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Okinawa 沖縄 #2 Day 175 (25/03/22) 旧浦添間切 (14) Kowan Hamlet 小湾集落

2022.03.27 01:18

旧浦添間切 小湾集落 (こわん)



仲西集落を巡った後は、小湾集落を巡る。


旧浦添間切 小湾集落 (こわん)

現在の小湾集落は、 字宮城の地籍、 小字モチダ原、チョンダ原、クモト原と沢紙の兼元原に移動しているが、旧小湾集落は、小湾川の川口付近 (現在の極東放送局付近及び米軍基地内) の前浜よりにあった。米軍の土地接収によって現在の場所に移動せざるをえなかった。旧小湾集落は、 安謝港の北海外沿いの小村で、 その海岸を小湾浜とよび、美しい浜で有名であった。 海岸に琉球松が 多く、小湾小松の名で琉歌にも、詠まれ親しまれていた。前面の海岸は、サンゴ礁が発達し、伊奈武土瀬とよばれ、好漁場でもあった。小湾部落は、旧浦添村で唯一の海辺の村であり、小滝川の川口は、 山原船が出入りした港でもあった。 その港から北へ延びた砂浜に村落が立地し、西は海岸沿いに、東側は、隆起石灰岩の崖や急傾斜によって囲まれて物静かな村落であった。 又、首里に近かったことなどから中城御殿 (尚家) を初め、松山御殿、宜野湾御殿、読谷山御殿などの別荘地があった。

小湾集落に元々住んでいた住民達で組織された郷友会はかなり詳しい字誌を発行している。今まで多くの字誌を見てきたが、これほど完成度の高い字誌は他にはない。調査も半端ではなく、かつての家や井戸、道一つ一つを詳細に聞き取り調査を行いかつての小湾集落を復元している。それが下の絵だ。これがCGなどで三次元図になれば素晴らしい。その可能背がある程綿密な調査をしていた。故郷をなくしてしまった分、故郷に対しての想いが強く、後世にそれを残したいという井シカを感じる。この小湾と同じような活動をしているのが旧小禄村の大嶺村だった。その村も那覇空港、自衛隊基地で消滅してしまった。小湾と同じような境遇だった。そこの住民も後世に残すという使命感を持っていたことを思い出した。

字誌に掲載されていた戦後、新しい土地で新部落を造り始めたころの写真が載っていた。今では、民家や商店が隙間もないほどに立ち並んでいる。

戦後、字宮城と字大平二またがり割り当てられた新部落小湾地区の人口のデータは断片的にしかわからない。明治から1967年までと行政区変更が行われた2002年以降のもので、その間の人口は字宮城と字大平に含まれており、新部落小湾地区を抜きだしたデータが見当たらなかった。この地区の現在の人口は4,727人で割り当てられた限られた地域としてはかなり多い数字と思える。現在でも人口は微増傾向にある。戦後は住宅の数が限られており、この地域への流入制限をしていたという。戦後450人程でスタートし、1967年でもやっと570人程だった。爆発的に人口が増えたのは1967年以降、多分本土復帰の1972年以降だろう。

明治時代は下から三番目程の人口で小さな村だったが、現在は浦添市の中でも人口は真ん中ぐらいに位置している。

データがすべてそろっていないのだが、人口の増加率は浦添市平均値とほぼ同じだ。

集落内の民家の分布図で見る通り、戦後は全く何もないところから一から村づくりをスタートしている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 潮花森 (神名: マシラゴノ御イベ 消滅)
  • 殿: 木下殿 (消滅)

小湾集落で行われていた祭祀行事は下記の通りだが、現在でも行われている行事は随分と少なくなっている。

小湾集落は仲西ノロの管轄地域だった。


小湾集落訪問ログ



旧小湾集落の跡、キャンプ・キンザー

旧小湾集落は戦後米軍に接収され、現在の米軍海兵隊の駐屯地キャンプ・キンザー敷地内にあった。戦前にはこのキャンプ内に村が広がり、村屋や井戸、龕屋、拝所があった。キャンプ内は造成されて、かつての拝所は消滅してしまった。

キャンプ・キンザーは沖縄戦で戦死し、名誉勲章を受章したエルバート・キンザー伍長にちなんで命名されている。1945年に米陸軍が沖縄南飛行場を接収し、米軍の物資集積所として建設され、1978年に米陸軍から米海兵隊に移管されている。この基地には収納庫が集められており、兵站基地として後方戦務支援 (整備、補給、工作、医療支援) の役割をもっている。基地内には基地内で暮す米軍家族向けの、託児所、小学校、教会、医療施設、スーパー、飲食店、映画館、ボウリング場などがある。


小湾の浜

キャンプキンザーの西外側に西洲中継ポンプ場があり、駐車場に1980年から1992年まで浦添市長を務めた比嘉昇氏が浦添の様子を書いた琉歌の碑が建っている。このあたりは、キャンプキンザーから一部返還された地域で、かつては海岸線だった。西洲中継ポンプ場は琉球赤瓦の屋根で、ユニークなシーサーが置かれていた。


大御嶽 (ウフウタキ、潮花森)

キャンプキンザーの南外側に道路が走っている。この道路と小湾川の間に旧小湾集落の聖域で琉球国由来記に記載のある潮花森 (神名マシラゴノ御イベ) があったらしい。大御嶽 (ウフウタキ) と呼ばれていた。かつては樹林がおい茂り、拝所の前には1個のコーロが置かれていたという。この近くにはビジルもあったそうだ。はっきりとした場所はよくわからないが、大まかな地図からだと陽生コン那覇工場の敷地内にあった様に思える。球大御嶽もビジュルも、現在は新部落のお宮に合祀されている。またこの北側はシリー山があり、樹林がおい茂っていたというが現在はその面影は全く見られない。


小湾自治会館

小湾集落住民が戦後、4年間の収容所生活のあと、1949年 (昭和24年) に宮城クモト原に住み始めた時には茅葺屋根の小屋を建て公民館として使っていた。その後、コンクリート造りになった。

1989年 (平成元年) には、宮城6丁目のパイプライン通りに面した場所に、鉄筋コンクリート造3階建ての自治会館が建てられている。玄関にはかつて使用していた酸素ボンベの鐘が二本ぶら下がっている。一階は小湾自治会事務所、二階は多目的ホール、会議室、和室の大広間、三階には郷友会事務所がある。自治会は宮城と大平にまたがる小湾新部落地区に住んでいる人達の自治会で、郷友会は、現在はキャンプキンザー敷地内の昔の小湾集落の門中の組織になる。自治会の事務員さんから、小湾の話を聞かせてもらった。昔からある御願所はキャンプ内には整地され無くなってしまい、新部落で共同拝所をつくり拝んでいるそうで、その場所を教えてもらった。(この後、訪問)

キャンプ敷地の地権は村の門中各家が持っているのだが、生活に困り、土地を売ってしまった門中も少なからずいるそうだ。沖縄の街中では「軍用地買います」の看板が良く見られる。当初は使い途の無い土地の売買を何故?と感じたのだが、返還後の値上がりを見越して、不動産屋が生活に困った地権者から安く買い叩いている。基地撤去後土地が返還された際は何か計画があるのかと訪ねたが、それは自治会は関係しておらず、地権者の門中の集まりの郷友会の課題だという。


小湾アギバーリー

郷友会では昔からの伝統保存に力を入れている。小湾と同じように村全土が米軍に接収され故郷の地を失った集落は、固有の文化や習慣の保存継承には熱心だ。小禄の大嶺集落もよく似ている。小湾には那覇市泊の「地バーリー」を基に、1915年の大正天皇即位祝賀行事で始まり、小湾地域独自の行事として伝承されてきた小湾アギバーリーがある。戦後途絶えていたが、1976年に復活させている。集落の拝所で祈願をささげた後に、エーク (櫂) を持った男性たちがハーリー船をかたどった竜の形のだんじりに乗り込み、「イヤーサ」と威勢のいい声を上げながら練り歩き、住民の健康や安全を願っている。伝統舞踊の「前の浜」や「かぎやで風節」に乗せて踊る「小湾オージメー」、旗頭の演舞も演じられる。


勢利門中 (シリームンチュー) 御拝堂

新しい集落を形成した小湾には四つの重要な拝所がある。小湾自治会館の前のパイプライン通りを少し南に進んだ所に勢利門中 (シリームンチュー) 御拝堂がある、この堂とこの後訪れる郷守之塔、三様の墓、お宮が四つの拝所にあたる。この勢利門中 (シリームンチュー) は小湾集落の国元で最初に読谷山から旧小湾村に移住してきた人物で、三様 (ミサマ) の一人。


小湾郷友会共同墓園

自治会で教えられた共同拝所に向かう。字大平の中に小湾集落住民の共同墓地がある。戦後、集落のほとんど全土が米軍基地として接収され、宮城と大平にまたがって新部落が造られている。そのため、勝手に空いている土地に墓を造る事は出来ず、1994年 (平成6年) に、新しい墓地を設け163基の墓が置かれている。キャンプ・キンザー、嘉手納基地が近いので、間隔を置かず、戦闘機が物凄い爆音をあげて飛んでいた。


郷守之塔

墓園の中に太平洋戦争、沖縄戦で犠牲になった小湾村住民の慰霊碑が建っている。郷守之塔と呼んでいる。村を守るという意味だ。郷守之塔は昭和55年に沢岻に建立され、平成11年にこの地に遷座改修されている。台座には沖縄内外に於ける戦没者名164柱が刻まれていた。毎年6月23日には慰霊祭が行われている。

沖縄戦では小湾住民の36%が犠牲になっている。小湾住民がどこで戦死したのかを表すデータがあった。村に残った人はほとんどが犠牲になっている。糸満方面に逃げた人たちは半分が犠牲になっている。国頭に疎開した人達の多くは戦死を免れている。これはほとんどの集落で共通する傾向だ。

沖縄戦では昭和19年に日本陸軍がこの辺りに沖縄南飛行場 (仲西飛行場) 建設に着手し住民を招集し完成間近までいっていたが、米軍侵攻で飛行機は一機も配備されることは無く占領されてしまった。

旧小湾集落を含めた地域には昭和20年4月29日に米軍が5輌の戦車に歩兵100余名を従え、原野となった沖縄南飛行場を南下して来た。迎え撃つは独立歩兵第15大隊 (石3596) 第4中隊で、小湾集落を背に以下僅か8名になってしまった同第1小隊が陣を敷いていた。この小隊の奮闘で米軍は一時期南飛行場の北端まで退却したが、戦車砲も含む大小火砲にる報復攻撃で、仲西国民学校跡 (現 仲西公民館) から小湾までを徹底的に叩き、独歩第15大隊第4中隊第1小隊は壊滅した。


三様 (ミサマ) の墓

小湾村の村立てを行った三人の人物の墓がある。読谷山から最初に移住して来たのが勢利家の祖先で読谷山村儀間の東堂家の子孫、次に外間家の祖先で読谷山村高志保の日中の子孫、3番目に新屋家の祖先で読谷山村渡慶次のシールの子孫と伝わっている。旧小湾集落にはこの三人の墓があり、三様の墓と呼ばれていた。墓には遺骨を入れた甕が一つあり戦災を免れた。三人は仲が良く、死んだら一緒の甕に入ると言っていたので、一つだけしかないそうだ。この甕の遺骨をこの墓園に移し、あらたに墓を造っている。また最初に来た勢利は仲西村の村立てをした外間子の娘を嫁にしたという。この三人の子孫と伝わる家 (宮城、外間、大城) は今でも正月や五月ウマチー (収穫祭) には、この三様の墓を拝している。伝承では、「昔、三人の男が小湾集落の浜に遭難し打ち上げられていた。そこへ仲西村の女性が通りかかり、三人の男を見つけて介抱し助けた。男達は快復し、そのままその土地へ住んだ。これが小湾集落の始まりとされている。」と着色されててはいるが、村では尊崇し今でも拝んでいる。


お宮

共同墓園内に、かつての小湾集落にあったお宮を移設している。お宮は1940年 (昭和15年) に紀元2600年記念事業の一環で旧集落内に点在していた十か所の拝所を合祀したもの。

戦後に移設改修され、現在に至っている。古写真ではお宮、郷守之塔、三様の墓も今のものとは異なっている。お宮の祠の中には向かって左から、子方ヌ神 (ニイヌファヌカミ)、泉井戸 (イジュンガー)、オージバンタ (扇状の崖) の神、村御井戸 (ムラウカー)、火の神 (トゥングヮー)、地頭火の神 (ジトウヒヌカン)、御先祖世ヌ御井戸 (ウサチユヌウカー)、大御嶽 (ウフウタキ)、御嶽 (ウタキ)、ビジュル (龍の神) が祀られている。

以前はキャンプキンザーとも頻繁に交流もあり、簡単な手続きでかつてキャンプ内にあった幾つかの拝所に行き拝んでいたが、9.11以降は、米軍のセキュリティが厳しくなり、キャンプ内に入る事ができなくなり、共同拝所での御願のみになってしまった。



今日は仲西集落と小湾集落を巡ったが、それほど多くの文化財は無いので、早く終了した。まだ時間は余っているのだが、この後雨予報ということなので、これで打ち止めにして帰路に着く。


例の如く行き帰りには、音楽をかけて走るのだが、先日、若い頃聞いていたDeep Purpleが去年アルバムをリリースしていたのを見つけた。もうJon Lordも亡くなりメンバーはおじいちゃんになっている。往年の冴えは失われてそれほど良くは無かった。もう一つはかつてこのDeep PurpleのギタリストのRitchie Blackmore のBlackmore’s Nightが昨年リリースしたアルバム。このバンドはMedieval Rockなのだが、何曲かはDeep Purple や Rainbows 時代を感じさせるものもあった。 


参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
  • 小湾字誌 (1995 浦添市小湾字誌編集委員)
  • 小湾字誌 戦中・戦後編 (2008 浦添市小湾字誌編集委員)
  • よみがえる小湾集落 (2003 小湾字誌編集委員会)