【神田①081】神田錦町
町番号:神田①081
町名:神田錦町 一~三丁目
読み方:かんだにしきちょう Kanda-Nishikichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:存続
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」
現町名:千代田区神田錦町一~三丁目、神田小川町二丁目
概要:江戸期は神田橋御門外と一橋御門外の武家地で、伊勢神戸藩本田氏、越前敦賀藩酒井氏、信濃飯山藩本田氏上屋敷、三番原(新駒ヶ原)といわれた火除地、曲木家預りの厩、勘定奉行役宅等であった。町名は嘗て一色姓の屋敷が2家並んでいたことから、俗に「二色町」、「錦小路(二色小路)」(現・一丁目と二丁目の間の道)と呼ばれていたことに因む(東京地理志料)。「錦」とは、旗本の一色氏(三河国一色荘が本貫)。
由来については諸説あり、住人が「京都にある錦小路に肖りたい」と考えて、錦という呼び名を付けたという説、近くにあった護持院に錦のように美しい虫を祀った弁財天堂があったためという説もある(千代田区町名由来板)。
当町の別称「護持院原」について触れると、護持院はもともと真言宗筑波山中禅寺知足院の別院として神田紺屋町にあった。当時、住職だった隆光は、五代将軍徳川綱吉の絶大な信任をうけ、貞享年間(1684~1688年)に、現在の神田錦町から一ツ橋にかけての広大な地を与えられ、更に1696(元禄9)年には、護持院という称号が贈られている。ところが、1717(享保2)年、大火によって護持院は跡形もなく焼けてしまう。江戸城のすぐ北で燃え盛った火事に、幕府関係者は肝を冷やし、護持院を現地に再建することを許さず、大塚の護国寺へと移転させる。その後、護持院や周辺武家屋敷の跡地は火除地とされ、「護持院原」と呼ばれるようになった。当初、将軍の鷹狩などが行われていたが、その後、散策路として町人たちにも開放された。
1872(明治5)年、起立。同年の戸数128・人口602(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。明治30年代の町内には、神田区役所、神田警察署等の他、東京外語学校、東京府高等女学校、東京英語専修学校、錦城中学校等の学校や私塾、教育雑誌社等の出版社、印刷所、東京内科病院他の病院、東京瓦斯株式会社、パン屋の木村屋、集会演説貸席の錦輝館、昌平館、榎本館他の旅館等があった(画報)。
帝都復興計画の一環により、1933(昭和8)年に一・二丁目の北側が小川町二丁目に編入され、1935(昭和10)年には三丁目の一部が二丁目に編入される。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
撮影場所:神田錦町三丁目