【神田①059】一ツ橋通町
町番号:神田①059
町名:一ツ橋通町
読み方:ひとつばしとおりちょう Hitotsubashitōrichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1935(昭和10)年
冠称:なし
現町名:千代田区一ツ橋二丁目1・2、4、6と3番、5番東以外、神田神保町二丁目
概要:成立以前は、一ツ橋御門外の下総高岡藩井上氏、丹羽亀山藩松平氏上屋敷他の武家地と護持院原内三番火除地だった。徳川家康関東入国時は沼地だった所で、木村源太郎なる者が3・4町を拝領して埋め立てたといわれる(事跡合考)。その後、武家地となったが元禄年間(1688~1704年)に火除地となった。宝永年間(1704~1711年)、隣接の護持院原の名を継ぎ、「三番原」ともいった。
「一ツ橋」の地名は中心部よりやや南を南東から北西へ縦断する日本橋川に架かる一ツ橋(一橋)に由来。一ツ橋付近は元々日本橋川と小石川(現在の白山通り)の合流地点であり、合流点を表す「一つ」がこの地点に架かる橋の名称。さらに付近の地名になった。町名の由来となった一ツ橋は後述の一橋御門の築造以前から存在していたと考えられている。1606(慶長11)年以降、この橋の前に江戸城の外郭門が築造され、「一橋御門」と命名された。八代将軍徳川吉宗は、子の宗尹に一橋門内(現在の丸紅本社、一橋会館の一画)に屋敷を与えて一橋家を創設、のち御三卿の1つに数えられた(地名が「一ツ橋」と表記されるのに対し、御三卿の家名は一般に「一橋」と表記される)。江戸中期以降、一橋門外は火除明地となり一帯は「護持院原」(ごじいんがはら / 森鴎外の小説で有名)と命名された。1712(正徳2)年頃、新井白石が住んだこともある。
1872(明治5)年、起立。街の北東に通る「一ツ橋通小川丁」が由来。同年の戸数20・人口78(府志料)。1873(明治6)年、一橋門が撤去された。明治初期は開成所や東京外国語学校があった。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。明治30年代になると、高等商業学校(現在の一橋大学)、東京高等師範学校付属小学校、共立女子職業学校、帝国教育会(帝国教育会書籍館、大日本仏教図書館等を併設)、代用春育高等小学校、成美塾等の学校や私塾、東亜同文会、有斐閣、教育公報発行所等の出版社、松尾、武蔵屋、吉村呉服店等の呉服屋があった(画報)。
1934(昭和9)~1935(昭和10)年、帝都復興計画の一環により、一ツ橋一・二丁目、神保町二丁目に編入となり消滅。
撮影場所:一ツ橋通町