【神田①079】駿河台鈴木町
町番号:神田①079
町名:駿河台鈴木町
読み方:するがだいすずきちょう Surugadai-Suzukichō
区分:俗称→町丁
起立:江戸期
廃止:1933(昭和8)年
冠称:「駿河台」
現町名:神田駿河台二丁目、神田猿楽町二丁目、神田三崎町一・二丁目
概要:「駿河台」は、はじめ北方の本郷台地の南端であったが、1620(元和6)年に二代将軍秀忠の命によって仙台藩祖伊達政宗が仙台堀(神田川)を開鑿したことにより、北の湯島台と駿河台とに分離され、そう呼ばれることになった。
神田川南岸水道橋東側の武家地を併せて起立。江戸期、この地に鈴木姓の屋敷が多かったので俗に「鈴木町」と呼ばれていた。禅学舎の鈴木正三もここに住んだという(東京地理志料)。
1662(寛文2)年から1707(宝永4)年まで火消役の官邸があった。その跡は後に護持院の住持となった成満院隆光の隠居所となった。1713(正徳3)年にさらに上地となり、跡を「成満院上地」という俗称で呼んでいた。また通称「土手駿河台」ともいった(備考、東都紀行、東京地理志料)。
1872(明治5)年、江戸時代からの通称である「鈴木町」が正式に成立。『御府内備考』には「駿河台土手にそへる往来なり。此小路に鈴木氏の屋敷多く竝びたるゆへにしかいへり」とある。江戸時代の鈴木町は町域の東側のみを指した。同年の戸数35・人口144(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。町の西域に皀角坂がある。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。明治30年代の町内には華族等の屋敷の他に東洋病院等の病院、日昇館等の旅館、官吏や学生の住む下宿屋が多かった(画報)。
帝都復興計画の一環により、1933(昭和8)年には駿河台二丁目に、1934(昭和9)年には三崎町一丁目のそれぞれに編入となり消滅。
撮影場所:駿河台鈴木町