薄氷の縁よりひかり溶けてゆく
薄氷の縁よりひかり溶けてゆく
Facebook木漏れ日Cafe投稿記事《 あずさからのメッセージ 》
十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、多数の子から殴ったり蹴られたりして、亡くなるという痛ましい事件が起きました。それを知った時、私は障がい児を持った親として、また一人の教員として、伝えていかなくてはならないことがあると強く感じました。
そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で、初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。
梓が大きくなっていくまでの過程を、子供たちへの質問も交えながら話していったところ、
ぜひ自分たちにも見せてほしいと、保護者から授業参観の要望がありました。
以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、現在までに福岡市内六十校以上で、
出前授業や講演会をする機会をいただきました。
梓が生まれたのは平成八年のことです。私たち夫婦はもともと障がい児施設で、ボランティアをしていたことから、我が子がダウン症であるという現実も、割に早く受け止めることができました。迷ったのは上の二人の子たちに、どう知らせるかということです。
私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら、「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も書けないかもしれない」と伝えました。
息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、しばらくしてこんなことを言いました。
「さあ、なんと言ったでしょう?」
という私の質問に、子供たちは、「僕が代わりに書いてあげる」「私が教えてあげるから大丈夫」と口々に答えます。
この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが、グッと引き出されるように感じます。
実際に息子が言ったのは次の言葉でした。
「こんなに可愛いっちゃもん。いてくれるだけでいいやん。なんもできんでいい」
この言葉を紹介した瞬間、子供たちの障がいに対する認識が、少し変化するように思います。
自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、いやここにいてくれるだけでいいのだと、価値観が揺さぶられるのでしょう。
さて次は上の娘の話です。
彼女が、「将来はたくさんの子供が欲しい。もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」と言ってきたことがありました。
私は、「もしそうだとしたらどうする?」と尋ねました。
ここで再び子供たちに質問です。「さて娘はなんと答えたでしょう?」
「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」子供たちの不安はどれも深刻です。しかし当の娘が言ったのは、思いも掛けない言葉でした。
「そうだとしたら面白いね。だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」
子供たちは一瞬「えっ?」と、息を呑むような表情を見せます。
そうか、障がい児って面白いんだ――。いままでマイナスにばかり捉えていたものを、プラスの存在として見られるようになるのです。
逆に私自身が子供たちから、教わることもたくさんあります。
授業の中で、梓が成長していくことに伴う、「親としての喜びと不安」には、どんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。
黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、下半分に不安に思われることを書き出していきます。
・中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
・やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。
将来に対する不安が次々と挙げられる中、こんなことを口にした子がいました。
「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」
理由を尋ねると、「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、分かるようになればそれが喜びになる。意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」これまで二つの感情を分けて考えていたことは、果たしてよかったのだろうかと、
自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。
子供たちのほうでも授業を通して、それぞれに何かを感じてくれているようです。
「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」と言った子。
「町で障がいのある人に出会ったら、自分にできることはないか考えてみたい」と言う子。
「私の妹は実は障がい児学級に通っています。凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」と打ち明けてくれた子。
その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。「 “ お母さん、なんでこの子を産んだの?” と私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、“ 梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、ちょっとは優しくできるかもしれんよ ” と、あの子が言ってくれたんです……」
涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら、私も思わず胸がいっぱいになりました。授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。
「あなたの息子は あなたの娘は、あなたの子どもになりたくて生まれてきました。
生意気な僕を しっかり叱ってくれるから 無視した私を 諭してくれるから
泣いている僕を じっと待っていてくれるから 怒っている私の話を 最後まで聞いてくれるから 失敗したって 平気、平気と笑ってくれるから そして一緒に泣いてくれるから
一緒に笑ってくれるから おかあさん
ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね
私のおかあさんになることがきまっていたんだね
だから、ぼくは、私は、あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」
上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、お互いに学生時代、障がい児施設でボランティアをしていたからと答えたところ、「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる準備をしていたんだね」と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。
昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、梓を育ててくる中で得た多くの学びが、
いままさにここで生かされているように思います。
「お母さん、準備をしていたんだね」という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。
ー 是松いづみ(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)
『致知』2013年2月号「致知随想」より ー
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
障がいを持って生まれた子供も、あなたのところに、選ばれて生まれてきたのだと思いませんか?子育てをしていると、子供に教えられることが度々あります。
無意識のうちに、親が障がい児を線引しているのかもしれませんね。
「いてくれるだけでいい」「いろんな子がいたほうが楽しいから」
子供の素直な感想を聞くと、教えていたと思っていたら、子供に教えられてしまいますね。
誰もが、差別なく生きていける社会を作るためには、まずは、自分の意識を変える必要があると感じませんでしたか?
障がいはその子の個性であり、そのままの存在を受け入れる寛容さが必要なのだと思います。
障がい者が差別やいじめを受けないで、いきいきとお互いの存在を認め合って生きていけるような社会にしていかなければならないと、思いました。
この気持に共感していただけたら、シェアをお願いします。
FacebookYuriya Diancin さん投稿記事 <篠田桃紅 103歳になってわかったこと
幻冬舎より>
人は、用だけを済ませて生きていくと、真実を見落としてしまいます。
真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。
雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。
用を足しているときは、目的を遂行することに気をとられていますから、兆しには気がつかないものです。
無駄はとても大事です。無駄が多くならなければ、だめです。お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。安いから買っておこうというのとも違います。無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為です。なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。しかし、無駄はあとで生きてくることがあります。
私は、3万円だと思って買ったバッグが30万円だったことがありました。
ゼロを一つ見落としていたのです。レジで値段を告げられて驚きましたが、いい買い物をしたと思っています。何十年来とそのバッグを使っています。
そして、買ってしばらくしてから、そのバッグの会社オーナーが私の作品を居間に飾っていることを雑誌で知って、あらお互いさまね、と思いました。
時間でもお金でも、用だけをきっちり済ませる人生は、1+1=2の人生です。
無駄のある人生は、1+1を10にも20にもすることができます。
私の日々も、無駄の中にうずもれているようなものです。毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。時間も無駄にしています。しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。
なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれません。
つまらないものを買ってしまった。ああ無駄遣いをしてしまった。
そういうときは、私は後悔しないようにしています。
無駄はよくなる必然だと思っています。
http://ameblo.jp/hiroo117/より
もし仮に、無駄のまったくない人生を生きてきた人がいたとしたらどうだろう。
やることなすことすべてうまくいき、日の当たる場所や、近道だけを選び、効率的で全く無駄のなかった人生。
もしいたとすればの話だが、およそつまらない人間がそこに存在していることになる。
人は、寄り道をしたり、道草をくったり、どん底を味わったり、失敗や嫌な目に遭うという、人生の無駄を経験するからこそ、人としての味や深みが出る。
「人生の余白」ともいうべき、人としての遊びや余韻の魅力だ。
「無用の用」という老子の言葉がある。
一見すると役に立たないようなことが、実は大きな役割を果たしているということ。
無駄のある人生も、時にいいものだ。