【神田①090】旭町
町番号:神田①090
町名:旭町
読み方:あさひちょう Asahichō
区分:俗称→町丁
起立:江戸期
廃止:1966(昭和41)年3月31日
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「神田」
現町名:千代田区内神田二・三丁目
概要:江戸期は永富町二~四丁目、神田新革屋町、元乗物町の一部で、江戸期にも俗称として使用されていた。由縁は、1682(天和2)年、永富町成立前までこの辺りに屋敷を構えていた出羽秋田藩佐竹氏の家紋「扇に日の丸」(画報)。このように佐竹家の紋から付けられた町名であるということだが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれている。1189(文治5)年、源頼朝は藤原泰衡を討伐するため、奥州平泉へ向かった。そのとき、常陸国佐竹郷の武士だった佐竹秀義は、宇都宮で頼朝の軍に合流し御家人となった。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせた。それが佐竹家の「五本骨の扇に月」の紋の由来になったといわれている。
『江戸地名俚俗字引』には「神田鎌倉河岸、新革屋町之うち、俚俗」とある。これらの地域は起立後の旭町より1ブロック南になるが、江戸期には佐竹屋敷のあったのこの辺りを通称で「旭町」と呼んだのであろう。
1682(天和2)年暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は、翌年、下谷三味線堀に移転。跡地は新開地と併せて町人地となり、永富町二~四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となった。
1869(明治2)年、正式に起立。この辺りが、1604(慶長9)年から70数年に亙り、佐竹藩の江戸上屋敷だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのだが、月を日輪と間違えて「旭」という町名が発想されたようだ。1872(明治5)年の戸数241・人口1,037(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。
1935(昭和10)年1月1日、帝都復興計画の一環により、西の一部が司町一丁目に編入、同時に蝋燭町の東半分と永富町を合併。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
1964(昭和41)年4月1日、住居表示の実施により、内神田二・三丁目にそれぞれ編入となり消滅。町会名としては存続。
撮影場所:旭町