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神のお告げ(祭)

2022.03.23 23:50

2022年3月25日 神のお告げ(祭)

第1朗読 イザヤ書 7章10~14節、8章10c節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章4~10節

福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 神のお告げの祭日は、御言葉である方の受肉の神秘を祝います。罪の傷を負った人間を救うために、父なる神は、子である神を人間として派遣することを望まれました。今日は、私たちがキリストと呼ぶイエスの誕生を、クリスマスとは違った角度で、つまりは神のお告げという視点から黙想してみたいと思います。

 まずは、人間の創造の物語を思い起こしてみましょう。神は、私たちを互いに愛し合う助け手として創造されました。愛し合うことができる存在であるために、私たちには自由な意志が与えられました。それは、神にとっても大きな賭けだったかもしれません。自由を与えるということは、愛の拒絶の可能性をも含むものだからです。そして、その最初の賭けは悲劇的な結果を生むこととなりました。人は、誘惑され、愛を拒絶し、その結果愛を生きる力のない者となってしまいました。この人間を救うために、神はそれ以降、様々な仕方で人間に働きかけました。旧約聖書で描かれているのは、この神の働きかけと人間の拒絶の歴史であると言ってもいいかもしれません。

 そこで私たちは、不思議に思います。神は全知全能であるなら、なぜここまでも失敗なさるのだろう。なぜ、一瞬にして世界を救ってくださらないのだろうかと。そこには、私たちの自由をどこまでも尊重して奪わない、神の悲劇的なまでの愛があります。神は、私たちを愚かなまでに愛するが故に、私たちの自由な決断を度外視した救いを行わないのです。

 神は、何度も何度も人間に働きかけながら、人間の自由な意志による回心を求められました。それはまるで、一向に振り向いてもらえない片思いの恋のようでした。本当は人間が神を必要としているにも関わらず、神の方が人間を欲しているかのように天の御父は、私たちのために身をかがめてくださったのです。その結果イスラエルの民は、預言者たちのお告げを通して、少しずつではあっても確実にこのような神と人間の関係性を理解するようになりました。イスラエルの民に降りかかったバビロン捕囚という悲劇もまた、自分たちの不信仰の然るべき結果なのだと、そして神に立ち返ることだけが、自分たちの真の希望であり、神はその思いに必ず応えてくださる方なのだと、彼らの心と想いは悲劇の中で浄められていったのでした。

 マリアに到来した神のお告げとは、実にこのイスラエルの民の思いに対して神が応えられた瞬間でした。旧約の全歴史の実りとして、イスラエルの代表者、全人類の代表者として、神はこのマリアを見出したのでした。一人の人間の自由な応答が、全人類の救いの御業の実現をもたらしたのです。この力なき貧しい女性のたった一言を、神は待っておられたのです。

 神の独り子の受肉、この偉大なる御業の始まりに、人間の協力があったということを、私たちは今日改めて思い起こします。そして、この受肉の出来事から、私たち一人一人の人生には大きな意味があるということにもまた、思いを馳せたいと思います。パウロは、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(ロマ5:19)と言っていますが、これはイエス・キリストだけでなく、キリストの救いの上に生きている全ての人に当てはまるものではないでしょうか。

 今、世界は、たった一人の人間の狂気に苦しんでいます。私たちは、この大きな権力を持った人間の前に、自らの無力さを感じざるを得ません。しかし、マリアに働きかけたように神は、小さくされた人々の決断を通して、ご自分の計画を実現してくださいます。権力者の横暴は、この世界では絶対的に見えますが、それは必ず過ぎ去ります。この世の原理は全て、永遠性を持たないからです。神は、どこまでも力ではなく愛によって、私たちの小さな行いを通して、救いの業を実現させます。それは私たちにとって、あまりにも苦しい歩みではありますが、忘れてはならないことは、一人一人の祈り、願い、働きかけ、行動には、大きな意味があるということです。この世ではあたかも無力に映るものかもしれない小さな行いであっても、そこに込められた想いは永遠です。

 御言葉の受肉という出来事が実現するためには、長い年月が必要でした。そこには、大きな罪がたくさんありました。そして今も、大きな罪の前に私たちは苦しんでいます。どうして神は何もしてくださらないのだろうかと、嘆かざるを得ない現実が広がっています。そうであればこそ、私たちは、神が人間の願いに応えられたこの受肉の出来事を思い起こします。神は必ず、私たちの内から何か良い業を始めてくださいます。

 戦火の最中にある人たちの苦しみに対しては、かけるべき言葉が見つかりません。ただせめて、彼らがそれでも希望を見失わずに生きようとしていること、その想い、願い、叫びに思いを馳せたいと思います。それは、何かのことで私たちに白羽の矢が立った時に、今度は私たちが、あのマリアのように神の御業の協力者として即座に動くことができるようになるためです。

(by, F.S.T)