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トーハク

2021.03.20 06:53

https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2020/01/23/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E3%80%8C%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%81%A8%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%80%8D%E9%96%8B%E5%B9%95%EF%BC%81/ 【日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」開幕!】より

トーハクで開催される2020年の特別展のトップバッター、日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」が1月15日(水)に開幕しました。

本展では古代日本において重要な地であった、出雲(島根県)と大和(奈良県)の名品を一堂にご覧いただくことができます。

展示室を少し覗いてみましょう。

「第1章 巨大本殿 出雲大社」では、神々や祭祀の世界を司るオオクニヌシが鎮座する、出雲大社に伝来する数々のご神宝を紹介します。

第1章ではまず、心御柱(しんのみはしら)と宇豆柱(うづばしら)が皆さまをお迎えします。

重要文化財 心御柱(左)・宇豆柱(右奥)

島根県出雲市 出雲大社境内遺跡出土 鎌倉時代・宝治2年(1248) 島根・出雲大社蔵(宇豆柱は島根県立古代出雲歴史博物館保管)

心御柱と宇豆柱は1本が直径約1.3メートルの巨木を3本束ねて一つの柱としています。

その直径はなんと、約3メートル!

この巨大な柱は鎌倉時代のもので、当時の出雲大社本殿を支えていた柱とされています。

この柱から推定すると、出雲大社本殿の高さは48メートルにのぼるとも考えられており、そびえたつ柱をイメージして展示しています。

また、心御柱と宇豆柱の中心間の距離は7.2メートルで、出土した時の距離を再現しています。

こちら2件そろって公開されるのは、本展が初めてです。

当時の出雲大社本殿が、いかに巨大な建築物であったかをどうぞご体感ください。

展示室内の心御柱

※3本のうち1本は複製

模型 出雲大社本殿 平成11年(1999)

島根・出雲市蔵

10世紀ごろ(平安時代)を想定した、出雲大社本殿の1/10スケールの模型。

10分の1で、この大きさ。模型出雲大社本殿の巨大さが分かります

次に、「第2章 出雲 古代祭祀の源流」では、弥生時代の祭祀に用いられた品々の移り変わりを通して、出雲における古代祭祀の源流を探ります。

圧巻なのは、島根県出雲市の荒神谷遺跡や雲南市の加茂岩倉遺跡から出土した青銅器が展示室を埋め尽くす光景です。

また、銅剣、銅鐸、銅矛といった異なる種類の青銅器を比較してみることができるのも見どころの一つです。

さらに、銅鐸の中でも大きさや文様の違いを見ることができることも、とても興味深いです。

国宝 銅剣・銅鐸・銅矛 

島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

国宝 銅鐸 

島根県雲南市 加茂岩倉遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

「第3章 大和 王権誕生の地」では、古墳時代の埴輪や副葬品の多彩な造形とその展開をたどり、ヤマト王権の成立の背景に迫ります。

第3章の注目作品の一つが、奈良県桜井市にあるメスリ山古墳出土の円筒埴輪です。

大和の地に出現した巨大な墳墓である前方後円墳は、政治権力の象徴するもので、メスリ山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀前半)につくられた前方後円墳です。

後円部の中央には被葬者を埋葬するために竪穴式石室が築かれており、その上に方形の区画をなすように約170本の円筒埴輪がびっしり並んでいました。

被葬者が眠る埋葬施設と外界を遮断し、聖域を保護していたと考えられています。

本展では、世界最大の円筒埴輪を展示しています。

その圧倒的な大きさに驚かされます。

また、高さ約2.5メートルという大きさに対し、厚さは1.6~1.8センチメートルという薄さで、高い技術力により作られたことが分かります。

メスリ山古墳の後円部の竪穴式石室と埴輪の配列復元図

※パネルにて展示

重要文化財 円筒埴輪 

奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 古墳時代・4世紀 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵

また、大和は貴重な三角縁神獣鏡が多く出土する地です。

奈良県天理市の黒塚古墳では三角縁神獣鏡が33面出土しており、1つの古墳から出土した数では全国最多となります。

本展では、出土した三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面すべてをご覧いただくことができます。

重要文化財 画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡 

奈良県天理市 黒塚古墳出土 古墳時代・3世紀 文化庁蔵(奈良県立橿原考古学研究所保管)

出土状況写真のタペストリーも合わせて展示しています

「第4章 仏と政」では、天皇を中心に仏教を基本とした国づくりが進められていくなかで、国家の安泰と人々の生活の安寧を祈るために誕生した造形をご紹介します。

第4章最初のみどころは、當麻寺の持国天立像です。

持国天は仏の世界を守護する四天王の一人です。

こちらの持国天立像は脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)という、大陸新来の技法で作られた現存最古の四天王像です。

彫りの深い凛々しい顔立ちは、時を忘れて見入ってしまいます。

重要文化財 持国天立像 

飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵

こちらの浮彫伝薬師三尊像(うきぼりでんやくしさんぞんぞう)は寺外初公開となります。

とても保存状態がよく、1300年の間大切に守り伝えられてきたことが感じ取れます。

重要文化財 浮彫伝薬師三尊像 

飛鳥~奈良時代・7~8世紀 奈良・石位寺蔵

今回ご紹介した作品以外にも、特別展「出雲と大和」では、考古、刀剣、工芸品、彫刻など、多種多様な作品が皆さまをお待ちしています。

是非、足をお運びください!


ワークショップ:日本の「聖地ネットワーク」 より

天のライン、地のライン、人のラインの説明の後 伊勢、出雲を結ぶ富士山ラインの話があり 、フォッサマグマ上の聖地とそれをつなぐ天・地・人の網の目のようなネットワークが 神々の護国につながってきたが 祭儀が廃れ続けてきた今日、日本の未来に憂いを感じるとのこと。

(天・地)のネットワークは不動に近いが 人のラインは 実にもろく 昔の人の叡智も無視され続け富士の噴火予測が象徴するように 亡国の危機さえ感じる。

聖地を行き来する巡礼こそ 人のラインをつなぐ祭りであり、みなさんが旅をする時 方位磁石を携えて 聖地ライン(日の出入りのライン)を意識し 護国の祈りをして欲しいという趣旨のものでした。

聖地ネットワークをまとめていたら 出雲と天照(北の大陸と南の大陸、陰と陽)の対立が富士の噴火をぶのではないか?と考えてしまいました。

理由その1

以前出雲巡礼の時 伊勢神宮に出雲の神も祀られたと聞いた記憶があります。

もしかしたら 出雲の神は 和歌山県の日前国かたす【(ひのくま国かたす)神宮:熊野三山がご神体】に祀られ 明治時代の国策により熊野詣が廃れたと考えられないでしょうか?

和歌山と出雲は深い関係にあったことは下の資料からも 考えられます。

その2

中央構造線は東アジア大陸と東南アジア大陸の 大断層で 出雲側は東大陸側のエネルギーの神、「コノハナヤサクヤヒメ」富士ライン側は東南アジアのエネルギーの神。

【鹿児島県の笠沙の岬(笠沙の岬の地名は「ニニギノミコト」(神武天皇の曽祖父)と「コノサクヤヒメ」の出会いの場で有名な地。)

四国の足摺岬、室戸岬の3岬をつなぐと朝熊ケ岳(あさまがだけ・

伊勢神宮 奥の院)から富士(あさま大社)に至る。】

その3

地質も 出雲側は世界でまれな 墓石=花崗岩・御影石が埋もれた大地→黄泉の国支配

「コノハナヤサクヤヒメ」側は緑の蛇紋岩が産出。

大陸側は 最近まで裏日本といわれ 過疎化が憂われるほど。

その4

「鳥取の氷ノ山(氷ノ山)、蒜山(ひるせん)、大山(だいせん)→本来の修験道のメッカ

島根 出雲:出雲は熊野の日嗣(霊魂を継ぐ) 空海は知りつつも 熊野巡礼よりも 四国を巡礼地として選んだとのことです。

その5

神無月の時も「エビスさんは 出雲にいらっしゃっていないから そう呼びたくない」という 話を 小耳にはさみました。

神々が出雲に集まるという謂われは 廃れたのでしょうか?

二つの富士山ラインは 熊野詣・軽視から 陰陽のバランスを失い 

富士山噴火の危機が訪れたと考えられないでしょうか?

<インターネット資料>

http://anou.mo-blog.jp/koan/2012/05/post_77c3.htmlより

熊野は、現在では和歌山県と三重県とにまたがっている。

熊野三山はいずれも和歌山県に属しているが、熊野市は三重県の最南端の町である。

その熊野市有馬町には、『花の窟(いわや)』と呼ぶ奇岩があって、日本書紀によれば、イザナミの葬られたところと伝えている。

そしてここにも、神倉神社のゴトビキ岩と同じく岩塊がそそり立っている。道路を挟んですぐ隣は熊野灘である。

もともと神の寄りつく場所だったらしく、今も『お綱かけ』という神事が行なわれている。

これは、葬られているイザナミの『魂(みたま)を祭るには、花の時にはまた花を以(も)ちて祭る』。また鼓(つづみ)・吹(ふえ)・幡旗(はた)を用(も)ちて、歌ひ舞ひて祭る」という日本書紀の記事(第五段一書五)に基づいていると言い伝える。

熊野は異界と接触する土地である。その昔、秦の始皇帝に命じられた徐福(じょふく)が、永遠の命を手に入れるために蓬萊山めざして大海原に漕ぎ出した。

そしてたどり着いたのが熊野だったと伝えられ、いつのことか、新宮市に墓ができた。中世には、仏教における異界である補陀落(ふだらく)への渡海をめざす修行僧たちが集まるようになり、出入り口を塞いだ小舟に乗って太平洋に漕ぎ出していった。

那智駅の近くには補陀洛山寺があり、那智大社の隣りには青岸渡寺が建つ。

古事記の神話では、木の国(紀伊国)は、スサノオのいます根の国の堅州(かたす)の国につながっていた。

紀伊の国と出雲の国は、熊野という同じ地名があるということからも想像できるように、理由は明らかではないが、かかわりの深いところである。

中心としてのヤマトからみれば、どちらもクマ(隈)であり、だからこそ異界に接触できる場所なのだ」(三浦祐之「古事記を旅する」

文藝春秋) 再び「出雲国風土記」を振り返ってみよう。

建築様式だが、出雲大社は「大社造り」といって、伊勢神宮の「神明造り」との類似点が指摘されている。けれども、どちらかといえば伊勢神宮の神明造りは南方系の要素が強いらしく、東南アジアの多くの地域で見られる高床式・高倉穀倉を原型とするようだ。それに対して出雲大社の大社造りは大陸系に近いと言われる。いずれにしても海を越えて輸入された外来の建築様式が、中央政権の創設と時期を同じくしながら少しづつ形式を整えていったに違いない。


  ワークショップ  http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/negainojitugenn.htm 【願いの実現】

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/32866311?fbclid=IwAR0bZAh74TxC_3Wp2TRsinu9M5qIGor13mwQN1BIL2sK-EkJdVX_Yyh4gkI 【夢と真実の願いは違います】


Facebook清水 友邦さん投稿記事 「太陽の道」

3月20日は春分の日です。

春分の日と秋分の日に多(おお)神社から三輪山を見ると三輪山山頂から太陽が昇ります。

多(おお)神社は三輪山と二上山を東西に結ぶ北緯34度32分線上にあります。

北緯34度32分線は天照大神と関係する太陽信仰と結びついていて太陽の道と呼ばれています。

古代遺跡が一直線上に配置されていることを「レイライン」と言いいます。

三重県の神島から、淡路島の石神神社、伊勢久留麻(いせくるま)神社を結ぶ北緯34度32分線上に伊勢斎宮や室生寺、長谷寺、三輪山 、大神神社、檜原神社、箸墓古墳、多(おお)神社、 大鳥神社が一直線上に並んでいます。

「多(おお)神社」は通称で延喜式で多坐彌志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)といいます。

祭神はミシリツヒコのはずですが神格がはっきりせず、現在の祭神は神武天皇の第2皇子の神八井耳命(かんやいみみのみこと)とされています。第3皇子は第二代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)です。

初代神武天皇・二代綏靖(すいぜい)天皇・三代安寧(あんねい)の初期の三人の天皇は、スサノオ、ニギハヤヒ、コトシロヌシ、物部氏の系統の娘や孫娘を皇后にしています。

古代は母系だったので子供は母方の家で育てられました。

天皇の歴代の姻戚は権力を握っていました。

多(おお)氏族に古事記を編纂した太安万侶(おお の やすまろ)や大神神社の祭祀氏族である三輪(みわ)氏の祖、大田田根子(おおたたねこ)や阿蘇神社神主家の阿蘇氏などがいます。

多神社の祭祀氏族に天火明命の五世を祖とする竹田川辺連がいて氏神の竹田神社の祭神はニギハヤヒ(天照国照彦火明命)となっています。

三世紀後半から四世紀前半の崇神天皇の時代に、出雲系の「倭大国魂神」と日向系の「天照大神」をともに宮中でお祀していましたが、一緒に住むには不安があったので排除したという記録があります。

古代の人々は、物事を進めるときに良くないことが起きると、それが神を祀ることと関係があると考えました。

菅原道真は怨霊でしたが祀ることで祟りはおさまると考えたので天神様にしたのです。

日向系のアマテラス(天照大神)は倭の笠縫邑(かさぬいむら)に遷し、皇女豊鋤入(とよすきいり)姫(初代の斎王)に祀らせました。

出雲系のヤマトノオオクニタマ(倭大国魂神)は大市の長岡岬(ながおかみさき)今の大和神社に移して崇神天皇の娘のヌナキノイリ姫(渟名城入姫命)に祀らせました。

ところが、ヌナキノイリ姫(渟名城入姫命)の体はやせ衰え、髪が抜け落ちて、ヤマトノオオクニタマを祀ることができませんでした。

三輪山と結ぶ檜原神社のしめ縄の下から大和盆地を眺めると春分と秋分の日に二上山に日が落ちます。

檜原(ひばら)神社は天照大神の最初の遷座地である笠縫邑(かさぬいむら)と言われています。

太陽が沈む二上山の葛木二上神社(かつらぎふたかみじんじゃ)にはトヨフツノミタマ(豊布都霊神)とオオクニタマ(大国魂神)が祀られています。

どちらもニギハヤヒを祖とする物部氏と関係がありトヨフツノミタマが石上神宮に、オオクニタマが大和神社(延喜式神名帳の正式名は大和坐大国魂神社)にそれぞれ勧請されています。

大和神社の祭神の倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)とは物部氏の親神であるスサノオ=イナタヒメ、ニギハヤヒ=セオリツヒメを総合した神です。

檜原(ひばら)神社と二上山の間を結ぶ太陽の道には箸墓(はしはか)古墳があります。

日本書紀によれば、箸墓古墳は「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで人民が連なって手渡しにして運んだ」と書かれています。大坂山(穴虫峠)は檜原神社の真西にあたり手渡しの道は太陽の道でした。

その間の太陽の道にそって箸墓(はしはか)古墳と箸中(はしなか)国津神社があります。

檜原神社の鳥居は三本の鳥居を組み合わせた独特の三つ鳥居です。真ん中の鳥居が春分と秋分に右と左の鳥居ががそれぞれ夏至と冬至の太陽が落ちるようになっていたようです。

伝説によると、ヤマトトトヒモモソ姫はオオモノヌシと結ばれますが暗い夜しか現れないので「お顔を見せてください」と頼んだところ、「それでは、明日の朝、私はあなたの櫛箱の中に入っていよう。ただし、私の姿を見て驚かないでほしい」と答えました。

男性は夜に来て泊まり朝に帰っていくのが母系時代の風習でした。

翌朝、櫛箱を除くと小さな蛇がいました。驚いて悲鳴を上げると、オオモノヌシは「おまえは約束を破って驚き、私に恥をかかせた」と告げて、三輪山へと去って行きました。ヤマトトトヒモモソ姫は自分のしたことを後悔して、箸で女陰とを突いて、死んでしまいました。

箸墓(はしはか)古墳の名称は「ヤマトトトヒモモソ姫の大市墓」となっています。

イチは神に仕える女性を意しています。ヤマトトトヒモモソ姫は神がかって託宣や予言を人々に伝える巫女であり女性シャーマンだったのでしょう。

国宝となった『海部氏系図』に「始祖の彦火明命(ニギハヤヒ)の9代目のオホナヒ(意富那比命)の妹は、ヒメ(日女命)またの名をカムオオイチ姫(神大市姫命)、ヤマトトトヒモモソ姫(倭迹迹日百襲姫命)、日神ともいう」とあります。

このことからヒメ(日女命)は卑弥呼ではないかと見られています。

箸墓古墳は卑弥呼の墓とする根拠の一つになっています。

卑弥呼は日食があった248年頃に亡くなっていますが纏向遺跡は西暦135~230年頃で箸墓古墳の築造時期は3世紀後半とみられています。

卑弥呼はヒメミコ(姫巫女)と考えられています。

古代は女性シャーマンが祭祀をおこなっていたので多数のヒメミコ(姫巫女)がいたと考えた方が良いでしょう。

男性の王が続いた時代、国が乱れたので卑弥呼を立てると国が平和になりました。

卑弥呼がなくなり男性の王を立てると国が乱れたので再び女王を立てたことが中国の歴史書にかかれてあります。

天照大神は女性ですが神社の由緒を調べてみると7世紀の持統天皇以前の天照の名称の祭神は男性の人格神でした。

アマテラスには日向系と出雲系があり、そして男性のアマテラスと女性のアマテラスがいました。

卑弥呼の時代から持統天皇の時代までは男性の王と女性の王がいて、入れ替わり男性の王の時代と女性の王の時代があったのです

神社の祭神は時々の権力者の都合により挿げ替えられています。

「多(おお)神社」は太陽信仰の中心で多(おお)神社の祭神は天照の称号をもつニギハヤヒだった可能性があります。

三輪山の山頂から冬至の日に昇ってくる朝日を見ることができる場所に他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)と鏡作神社、延喜式では鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)が鎮座しています。

どちらも祭神はニギハヤヒ(天照國照彦天火明命)です。

縄文から弥生に代わる途中に女性が神の声を聞いて祭祀を司り、男性が政治と軍事を受け持つとヒメヒコ制の時代がありました。

崇神天皇の時代になるとヒメヒコ制が終わりを告げ男性性が優位になったようです。

三輪山周辺の神社は縄文時代から継続してきた古代の人々の太陽信仰の痕跡と見ることができます。

縄文時代はアニミズムで山や太陽を崇拝する自然信仰・精霊信仰でした。

弥生になると徐々に父系に移行し、太陽を神格化した祖霊信仰になりました。

権力構造が変化すると神社の祭神も国津神から支配者の祖先神である天照大神へと変わっていったのです。