Okinawa 沖縄 #2 Day 174 (21/03/22) 旧浦添間切 (11) Jicchaku Hamlet 勢理客集落
旧浦添間切 勢理客集落 (せりきゃく、ジッチャク)
- グスクジョー (コバ森)
- 勢理客之殿 (ジッチャクヌトゥン)、チンガー
- 組踊公園
- 国立劇場おきなわ
- 勢理客集落入り口
- 勢理客公民館
- 勢理客の獅子舞
- ウビガー (産井)
- 井小 (カーグァー) 跡
- 樋川 (ヒージャー) [未訪問]
- 根神 (ニーガン、安里大親の屋敷跡)
- 村屋跡
- 集合拝所
- 勢理客之塔
- 勢理客橋碑
今日は旧浦添間切の10番目の集落で那覇と隣接している勢理客を訪れる。
旧浦添間切 勢理客集落 (せりきゃく、ジッチャク)
沖縄には難解な地名が多いが、この勢理客もその一つ。「じっちゃく」と読める人は殆どいないだろう。この漢字は当て字で、古い時代に「せりかく」、または「ぜりかく」と呼ばれていたので、「勢理客」の漢字を当てていた。沖縄の方言では、母音の「え」は「い」、「お」は「う」と発音する。つまり、母音は「あ、い、う」の三つしかない。また、子音の「k」を、「ch」と発音する事が多い。よって、「ぜりかく」を読むと「じりちゃく」となり、それが「じっちゃく」と変化した。
勢理客の人口は戦後、沖縄本土復帰までは高い率で増加している。しかし、その後、一転して減少に変わっている。この人口推移についての理由は見つからなかったが、個人的推測では、戦後、浦添市に置かれたキャンプ・ギンザーが関わっていると思える。米軍基地での仕事を求めて、多くの人がこの周辺地域に住み始めたという。1950年代では浦添市の労働人口の30%が米軍基地の仕事に携わっていたそうだ。それが、人口増加の主たる理由だろう。その後、本土復帰により、米軍基地縮小で労働力の需給のバランスが変わった事が、1970年代以降、人口が減少している背景ではないかと思う。
明治時代は勢理客は人口の少ない村だったが、戦後増加して1972年では四番目に人口の多い字となっている。先に述べた様に、本土復帰後、人口は減少し、現在では浦添市の中では人口が少ないグループに戻ってしまった。
人口増加率は本土復帰までは、浦添市の中で最も高かったが、それ以降、減少に転じている。他の字とは全く逆な現象がみられる。
時代別の民家の分布を見ると住宅地の範囲は拡大しているのだが、国道58号線の西側には住宅がほとんど見当たらない。隣の那覇市では埋め立て地の海岸地域には住宅地が広がっているのだが、字勢理客では公園、工場、倉庫地帯で住宅はない。勢理客の人口増加は米軍基地の労働力需要に左右されている。他の字は積極的に集合住宅地開発をしていったが、勢理客では、それがなされていない。何故、国道58号線の西側に住宅地開発をしなかったのだろう?これは勢理客が決めたことではなく、沖縄県、浦添市が決めたのだろう。もし、この海岸方面地域に住宅地開発がされていれば、勢理客の状況は変わったと思える。何故、開発をしなかったのかの理由は見つからなかったが、すぐ北側に米軍基地のキャンプ・ギンザーがある事が関わっているのだろうか?
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: コバ森 (神名: ゲライミヤノセジ、消滅)
- 殿: 勢理客之殿 (消滅)
勢理客集落では字誌は発行しておらず、またこの集落に関しては、詳しい資料は見つからず、村として行われている祭祀は知りえなかった。ただ、ほとんどの集落で、行われている祭祀の8割から9割までは共通なので、大きな違いはないと思う。昔からの祭祀がどれだ継続されているかが、集落によって大きく異なっている。この勢理客集落にはノロはおらず、仲西ノロによって祭祀は執り行われていた。
勢理客集落訪問ログ
勢理客は戦後米軍統治下では軍道1号線だった現在の国道58号線を挟んで東西に広がっている。まずは勢理客が始まったとされている西側から巡る。
グスクジョー (コバ森)
現在はグスクジョーと呼ばれ、琉球国由来記ではコバ森 (神名: ゲライミヤノセジ) と記されている拝所を訪問。訪問とはいっても、遠くから見るだけで、現在は沖縄食料の工場敷地内になっている。小湾川口の河口南側、沖縄食糧の北西側の石灰岩の断層岩が一段と高くなった崖上一帯というのでこの辺りだろう。戦前までは松の大木やソテツがおい茂り、川と海に面する上には低い石垣が積みあげたのが見られ、狭い地積のグスクがあったと考えられている。 このグスクの内部にイビが祭られ、かつイビ背後の海に面した所には、海に向かって拝する場所もあったという。 又、回りの崖下には古墓があり、人骨が散乱していたそうだ。このグスクジョー (コバ森) の前に勢理客集落が始まり、後に現在の集落がある場所に移住したと伝わっている。
小湾川に架かる小湾橋。この辺りが昔の海岸線で、現在は海側に埋立地が広がっている。
勢理客之殿 (ジッチャクヌトゥン)、チンガー
国道58号線の西側、グスクジョー (コバ森) への途中に琉球国由来記の勢理客之殿があったと記されている。 沖縄食糧の倉庫側付近で、マツダの販売店になっている。またこの近くには、かつては、ツルベの堀井のチンガーがあり、その少し奥の方に火之神があったという。ノロは、その火神を拝してからグスクジョー (コバ森) に祭祀に行ったという。今はコバ森と一緒に勢理客の集合拝所に祀られ、この地には当時を偲ぶものは無くなってしまった。
組踊公園
国道58号線の西側には民家は見当たらない。工場・倉庫や公園地帯になっている。その地域内にある国立劇場おきなわに隣接して組踊公園がある。琉球石灰岩の石畳や、琉球赤瓦屋根の東屋など沖縄色豊かな公園だ。しばらくここで休憩を兼ねて散歩をする。今日は春分の日だが、人は少ない。
- 万歳敵討 - 田里朝直 (1703-1773)
- 執心鐘入- 玉城朝薫 (1684-1734 組踊の創始者)
- 花売りの縁 - 高宮城親雲上 (1700年代 生没年不詳)
- 伏山敵打 - 作者創作年不明
国立劇場おきなわ
組踊公園に隣接して、組踊や琉球舞踊など沖縄伝統芸能の保存振興を図ることを主な目的として2004年に設置された国立劇場がある。1987年に沖縄県が国に劇場建設についての要望書を出し実現したもの。施設の外観は、琉球王国時代の家屋などを基にしたデザインで、外壁は斜めに交差した網代形の竹組みをモチーフにしている。屋根には琉球瓦や琉球石灰岩を使用している。
勢理客集落入り口
国道53号を渡り、勢理客集落に入る。国道からの入り口に村を守っているシーサーのいる休憩所があった。ちょっと変わったシーサーだ。
勢理客公民館
集落に入ったすぐのところに公民館がある。元々の村屋は集落の中心部にあったが、戦後この場所に公民館を建て移されている。
勢理客の獅子舞
公民館入り口に獅子舞の案内が置かれていた。ここ勢理客では古くから、村落の豊年祭や厄払いの行事などで獅子舞が演じられている。 勢理客の獅子舞の由来については明らかではないが、「コーレー具志堅」という人が伝えたと伝わっている。勢理客の獅子舞は、11種類もの舞の型があり、芸が非常に細かく、足の踏み込みが大きく勇壮という特徴がある。現在では、勢理客の獅子舞は、旧暦の八月十五日に演じられている。
ウビガー (産井)
公民館の敷地内一画に産井 (ウビガー) 跡がある。 若水 (ワカミジ) ガーとも呼ばれ、産水や若水を汲んだ井戸で飲料水にも利用されていた。初御願、旧8月8日の島腐らし (シマクサラシ)、8月15日の十五夜、12月24日の御願解き (ウガンブトウチ) で拝まれている。
井小 (カーグァー) 跡
公民館の裏にも井戸跡がある。公民館建築の際に埋められてしまった。先程のウビガーは飲料水用だったが、この井戸は洗い水に利用されて、使い分けがされていた。井小 (カーグァー) もウビカーと同じ祭祀で拝まれている。
樋川 (ヒージャー) [未訪問]
公民館は少し高台にありその傾斜地に樋川 (ヒージャー) があると資料にはなっていた。地図で示された場所はフェンスで入れなかった。資料の写真を合わせて掲載しておく。
根神 (ニーガン、安里大親の屋敷跡)
公民館から西に進んだ集落の中心部には、勢理客村の村立てを行ったと伝わる安里大親の屋敷があった場所で、その住居跡を拝所にして根神として祀っている。
村屋跡
根神 (ニーガン) の裏が以前の村屋があった場所。
集合拝所
集落から北に外れた崖の上に、かつて存在した勢理客の拝所をまとめた集合拝所がある。それぞれの拝所毎に香炉が置かれている。
先程、訪れたコバ森の御嶽にかつては点在していた拝所だ。向かって左から城門御岳 (グスクジョー、コバ森)、城門火の神 (グスクジョーヒヌカン)、火の神 (ヒヌカン)、チン井戸 (チンガー) 、殿 (トゥン、勢理客之殿) となっている。
勢理客之塔
祠の隣には戦争で犠牲となった149柱の村人を弔い、昭和41年に慰霊塔が建てられている。勢理客集落では毎年6月23日に慰霊祭を行っている。
勢理客橋碑
これで勢理客集落巡りは終了したが、まだ時間に余裕があるので、小湾川を北に渡り、宮城集落の文化財も見学することにした。宮城集落訪問記は次回残りの文化財を見た後に別途とする。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)