【神田①058】松住町
町番号:神田①058
町名:松住町
読み方:まつずみちょう Matsuzumichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1964(昭和39)年11月30日
冠称:1947(昭和22)年3月15日から1964(昭和39)年11月30日まで「神田」
現町名:千代田区外神田二丁目2~4番と5番南(湯島横町時代)、千代田区外神田二丁目1~4番(松住町となってから)
概要:昌平橋の北側の地。1657(明暦3)年以前は浄土宗天然山長福寺があったが、同年の大火後の1658(万治元)年、浅草新寺町に移転。その後も暫く長福寺の地所だったが、寺方の願いにより町屋が許された。1699(元禄12)年、伊勢町家持四郎右衛門に売られ、のち五郎兵衛、駿平へと転売された。それまでは湯島一丁目の続地で俗に「湯島一町目横町」といわれていた。元禄・宝永年間(1688~1710年)、周辺地を合わせて「湯島横町(正式に「湯島横町」となる前は「丁」を用いて「湯島横丁」であった(千代田区町名由来板))」となった。日光社参の御成街道の道筋にあたり、起立当時は家も少なく広々としていたため俗に「大横町」といわれた。また植木屋や材木屋が集住し、別名「材木町」ともいわれ、町の南側に植木河岸があった(備考)。
前身の湯島横町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、縁起を担ぎ、「松住町」と改称。同年の戸数112・人口544(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、昌平河岸を編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
1964(昭和39)年12月1日、住居表示の実施により、外神田二丁目に編入となり消滅。
撮影場所:松住町