるからか、色々な顔のデザインが欄干の施されている。


ドラゴン公園

陽迎橋から、牧港川沿いの遊歩道を西原集落方面に進むとユニークな公園があった。ドラゴン公園で、その名の如く大きなドラゴンのすべり台が置かれている。トイレもしゃれたデザイン (写真左下) で、公園の隣には、赤瓦の屋根の琉球風の西原中継ポンプ場 (右中、右下)があった。


にしはらつなひきばし

ドラゴン公園から、牧港川沿いの沖縄ではよく見かけるハナマキ (花槇) の並木道を進むと、もう一つ面白い橋があった。綱引きをモチーフにデザインしているつなひきばしという橋だ。

西原では夏に大綱引きが行われ、西原集落では300-400年もの歴史のある最も大切な行事になっている。


陽迎橋自治会館

にしはらつなひきばしの北側、住宅地内に陽迎橋自治会館が建っていた。民間ビルの一階が自治会オフィスとなっている。陽迎橋地区は、浦西地区の一部だったが2009年に分離し、独立した自治地区となった。2009年の分離時点では陽迎橋は2,584人もの人口となり、西浦の1,817人を大きく上回っている。その後も陽迎橋地区の人口は増加しており、2021年末現在では3,249人となっている。これだけ人口が増えた地区にしては、自治会館は少しお粗末な感じもする。(この後、立ち寄った浦西自治会館はかなり立派だったので、この印象を持った)


浦西自治会館

陽迎橋地区の東は浦西地区になる。ちょうどゆいレールのてだこ浦西駅の北になる。この駅が今後の発展に寄与する事になるだろう。駅周辺は住宅地造成が行われている。

この浦西地区は沖縄本土復帰後に西原集落の南側 (図右下) にあった標高141mのイシンミモー (写真左) を削り開発された住宅街で、国道や県道も整備され急速に人口が増加、住宅地域も拡大し、2002年に人口約2,900人で自治独立している。

その後、その一部だった陽迎橋地区を2009年に分離している。住宅地は綺麗に整備され、街中にはゴミも落ちておらず、歩道には並木や花壇が設けられ、町中花でいっぱいだった。住宅内には幾つもの公園があり、芝生もきれいに刈り揃えられている。町ぐるみで美化運動を行っているようで、気持ちの良い住宅地だった。 


にしばる公園

どのような公園があるのかと思い、公園を巡ってみた。一番大きな公園はにしばる公園で、子供向けの遊び台や昆虫のオブジェのトイレなどがある。若い世代向けの住宅地で保育所屋幼稚園もいくつもあった。


あじさい公園

その他の公園は花シリーズになっている。ここはあじさい公園で、華は最低ン買ったがアジサイが植えられていた。


でいご公園

次に訪れたのはでいご公園で、デイゴの木が何本もある。


さくら公園

ここは桜の木が植えられているさくら公園。沖縄で桜の季節は2月なので、桜の花は終わっていた。


カトレア公園

カトレア公園は高台の端にあった。公園からは東にある西原町の町並みが見える。ここも芝生は刈り揃えられ、幼児向けのすべり台が設置されていた。カトレアは見当たらなかったが、季節によって植えられているのだろうか?


ひまわり公園

ひまわり公園は小中学生向けなのだろうバスケットボールのゴールネットが置かれ、ゲートボール場にもなっている。沖縄ではひまわりは年中見られるのだが、この公園では見られなかった。


しらゆり公園

縦に長い公園で、多分子供たちがサッカーなどで遊んでいるのだろう。ブランコや鉄棒などもある。数えるとこの住宅街には7つもの公園があり、どれもきれいに整備されている。新しくできた街で、子供がいる若い世代の世帯が大きのだろう。子供たちのために綺麗に整備していると思う。昔名からの集落を巡ると、荒れ果てて草が生え放題の公園が多い。それは昔からの集落は過疎化が進み、子供の数も少なくなっており、手入れをするのも老人で、手が回らないのが理由だ。この様な、戦後にできた住宅街は、それと対照的な様相だ。



次に、昔からの西原集落に移動する。集落には西原バイパスを越えることになるのだが、片道三車線の広い道路で、このバイパスを抜ける道路が少なく、歩道橋を自転車を担いで渡ることになった。歩道橋上からの写真がこれで、左側 (北側) が昔からの西原集落 (写真左下) 、右側 (南側) が、先ほどまで見てきた浦西地区 (写真右下) になる。写真を見てわかる通り、西原集落は少し高台にあり、更に東に向かって高くなっている。バイパスの先に森が見えるが、そこが集落の聖域として御嶽があったウガンヤマになる。


西原公民館

バイパスの上に架かった橋を渡った所に西原公民館がある。かつての村屋は集落の中心部にあったが、戦後、この地の分校跡地に公民館が建てられて現在に至っている。この建設資金は廃止された砂糖屋 (サーターヤー) の土地や、溜池 (クムイ) の土地を売却して充てたそうだ。

現在の公民館が建設される前の村屋は集落内にあり何度か場所を移動している。大正時代に西原小学校分校碑がある付近に瓦葺の配給所、広栄産業組合に隣接した建物だった。(写真左、左端の建物) 戦後は以前の村屋のとなりにあった広栄産業組合の場所に建物を茅葺の小屋を建て使われていた。 そして西原小学校分校建設のため、隣の土地に移動している。 (写真中) 後にコンクリート造りの建物が造られた。(写真右)


つなひき公園

かつて、西原地区は一部県道沿いが商工業用地として利用されていたが、その他地区の殆どが市街化化調整区域やサトウキビ畑だった。自治会や地主会を中心に昭和50年代に市街化調整区域の見直しの要請陳情を行い、昭和58年に都市計画決定がなされ、開発が開始された。住宅地になった際、地区の中心にこの公園が造成され、「つなひき公園」と名付けられた。


西原馬場跡 (ウマィー)

琉球王統時代、1695年、沖縄各地に馬場が開かれた際、この西原でも旧道だったこの場所に、馬場 (ウマィー) が造られた。西原集落でも古くからこの場所で馬競争をしていた。この通りはウマィー通りと呼ばれている。ここが集落の南の端で前道 (メーミチ) にあたる。この道で綱引きが行われていた。

馬場跡の両側には砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた。西原集落では戦前までは5つの組みが組織されて、それぞれが砂糖屋 (サーターヤー) を持っていた。ここには三番組のもの (写真右) と四番組のもの (左) が置かれていた。


浦添小学校西原分校跡

宇西原は浦添小学校区であったが、本校までの道のりが遠く、道路事情も悪かったので、大正14年 (1925年) に小学校1、2年の児童のために浦添小学校西原分校が設置された。(この場所から現在の公民館までの場所 図左) 戦後の一時期、分校は途絶えたが、昭和23年になって区民の協力を得て茅葺きの校舎が完成した。(図中) 昭和27年の様子も資料に載っていた。(図右)

昭和51年 (1976年) になって待望の当山小学校が開設され、51年間に及ぶ西原分校の役目を終え廃止された。戦後の28年間だけでも1400人が西原分校で学んだそうだ。西原馬場跡 (ウマィー) の下側に記念碑が建てられている。


三番組砂糖屋跡 (サーターヤー)、発動機屋跡 (ハツドーキヤー)

ウマィー通りを東に進んだ所にも二つあった三番組の砂糖屋 (サーターヤー 写真左) のひとつがあった場所で、現在はバスターミナルになっている。この奥に昭和16年に動力機を導入し、共同砂糖屋跡 (発動機屋 ハツドーキヤー) が置かれていた。(写真右) この導入で、以前からあった砂糖屋 (サーターヤー) は次第に廃止されていった。このウマィー通りのこの辺りが綱引きの会場となっている。


川端門中 (カーバタムンチュー) 神屋

この砂糖屋跡 (サーターヤー) 近くには集落の中で有力門中の川端門中の屋敷跡で民家敷地内には神屋があった。


西ヌ毛 (イリヌモー、つなひき毛)

西原集落には二つの毛 (モー) があった。ほとんどの集落にあったアシビナー (遊び庭) だった。綱引きの東と西の組の若者達がそれぞれの毛 (モー) に集まり歓談をしていた。ここは西組の毛 (モー) になる。別名、綱引き毛と呼ばれている。この西ヌ毛に西組が集まり雌綱を抱えて、綱引き場所に出発する。元々の西原集落も人口が増加して、綱引きの組であった東組が西原一区となり、西組が西原二区となっている。


二番組砂糖屋跡 (サーターヤー)

馬場通り (ウマィートーリ) を進むと、集落内に三つあった二番組の砂糖屋跡 (サーターヤー) があった場所。


東毛 (アガリモー)

更に道を進むともう一つの毛 (モー) がある。ここは東組のアシビナー (遊び庭) だった。公園になっている。近くには立派な石垣も残っていた。綱引きでは、この東毛は東組の出発地点で雄綱を抱えて会場に行列を行う。


村火ヌ神 (ムラヒヌカン、地頭火之神)

東毛 (アガリモー) の先に、西原集落の守り神の村火ヌ神の祠が置かれ、西原集落の人々が、旧2月2日に、無病息災、幸福と安寧、繁栄を祈願している。昔、この隣に地頭代の屋敷があり、そこと深い関わりがあったという伝承があるので、地頭火之神との呼ばれている。この場所は、戦前までは木々が茂る小山で、その地中から露出した石を拝んでいた。沖縄戦と戦後の道路拡張で昭和53年、平成23年の整備で祠が新しく建てられている。


一番組砂糖屋跡 (サーターヤー)

地頭火ヌ神の隣 (地頭代屋敷跡、写真右) と火ヌ神の前 (左) に一番組の砂糖屋跡 (サーターヤー) があった。


鍛冶屋洞 (カンジャーガマ)、一番組砂糖屋跡 (サーターヤー)

西原集落には洞窟が二つあった。ここはその一つがあった場所で、昭和30年代後期に入り口は埋められて、洞窟とはわからない。鍛冶屋洞 (カンジャーガマ) と呼ばれており、昔、洞窟に鍛冶屋が住んでいた事から、そう呼ばれている。戦前は、女性たちが、ボウシクミ (帽子編み) をする場として利用され、戦時中は日本軍が駐屯し糧秣倉庫として利用されていた。この鍛冶屋洞 (カンジャーガマ) の前にも一番組の砂糖屋跡 (サーターヤー 写真右下) があった場所になる。


ふーとやー

地頭火之神の北、集落の背後の高台に「ふーとやー」という拝所がある。普天間宮への遥拝所 (お通し、ウトゥーシ) で、後には学問の神様として崇拝されていた。祠の中には神体としてのビジュル (霊石) が置かれ拝まれている。他の集落からの参拝者も多く、旧2月2日 (菊酒) に拝する。


大城門中屋敷跡 (ウフグスクムンチュー)

ふーとやーへの道沿いには、集落の有力門中のひとつの大城門中 (ウフグスクムンチュー) の屋敷があった場所。


石川門中神屋

大城門中屋敷跡のすぐ近くには別の有力門中の屋敷があった。この付近に有力門中の屋敷が集中している。ここは石川門中で、敷地内には神屋がある。



新屋 (ミーヤ) 門中神屋

もう一つ有力門中がある。新屋 (ミーヤ) 門中で西原集落の村立てを行った根屋にあたる。新屋 (ミーヤ) は仲間村の浦添按司の子の渡嘉敷大屋子の三男で、分家し西原村を造ったと伝わる。敷地内には神屋が置かれている。


棚原家屋敷跡

新屋 (ミーヤ) 門中神屋の西側、集落の北側丘陵下にも有力門中の棚原家屋敷跡がある。資料では根屋と書かれている程で、集落内では最も重要な門中だった。西原字誌では、集落の根屋は新屋 (ミーヤ) とされている。


平田ガマ、五番組砂糖屋跡 (サーターヤー)

集落の北西の端付近小字平田の斜面に平田ガマがあったそうだ。この地域は墓地で、今でも幾つもの墓がある。ガマは火葬になる以前には洗骨の場にもなったという。また、この平田ガマの東側には五番組砂糖屋跡 (サーターヤー) が二つあった場所で、現在は農地になっていた。


うがんやま (拝山) 公園

現在の西原集落の東方にある小高い丘陵地で、集落唯一最大の御嶽になる。琉球国由来記の古棚原之嶽 (神名: カサモリギミノ御イベ) と考えられている。西原集落発生は拝山付近から発展してきたものと考えられている。

この聖域は、うがんやま (拝山) 公園として綺麗に整備されている。御嶽として聖域は公園の上の部分で、一般の住民は中に入ることは禁じられていた。うがんやまは殿があった事から殿毛 (トゥンモー) と、また聖域で立ち入りが禁じられていた事から、キジモー (禁じ毛) とも呼ばれている。西原トンネル造成工事に伴い、その存在も危ぶまれたが、浦添貝塚同様に貴重な遺跡として保存されている。拝山には古棚原之嶽、古棚原之殿跡、イビ、ビジュル跡、シマトイモー (青年毛) などがある。地南側に貝塚があり、一帯は拝山遺跡となっている。遺跡からは多くの出土物が掘り出されている。


ビジュル跡

ウガン山の西側に霊石信仰のビデル (賓頭盧、ビジュル) 跡があったとされているが、はっきりとした場所は不明だそうだ。公園の一画に林が残っている。多くの公園でこのように森や林が残されている場合はそこが聖域とされ、手を加える事を避けている事が多い。この林もそのような理由で残されているのかも知れない。中に入ったが、ビジュルらしき石は見当たらなかった。


青年毛 (シマトイモー)

公園の上部はシマトイモーと言われる広場がある。ここは拝所ではなく、村の青年たちがシマトゥイ (角力) 練習場として利用した場で、旧暦3月3日には、ここで村行事としてシマトゥイ (角力をとって) をしている。


古棚原之殿

琉球国由来記にある古棚原之殿と考えられている殿がうがんやまにあったとある。この殿があった場所には今帰仁への遥拝所が置かれている。この殿での門中、コデの座順は棚原家を上位として、 新屋、大城、川端の順となっていたという。 そして神酒は棚原家と新屋家とがつくり、殿では 各々その家の主人が供え捧げたという。


イビ (古棚原之嶽)

公園の奥、西原高地の崖上に琉球国由来記にある古棚原之嶽と考えられている拝所がある。祠が置かれ、神名をカサモリギミノ御イベ というイビ (イべ) を祀っている。


西原東ガー (アガリガー)

拝山 (うがんやま) 北側、西原集落の東には、村井の東ガー (アガリガー) がある。産井 (ウブガー) とも呼ばれ、産水や若水に使われており、昭和43年に上下水道が出来るまでは生活用水として利用されていた。井戸の水量は少ないが、澄み切ったきれいな水が現在でも残っている。この石積みの井戸は300年余 (600年前からあり、300年前に石積みに改修されたとしている資料もあった) の歴史があると言われている。井戸前面には水だめがある。


西原洗濯ガー

東 (アガリ) ガーから約20メートルの所にもう一つ井戸があり、洗濯ガーと呼ばれている。この井戸は東ガーが産井など重要な祭祀で使われ、飲料水に利用されていたのだが、井戸の役割を補う目的で衣類の洗濯や農具の汚れを落とす場所として昭和2年に造られた。東ガーとの使い分けがなされていた。


一貫ガー

アガリガーから道を下ると浦添市から西原町森川に入る。そこに、西原集落に深い関係にある一貫ガーがある。森川樋川 (ヒージャーガー)とも呼ばれる湧泉。アガリガーが干上がった際にもこの井戸は水を湛えていた。戦前、7カ月にもわたる大旱魃のとき、西原集落の人々が一貫 (二銭) づつ出して、この井泉を改修し、それ以降、森川と西原の共有井戸となったことからこう呼ばれている。戦前は、二つの石製の樋があり、その下に はクチャに堀り込んだ溜め池がつくられていたが、いまではコンクリートで囲われ整備されている。湧泉の奥壁には、水の湧き出し口と思われる 長方形の穴が右側より開いている。それらの豊富な湧水は、いまでも農業用水として使われている。また、一貫ガーでは水汲みの折、西原集落の娘と森川集落の青年との出会いの場となり、別名、縁結びのカー (井泉) ともいわれていた。


西原集落内の文化財巡りは終わり、次に西原高地から北に道を下る。この辺りには廃藩置県で屋取集落があった場所になる。現在は広栄団地と呼ばれる住宅街になっている。この広栄団地は他の字西原にある住宅地とは、生い立ちが異なる。今まで見てきた住宅地は行政主導で開発されたのだが、この広栄団地は1970年前後に、ここに住んでいた人達が、次男、三男の分家が住む場所を確保する目的で、資金を出し合い民間業者に造成を委託したもの。委託した民間会社とはトラブルや倒産もあり、完成までは多難な道のりだった。浦添市では最初の住宅地自治会も発足している。糸満市や南城市の集落をめぐった際に、集落の過疎化が問題になっていたが、この過疎化の原因の一つは次男、三男の住む場所がなく、那覇市に移っていくという。行政が土地利用を農地や市街化調整区域と設定し、新たに子供達の家を作る事が制限されている。西原ではこの広栄住宅は自助努力、他の住宅地は住民の陳情運動で市街化調整区域の変更で実現している。住民で住宅地が綺麗に保たれているのはこのような苦労があったからかも知れない。



後ヌ井 (クシヌカー)

この地域に井戸跡がある。後ヌ井 (クシヌカー) という。井戸は現在でも農業用水に使われているが、綺麗に整備されて香炉が置かれている。この井戸はかつては拝まれておらず拝井ではなかったが、この井戸の恩恵を受けた人達が香炉を置き、個人的に拝んでいる。


古墓

後ヌ井 (クシヌカー) の近くに古墓があった。



西原集落からの帰り道は先日訪れた伊祖集落経由とした。伊祖集落で少し見落としていた場所があったので、そのスポットを訪れた。(伊祖集落訪問レポートに追加記載している)



参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
  • うらおそい散策マップ 西原地区 (2007 うらおそい歴史ガイド友の会)
  • 浦添市西原字誌 上巻 (2018 浦添市字西原自治会)
  • 浦添市西原字誌 下巻 (2018 浦添市字西原自治会)