ZIPANG TOKIO 2020「第11回産業観光まちづくり大賞 経済産業大臣賞受賞団体が決定!」
産業観光による地域活性化の優れた取組に対する顕彰制度である「産業観光まちづくり大賞」(主催:公益社団法人日本観光振興協会)の、経済産業大臣賞の受賞団体が決定しましたので紹介いたします。
産業観光まちづくり大賞とは
本表彰制度は、地域振興の手法として注目されている「産業観光(産業遺産や現在稼働している産業施設などを活用した観光)」による観光まちづくりを実践し、他の地域の模範となる優れた取組を行っている団体(地方自治体、観光協会、商工会・商工会議所、NPO、商店街、企業等)を表彰するもので、平成19年度から、公益社団法人日本観光振興協会が実施しています。平成26年度から、経済産業大臣賞及び観光庁長官賞を創設しています。
経済産業大臣賞 受賞団体
受賞団体
大阪糖菓株式会社(コンペイトウ王国)
取り組み内容
コンペイトウの特殊な製造工程と歴史を知ることができる、「見て・聞いて・作れる」体験型空間であるコンペイトウミュージアムを運営。非効率で過酷なコンペイトウ作りですが、製造工程や歴史の周知を行うことで、職人の若返りにも繋がっています。
受賞理由
施設としてのユニークさ、地域を代表する産業観光への成長とインバウンド対応の可能性が評価されました。また、次世代の人材育成につながっている点やコンペイトウミュージアム事業が団体の全体事業において占める割合が高い点も評価されています。
遥か彼方の国・ポルトガルから
南蛮船と共に現われ,ロマンを与えるコンペイトウ
1.南蛮菓子のコンフェイト
天文十二年(1543年)種子島にメンデス・ピントが漂着し
以来ポルトガル船があいついで来航することになる。
黒々とした船体。蜘蛛の巣のように張り巡らされた帆網。
南蛮船の帆柱には,十字架や王家の紋章を縫いとった白帆が旗めいていた。
マントをひるがえし,カピタンが現われる。 船から荷降ろしされるきらびやかな箱の中には、 日本の人々がかつて見たこともない異国の品々が納められていた。 鉄砲・時計・望遠鏡・眼鏡などにまじって、「南蛮菓子」があった。 中でも人目を引いたのが「ビードロ壷」の中でキラキラ輝く<コンフェイト>であった。 耶蘇教布教師のフロイスは、永録十二年(1569年)に布教許可を願って 織田信長に土産物を献上した。 その中にガラス瓶に入ったコンフェイトがあったといわれている。 この頃、いかに貴重な珍菓であったかが想像されます。 今から遡ること,420年前のことです。 日本人で一番最初にコンフェイトを口にしたのが 当時36才の気難しい信長であったというのですからなんとも愉快な出会いです。 2.コンフエイトに関係する人物 (1) ルイス・フロイス Luis Frois 1532~97 ポルトガル人宣教師。リスボンに生まれ、16才でイエズス会に入る。 聖パウロ神学校に入り、そこで日本人ヤジローと接触する。 52年に、日本より帰着したフランシスコ・ザビエルに会い 日本の事情を伝え聞いてたちまち日本熱にうかされることになる。 54年に司祭に任じられ、63年(永録6年)の秋に渡来した。 ザビエルに遅れること14年である。 その後、日本語や日本の習慣を学び、65年に上京して将軍足利義輝に会う。 ところが、義輝が殺されたので、次に織田信長と会いとうとう南蛮寺における布教許可を得ることとなる。 このとき、彼が信長に献上したお菓子が<コンフェイト>なのである。 フロイスは,九州で活動することが多く、日本史の編纂にも従事した。 彼の功績としては、自らの目をもって観察した当時の日本におけるさまざまな事象を克明に写したおびただしい数の書簡を残したことにある。 1597年2月5日(慶長1年12月19日)に26聖人の殉教を目撃して失意のうちにおよそ半年後に長崎で没した。 (2) 織田信長 天文3年5月11日頃(1534~1582)
信長の生誕の日は、天文3年までははっきりとしておりましたが 日の特定についてはこれまで明らかとはなっていなかった。 が、「信長公記」とルイス・フロイス書翰(1582年11月5日付け)から5月11日説があらわれました。 織田信秀の子・信長は、「桶狭間の戦い」において 今川義元を討ち、尾張一国を統一。 その後、京都に上って比叡山を焼き、浅井・朝倉氏を破り将軍足利義昭を追放(1568年)。 天正4年5月に武田勝頼を三河の「長篠の戦い」において討ったとき 3500人の鉄砲隊が用いられました。 この戦さが、鉄砲を使用した日本で最初の合戦であります。 「うつけもの」と言われ,タブーとされていたあらゆることに挑み天下統一を目前にしていた信長でさえ不安とためらいを感じていたものがありました。 それは、数千の僧兵を擁す信仰の拠点「比叡山」でありました。 「南都・北嶺(奈良の興福寺と京都の延暦寺)を滅ぼせば王法のたたりがある」との法難のおそれさえももろともせず信長は元亀2年(1571年)9月12日に比叡山を焼打ちにします。 「天魔の所為」と人々を仰天させたこの比叡山・延暦寺の焼き打ちを決意させたものに、イエズス会宣教師フロイスの影響を思わせます。 1569年の初めての会見以来、18回も会っている両者。 信長が傾聴したのは、フロイスが語る布教の闘争史でありました。 この外国の史実を聞き、信長は山門を恐れないようになったと考えられます。 天文3年生まれの信長は、このとき36才のはずなのですが、フロイスによると 『尾張の王は、年齢37才なるべく、長身痩身、髭少し、声甚だ高く、 非常に武技を好み、粗野なり。 正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして名誉を重んず云々』と、あります。 この信長の年齢の読み違いにも「謎」が生じております.
平戸市街地の丘の上に平戸ザビエル記念教会の尖鋭な屋根と十字架が望まれる。 平戸を代表する観光名所のひとつとなっており、賑わいを見せる。あくまで宗教施設の為、見学の際は入口の教会マナーを一読の上、祈りの気持ちをもって見学しましょう。
この教会は1913年(大正2)に「カトリック平戸教会」として今の愛の園保育園の所に建ち、1931年(昭和6)に現在地に建設された。 1971年(昭和46)に1550年のザビエル平戸来訪を記念して教会脇に「ザビエル記念像」が建立され、教会の名称が「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と呼ばれるようになったが、近年、正式名称を「平戸ザビエル記念教会」と改めました。
「写真撮影・掲載に当たっては大司教区の許可
をいただいています。」
(3) フランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier 1506~52 スペイン人のイエズス会宣教師で、日本キリシタン開教の先駆者。 スペイン名はハビエルというが、ポルトガル勢力圏で多く活動したため ポルトガル名のザビエル(正しくは,シャヴィエル)で呼ばれた。 彼は、スペインとフランスに挟まれた、ピレネーの山奥の城主の子として生まれた。 名門の出で、父は総理大臣になったこともあり、彼はその第六子。 1525年にパリに留学などしたが、心機一転イエズス会創設に努める。 40年、ローマ教皇の勅許を得て、またポルトガル王・ジョアン3世の要請で インドの教王代理となり、42年ゴアに到着する。 ここから彼の超人的な伝道活動がはじまる。 セイロン島・マラッカなどを中心に布教。 たまたま、46年にマラッカで日本人ヤジロー(アンジロ-ともいう)なるものに会い日本伝道を思い立つ。 1549年、ヤジローを案内人としマラッカを出発2カ月後勇壮に噴き上がる桜島の噴煙に迎えられ鹿児島に上陸 日本への第一歩を踏み出した。 当初、領主の島津貴久に従事したが京に上り国王から日本の布教許可を得ようと考えた。 50年に京都に着いたが、当時天皇の権力は無力であり 布教は思うように行かず、失意のうちにわずか10日あまりで大阪・堺に戻ることとなる。 このとき、傷心のザビエルをもてなしたのが豪商日比屋了珪である。 その後は,平戸・山口などで布教を行う。 しかし、彼の日本と日本人に対する期待は意のごとくならずインドに帰ることとなる。 1552年,中国開教の旅の途中に、熱病にかかり没した。 彼は二十才の頃、転身するのであるが これは当時のヨ-ロッパで、ルターなどによる宗教改革の嵐が吹き荒れていたことが 敬虔なキリスト教徒であったザビエルに影響を与えたのであろう。 彼のこの転身がなければ彼は日本に来ることもなかったしまたヤジローとの出会いやフロイスに日本のことを話すこともなかつたのであろうから 当然フロイスが日本に渡来し、信長にコンフェイトを献上することもなかったのではと思われる。 人と人との不思議な出会いを感じさせてくれる。 (4) ヤジロー [アンジローともいう.] 池端弥次郎重尚という名の武士(らしい?)。 ザビエルを日本に連れてきた男。 1546年,南蛮船に乗ってひそかに日本を脱出。 それから3年後、黒衣をまとった南蛮人達を伴って故国の土を踏む。 この南蛮人こそ、日本に初めてキリスト教を布教したイエズス会宣教師、 フランシスコ・ザビエルの一行であった。 日本史の上でこのように重要な役割を果たしたにも拘わらず彼の正体は謎に包まれたままであった。 ヤジローはポルトガル語がわかり、薩摩半島において貿易に従事していたが ある時仲間割れが起こり人を殺してしまう。 役人から逃れるため,ポルトガル船に乗り込み日本を出ていくのである。 逃亡中の中国・寧波(ニンポ-)で聖人ザビエルのうわさを聞きつけたヤジローは、 マラッカの「丘の聖母教会」で運命の出会いをする。 洗礼を受け「聖パウロ学院」で学ぶヤジローの聡明さに感銘をうけたザビエルは、 このとき日本布教を決意したとされている。 そして、ヤジローが案内人となりザビエルを伴い マラッカから中国人アバンの海賊船に乗り帰国する。 南蛮人を連れ帰ったヤジローのうわさは町中に広がり 領主の島津貴久の耳にも届くところとなり そこからザビエルはキリスト教布教の許可を得ることとなる。 一年間、鹿児島で布教活動をしたザビエル一行は、 ヤジローを残して平戸・京都・山口などを経て、インドに帰った。 残されたヤジロ-は、その後に起きた迫害の中でキリスト教を捨てたといわれる。 彼の最後を記したものに,「日吉池端古文書」である。 そこには「永録三年(1560年)、山川港と称寝(根占)港の中間で南蛮船と中国船との交易上の争いがあり、 仲裁に入った池端弥次郎重尚が火矢弾に当たって死んだ。」とある。
こんぺいとうの歴史
<こんぺいとう>は,砂糖菓子のひとつで
その名の由来はポルトガル語の「Confeito」(コンフェイト)からきている。
1543年(天文12年)にポルトガル人が日本にあらわれたことから
南ヨ-ロツパの影響を受けた「南蛮文化」が開花する。
時代は安土桃山から江戸初期にかけてのことである。
16~17世紀にかけて,「南蛮菓子」がもたらされることとなるが、
「南蛮菓子」という言葉は,慶長13年(1608年)バテレンが正月の挨拶として、
「南蛮菓子一折」を持参したと,薩摩藩の「薩藩旧記雑録」に記されている。「南蛮菓子」としては、「コンフェイト・カステラ・ボ-ロ」などが,その代表とされているが他の文献には「アルヘル・カルメル・パアスリ・ヒリヨウス」などのもある。
種子島に漂着したポルトガル人達は
キリスト教の布教を目的にした宣教師と通商の拡大を目指した貿易商人であつた。その6年後の1549年(天文18年)には,ザビエルが鹿児島に到着遅れること20年,フロイスは永録12年(1569年)に織田信長に会つておりそのときの献上品が「コンフェイト」なのである。
ところが,寛永16年(1639年)江戸幕府は,キリスト教の禁止を徹底させようとポルトガル船の来航禁止を目的とした鎖国令を出すのである。
これにより,コンフェイトの輸入が一時とだえるのであるが唐人によつてその製法が再び伝来され、日本人が自らの技術として製造していくのである。
このことは、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年)の中で長崎の町人が「こんぺいとう」の製造に2年余りも取組み、遂に成功し大金持ちになる逸話が記されている。そして、江戸時代末期の頃には各地にこんぺいとうの製法が伝わっていき、盛んになっていく。
江戸時代後期に手づくりされていたこんぺいとうは、明治の後期になると少しずつ機械化されていく。
こんぺいとうの機械について調べると、特許としては明治36年に「金米糖製造器(回転輪釜)」の名で出願されておりこの回転式製造機械を発明したのは村上辰三郎と言う。
この特許権を買い取り、こんぺいとうの量産をしたのが三谷為助である。
彼は,こんぺいとうの製造技術者であった東海慶太郎とともに、大阪西区に回転釜20台を据えて「機械製金米糖」と称して大々的に売り出した。
この頃の加熱の方式としてはコークスが使われており、この火加減の調節が難しくこんぺいとうをつくる職人は何年もかけ技術を習得したといわれている。
では,ポルトガルにおいてコンフェイトはどのような運命を辿っているのか。
勿論、今も作られている。ポルトガル本土のcoinbra(コインブラ)でも製造されてるしまた離島テルセイラ島にも数軒の工場があり、営々と作り続けられているのにはやはりコンフェイトが人々のこころに訴える何かがあるということであろう。
選考方法
9件の応募案件について、本表彰制度の主催者である公益社団法人日本観光振興協会が設置した有識者による審査委員会(※)において、対象とする産業遺産などの希少性、顧客に提供する際の編集方法などを評価の視点として審査を行いました。
経済産業大臣賞については、事業性や新たなビジネス機会の拡大があるかといった視点から審査を行いました。
※審査委員会:福川 伸次委員長(学校法人東洋大学 理事長)ほか9名で構成
表彰式
「全国産業観光フォーラムin半田」の全体会の中で行われます。
日時:平成30年1月25日(木曜日)13時~(予定)
場所:半田市福祉文化会館(雁宿ホール)(愛知県半田市雁宿町1丁目22番地の1)
経済産業大臣賞以外の受賞団体
観光庁長官賞
田舎館村むらおこし推進協議会(青森県)
金賞
桑名市産業観光まちづくり協議会/エイベックス株式会社(三重県)
銀賞
一般社団法人岩見沢市観光協会(北海道)
全国の観光に携わる地方自治体、観光協会、商工会・商工会議所、NPO、商店街、企業等の皆さん我が町の観光をアピールできる絶好の機会です。次回こそ必ずチャレンジしてください。
鎹八咫烏 記
協力(順不同)
経済産業省 〒100-8901 東京都千代田区霞が関1-3-1 代表電話 03-3501-1511
公益社団法人日本観光振興協会
〒105-0001 東京都港区虎ノ門3丁目1−1 虎の門3丁目ビルディング
電話: 03-6435-8331
大阪糖菓株式会社(コンペイトウ王国)
581-0038 大阪府 八尾市 若林町2丁目88番 TEL 072-948-1338
(一社)長崎県観光連盟 長崎県文化観光国際部観光振興課
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