【社長通信】思えば遠くへ来たもんだ(PART-3)
3月に入り我が家の庭では毛糸のようなマンサクの花と白梅が満開、そして水仙と福寿草がひっそりと春を告げる。季節は巡る、コロナ禍のない真の春ももうすぐだ。
さて、18歳の時、高校卒業後に山形から東京へ。大学での4年間の学び、そして就職と東京での浮沈の激しい体験を経て36歳の時に山口へやってきた。あれから41年、これを落人ではなく今ではⅠ・ターンと呼んでいる。当初は緊急避難的に妻の実家に身を寄せて、温めていた次の企画の構想をじっくりと練っていこうと考えていた。
そして積もりに積もったストレスから解放されようやく戻った普通の生活に生きている喜びを感じていた。この年に長女も生まれ家族が4人になった。
その間、開院間もない病院を手伝いながらも、意識は東を向いていた。病院経営も基本的にはヒト・モノ・カネ・情報という経営資源を活用してお客さんである患者に医療を提供するというサービス業である。
経営の態(てい)をなしていない現状が見えてくると自分になにが出来るのか、自問自答の始まりだ。
当時、一部の民間医療機関による営利目的の乱診乱療により医療への信頼が失墜し、民間病院にて患者が激減した。当院もその影響を受け、厳しい経営環境にあった。
そんな現実を前に見て見ぬふりはできず、本気で取り組まざるを得なくなった。
経営基盤の確立のための組織改革として先ず取り組んだのは職員の意識改革だ。
そして向こう5年間の経営目標を立て、それに添った収支予測を作成し、取引銀行との融資交渉には気合が入った。どの事業でもそうだが基本は人材、医療という専門職種の人材確保には苦労したが、成果も上がってきた。
それらの努力が功を奏し、5年後には当初の目標を達成できた。
さらに紆余曲折を経て10年後には次なる構想へ着手。それとともに経営の多角化の一環としてセキュリティー部門も創設した。
警備業の認可を取得したところへ老舗の警備会社から事業承継の相談が舞い込んだ。
ところがその会社の経営実態を調べてみると存続は難しい。
そこで、会社を整理・解散し従業員とお得意先をそのまま引きうけて再出発を図ることにした。これもまた病院業務の片手間で出来ることではない。海のものとも山のものとも分からない事業にまたも取り組むことになった。平成6年3月に営業を開始した。
小泉政権の緊縮財政の下、公共工事の予算が削減され、工事も警備の仕事も激減。
少ない仕事の奪い合いで実質赤字、季節による仕事の増減もあり人材も不安定。
「この会社にいても生活できないから辞めます」との言葉は自分が否定されたようでグサリときた。
会社の存続を賭けた自分との戦いが10年以上も続いた。
そんな中、2010年6月の社内報「一味同心」の発行が転機となった。
自分自身をとことん見つめては会社の存在意義、経営理念、ビジョン、方針等熟考した。
それに則っての「一味同心」の真摯な取り組みが今日、社会にあってなくてはならない警備会社として高い評価を得るまでになった。まさに「一味同心」一人ひとりの努力の賜である。
人は生まれる時、親、時代、場所を選べないといわれる。
この世に生を受けて、人との縁があって人間として生きていく。
つまり、仕事においても(有)セフティワンに縁があって入社し、仲間と出会い、警備の仕事を通して働く喜び、生き甲斐を感じ、生活の糧を得て人生を楽しむ。
「一味同心」みんなの幸せを願ってこれからも会社は成長を続けていきます。
代表取締役 加藤慶昭(2022年3月5日記す)