琉球八社巡礼の総括... ~琉球の神道
「沖縄の神社」という書物があります。
いまは、出版社自体がなくなってしまい、ネットでも中々みつけられませんが、この著者は、加治順人さんというかたで、現在は「沖縄県護国神社」の宮司さまです。
この宮司さまのご尊父さまもやはり同神社の宮司をされており、その時代からのご縁もあって、筆者の沖縄との交流も始まりました。
その「沖縄の神社」をまだ読んだことがないので、現時点でははっきりとした物は申せませんが、今回の琉球八社の参拝において、日本国の成立、並びに沖縄史というものが如何に密接だということの一方で、長い時間、一定の距離と間隔を置きつつも発展してきた沖縄の民俗ということに、少し理解ができた気がいたします。
一方で、わたくしひとりだけに軸を置くとすれば、残念ながら、この問題(日本の神話と日本国の成立)について、真剣に取り組むようになったのがここ数年のことであるからして、残された時間を考えると、沖縄史との関連を探求していくには時間がかなり足りないと思います。
ただ、幸いなことに今後数年は毎年秋に沖縄訪問をすることに関していえば、よほどのことがない限り交流は続けていきますので、年に何日かは確実にこの課題を継続して取組ことはできるので、そのペースで続けていきたいと考えます。
そして、それ以上に「必要」なことであれば、それはお示しされますから...
そのときで良いと思います。
以上のことを踏まえて、この度の「琉球八社巡礼」を振り返ってみますと、色々と興味深い観点がいくつか現れました。
今回は、そのことを列記いたします。
但し、現段階でそのすべてに回答を出せるものではありませんので…
〇遙拝について
そもそも遙拝とは、
「遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむこと」
で、あります。
神社もそのひとつです。
そして一番身近なものは氏神さまです。
氏神さまは現在住んでいる場所を古くからお守りくださっています。
残念ながら筆者の現在の環境では毎朝夕に氏神さまに感謝の祈祷を捧げられません。
なので、自宅の神棚に祈祷をしています。
ただ、神棚には中央に神宮系(天照大御神を筆頭に、豊受大神宮、月讀宮、瀧原宮、倭姫宮等々の)、右に氏神さま(氷川神社)、左に崇敬社として大神神社系、そして出雲神社系(いま現在は五社飾りですが、4列並び、いずれもお札は重ねています。氏神さまの右は空いております)をお祀りしており、ここから遙拝しております。朝は撤饌し四系統の神さまにご祈祷しているので、やはり10分くらいかかります。
つまり、氏神さま以外にも日々の感謝を御礼しています。
欲張りかもしれませんがこれがわたくしの遙拝です。
ですが、祈祷は祈願でなく感謝です。
わたくしは神々に祈願はいたしません。するのは報恩感謝です。朝は新しい日を迎えられたことへの感謝。夕は無事に終えられたことへの感謝。
神社の参拝も同じです。
ここに来られたことの感謝、いまあることへの感謝です。
本来、日本人はみな毎日やってきたことなのです。
その点から思うと、沖縄の方々はこの朝夕の遙拝が日課になっています。
きちんと神社(というか信仰対象そのもの)に足を運ばれています。
一家で来られるかたがたがほとんどでした。
敬虔な方々です。
日本人が忘れてしまったことが、この島には生きていることには憧憬いたします。
〇洞窟信仰
そもそも神とは人智を超越したところにあり、その象徴は大宇宙です。
宗教という世界観に於いては、その対象の根本は宇宙です。
その宇宙が少しずつ身近になってきたものが、神という畏敬崇拝の対象になっており、それはまさしく人類における共通観念でしょう。
もっとも象徴的なものは太陽、さらにいえば月であり、そして海や山、大自然の色々な形態に神を重ねてきました。
それは「分かりやすい」からでしょう。
仏教などはもっとわかりやすく形にしました。
日本人は稲作文化の国ですから、基本、太陽はもっとも信仰の厚いところです。
そして山でしょうか??
火山帯の上に国土があるこの国の民にとって、最も身近な畏敬の対象でしょう。神社の発祥の多くは磐座です。
更にご神体そのものでもあります。
洞窟信仰で有名なのは、クレタ島のディクテオン洞窟でしょう。
なんといっても、全知全能の神ゼウスが生まれ育った場所ですから(ん、このシリーズギリシャ神話多いなぁ...必要なのかなぁ?? 余談ですが、いまふと思い出しましたが、ゼウスも末っ子でしたね。ハデスとポセイドンがお兄さまです。まぁいいか、このくらいで...)。
日本には少なくあまり有名ではありませんが、洞窟信仰がないわけではありません。
洞窟が例えられるものとしては、例えば「子宮」です。
また、例えば、伊邪那美さまの「黄泉の国」は洞窟をイメージできるものです。
或いは、天照大御神がお隠れになった「天の岩屋戸」も洞窟であるといえます。
つまり、「死」の概念を含んだ意味合い(「天の岩屋戸」の場合は日食という意味の死)があるのと同時に「死生観」さらには、「死」からの蘇りからの子宮という概念(輪廻転生とは違います)があると思われます。
〇琉球の神々
そこで、改めて、琉球の神々という観点から、これらを見てみると、意外な接点を見つけることができます。
但し、「琉球の神々」という言い方はちょっと広範囲過ぎるので、「琉球神道」(沖縄本島を中心に信仰されてきた多神教宗教)に限ってみたいと思います。
俗にいう「御嶽信仰」とか「ニライカナイ信仰」と呼ばれるものです。
琉球神道は自然発生的に生まれたと考えられていて、なかでも。御嶽は古代集落が原型と考えられ、御嶽信仰は祖霊崇拝が変化したものと考えられています。つまりこの祖霊信仰こそが、洞窟信仰に繋がっている部分です。
また、鳥越憲三郎氏(民俗学者)は、琉球宗教の二大潮流は「御嶽信仰」と「火神信仰」で、その後火神(ヒヌカン)は日神(テダ)と同一視され、国王の実権の所在を表徴する役割になったと述べています(日神のことは後述します)。
御嶽信仰(うたき信仰です。おんたけ信仰ー木曽などーとは違うものです)は、アマミキヨとシネリキヨという神が、各地に、聖地である御嶽を作り、森を作り、国の形を作ったという神話から発祥しています。
御嶽は日本本土に見られる神社の原初的形態である神籬(ひもろぎー神道で、神社や神棚以外の場所で祭祀を行う際に、臨時に神を迎えるための依り代となるもの)形式を伝えるものであるといえます。
このように考えていきますと、沖縄本島に於いての祖霊信仰は御嶽に祀られる神、その多くはその村落の構成員と血縁関係を持つ氏祖であり、したがって氏祖は祖霊神であり守護神です。
ここに、沖縄の方々が朝な夕なに社に通い、祈祷を捧げる意味が明確になってまいります。
日本においての先祖崇拝が尊重されたのは仏教の功績であり偉業です。日本の神道にはこういう考えが皆無だった訳ではありませんが、手法を持っておりませんでした。神仏混合することにより、神道は初めて庶民の中に入っていくことができました。
一方で琉球神道は仏教を頼らずとも、祖先崇拝が一般化しております。
ここに北方系にはない、南方系の日本国建国のヒントを見出すことができるのです。
〇太陽神伝承
日本を代表する民俗学者の折口信夫先生は、「琉球神道は日本本土の神道の一つの分派」と著書で述べられ、「むしろ巫女教時代のおもかげを今に保存している」と記されておられます。
これはとても興味深い一節です。
昨年久高島で、沖縄の太陽神信仰の実際を知りました。
そしてそれは天照大御神とは別の神さまです。
筆者がこの巡礼の最中、「波上宮」において、天照さまを感じなかったことのポイントはここにあります。
長寿宮建設のために本土の太陽神の神意に頼ったことを、その後、この民俗は葬りました。いや、葬るという能動的な行為ではなく、その一過性な神力は、そのときだけで一般には受け入れられなかったという方が正しいです。
なにかに似てませんか。
はい。沖縄においてのその当時の本土の太陽神は、ある種の新興宗教のようなものでした。いや、宗教だったかどうかも疑問です。
そして面白いのが、沖縄の神、アマミキヨさまという女神さまです。
沖縄開闢の神であり、そして、五穀豊壌 、子孫繁栄、王城守護のご神徳をお持ちで、シネリキヨさまという男神さまとその後
この辺りは伊邪那岐さま、伊邪那美さまに似てますが、アマミキヨさまがダブルのは前述のご神徳の通り、アマテラスさまです。
このアマミキヨに命じたのが日の大神(天にある最高神・日神・天帝)だと伝承されています。太陽神が最高神なのです。
琉球神道には「東方信仰」があります。
東方には太陽神「てぃだ」を崇拝し、逆に西方は死の死の領域と考えられ、忌避されました。王国時代の風葬は西方の崖や洞窟で行われました。そして東方の海に浮かぶ久高島は琉球王国最高の聖地と考えられ、久高島の中央にあるクボー御嶽は太陽が穴そのものとされ、以来、久高島は現在に至るまで沖縄最高の聖地されています。
つまり、昨年の久高島、からの今年の琉球八社巡礼は、琉球神道の道筋通りのコースだったということを判明いたしました。
琉球八社巡礼.1 ~そもそも...