ポン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』
ひとを殺そうが国を売ろうが
知ったこっちゃない
375時限目◎映画
堀間ロクなな
非英語作品として初のアカデミー賞作品賞を受賞したポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019年)については、もっぱら韓国社会の極度の経済格差を描いたものと評されてきた。しかし、わたしはいささか見解を異にする。
なぜなら、そうしたストーリーの枠組みは、古今東西広く親しまれてきたパターンを踏襲するものだと思うからだ。たとえば、グリム童話の『灰かぶり姫(シンデレラ)』では、貧しい家庭でこき使われていた少女がひょんな成り行きでお城の舞踏会に出たとたん王子さまに見初められるように、社会の最底辺と最上層の者が出くわして既存の価値を引っ繰り返すという、アレだ。あえて付言するなら、この映画では、最底辺がいかにもアジア的混沌を体現した半地下のアパートで、最上層が丘の上にそびえたつホワイトハウスのような洋式の豪邸のところが、アメリカの人々の歓心を買ったのかもしれないけれども。
私見では、ポン・ジュノ監督が暴いてみせた社会の矛盾はもっと別のところにある。半地下のじめじめした部屋では、父親(ソン・ガンホ)、母親(チャン・ヘジン)、兄(チェ・ウシク)、妹(パク・ソダム)の四人家族が便所コオロギとともに暮らしている。かれらは宅配ピザの箱の組み立ての内職をやっても、ろくに注文どおりこなせない体たらく。ところが、である。たまたま兄が友人の口利きでIT企業社長の娘の家庭教師に応募すると、巧みな弁舌でたちまち取り入ることに成功する。のみならず、それをきっかけにあの手この手の策を弄して、続いて妹は息子のお絵かきの相手、父親は自家用車のベンツの運転手、母親は住み込みの家政婦の職にありつき、家族全員がこの大金持ちの豪邸に寄生(パラサイト)していく。その手並みは詐欺まがいであれ、ほとんど天才的な鮮やかさなのだ。
ウダツのあがらなかった者がいきなりめざましい才覚を発揮する。それもまた古今東西の物語に見られるパターンなのは確かだが、平凡な娘が降って湧いた幸運により王子さまと結ばれるといったファンタジーに較べれば、現代を生きる観客にとってはずっとリアリティがあるのではないか。
つまり、こういうことだ。社会にあって日の当たる場所を占めているのは、ひと握りの家柄や財産、学歴、容貌……などに恵まれた連中で、その他大勢は多少の能力があってもそうそう発揮できはしない。つまり、経済の格差以上に、成功へのチャンスの格差のほうが人々を苦しめている。韓国にかぎった話ではない。日本でも、たとえば政治家はいまだに二世・三世が幅を利かせ、テレビをつければいつも同じ顔がわが世の春を謳歌している。もちろん、かれらはかれらなりに才覚と努力を尽くしてのことだろうが、われわれにとってはおのれの運のなさを思い知らされる機会でしかなく、その結果、政治離れやテレビ離れが進行していくのも当たり前の事態だ。こうした閉塞感に風穴を開けるには、破天荒な家族の存在が必要なのだろう。
だが、奇術のようなパラサイトがいつまでも都合よく運ぶわけがない。実は、この豪邸には現在居住する社長一家の知らない秘密の地下室があって、その北朝鮮からの核ミサイル攻撃に備えたシェルターではもうひとりパラサイトの男が暮らしていた。数年前に事業の失敗で莫大な負債に見舞われあらゆるチャンスを失った、このホームレスの出現がストーリーを一気に破局へと突っ走らせ、ついに「拡大自殺」に行き着く。絶望の果てに他人を道連れにして自殺を図るという、このところ日本社会に頻発している現象の病理がここに摘出されているようで、わたしは震えたものだ。
では、八方塞がりの袋小路から抜け出すためにはどうすればいい?
「ノープラン! 計画を立てるとロクなことがない。無計画のほうがマシだ。最初から計画がなけりゃ何が起きようが怖くない、ひとを殺そうが国を売ろうが知ったこっちゃないんだ」
名優ソン・ガンホの扮する父親が、兄に向かって告げるセリフだ。いざホームレスの男が刃物を振りかざして暴れまわり、あたり一面が血の海となったときも、かれはこの言葉を頑なに守りとおす。社会でチャンスを失った人間は、たとえ他人を殺しても決して自分を殺してはならない――。そんな独善的な処世訓を主題とする映画が、西部劇の国から最高の栄誉を授かったことに、わたしは笑うに笑えないアイロニーを見てしまう。