【麹町①039】飯田町
町番号:麹町①039
町名:飯田町 一~六丁目
読み方:いいだまち Iidamachi
区分:町丁→俗称→町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1966(昭和41)年9月30日
冠称:なし
現町名:千代田区一ツ橋一丁目、九段南一丁目、九段北一丁目、西神田三丁目、飯田橋一~四丁目、富士見一・二丁目、神田三崎町三丁目
概要:江戸期は九段坂下一帯の市街地で、番町と小川町の武家地に囲まれていた。中世期の千代田村の地という。入国間もない徳川家康が視察に来たとき、農家が17軒ほどあり、うち1軒の飯田喜兵衛が案内役となって以来、喜兵衛を名主に指命し、「飯田町」と呼ぶよう命じたという(求涼雑記)。「所の巨細とも申上(土地のことについて、細かく詳しく申し上げた)」(『新撰東京名所図会』)。
当町は日本橋川(外濠川)の水上交通の終点で、周辺武家地への物資の供給地であり、町人・武家の山の手文化交流の場であった。元禄年間(1688~1704年)、武家地となり築地に代地が与えられたが、九段下に僅かに町屋が残され、「元飯田町」と呼ばれていたが(備考)、『切絵図』には飯田町中坂通という通り名が見え、また『備考』に「飯田町糀町辺」とあり、元禄年間(1688~1704年)以降「元飯田町」付近一帯の地域称となっていた。1868(明治2)年、九段坂上に招魂社(靖国神社)ができてから門前町的性格を強めた。
1872(明治5)年、元飯田町、裏四番町と周辺武家地を合併して飯田町一~六丁目が成立。「町」は「まち」と読む。同年の戸数607・人口2,343、物産に木櫛、腹掛、股引、足袋等があった(府志料)。
1878(明治11)年、東京府麹町区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麹町区に所属。1895(明治28)年、甲武鉄道(現・JR中央線)の飯田町駅(廃止)の開設で市街化が進んだ。明治30年代の町内には、フランス公使館、琉球国王の屋敷、軍人のクラブ偕行社、日本赤十字社、皇典講究所(國學院を併設)及び城北中学校、暁星学校、至誠学院、日本文学館、稚松高等小学校、明信館、中川小学校、素修学校、日本法律学校、宇宙学院、大日本英語学会、根本道義塾、就将塾、数学専修館、和洋裁縫女学院等の学校や私塾、実業教育社、判例彙報社、史籍集覧発行所等の出版社、甲武鉄道、川越鉄道株式会社の社屋、至誠医院、東京眼科病院等の病院、大日本聖公会、鈴木写真店、他に旅館、待合、飲食店等が多かった(画報)。
1933(昭和8)年7月1日、帝都復興計画の一環により、一丁目が竹平町の一部、九段一丁目の一部となり、二丁目が九段一丁目の一部、富士見町一丁目の一部、神田区西神田二丁目の一部となり、三丁目が一丁目の一部、富士見町一丁目の一部となり、四丁目が一・二丁目の各一部、神田区西神田二丁目の一部となり、五丁目が一・二丁目の各一部となり、六丁目が二丁目の一部、富士見町一・二丁目の各一部となり、飯田河岸と神田区三崎町三丁目の一部(日本橋川右岸)が二丁目の一部となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都麹町区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、一丁目1、3、5、7番地は九段北一丁目に、一丁目9、11、13、15、17、19、21、25番地、23番地の一部は飯田橋一丁目に、一丁目23番地の一部は富士見一丁目に、一丁目偶数番地は飯田橋二丁目に、二丁目1~17の奇数番地は飯田橋四丁目に、二丁目19番地は富士見二丁目に、二丁目偶数番地、無番地(飯田河岸)が飯田橋三丁目にそれぞれ編入となり消滅。
撮影場所:飯田町一丁目