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聖徳太子没後1400年

2021.03.24 06:16

Facebook清水 友邦さん投稿記事 「聖徳太子没後1400年」

旧暦の2月22日(2022年3月24日)は聖徳太子の命日とされています。

聖徳太子のお墓があることを全く知らずに大阪府南河内の太子町を訪れたことがあります。

2021年から2022年にかけては聖徳太子没後1400年の節目にあたるので太子町では記念のイベントが行われています。

太子町には聖徳太子を摂政にした叔母で、日本最初の女性天皇である推古天皇陵もありました。ところが地元では推古天皇陵と別に近くの二子塚古墳が推古天皇陵と言われています。

訪れたときに、ちょうど二子塚古墳の発掘調査が行われていて石棺が掘り出されていました。

天皇陵は江戸幕府が幕末に指定したのを、宮内庁が原則的に引き継いだだけなので発掘の結果、天皇陵ではなかった今城塚(いましろづか)古墳(高槻市)が継体天皇陵ではないかとされています。後から天皇陵と解ったので立ち入り禁止の他の天皇陵と異なり今城塚(いましろづか)古墳は自由に散歩ができます。

聖徳太子のお墓と推古天皇をお参りをした後に、大阪の八尾市を訪れました。

八尾は古代の豪族、物部氏の本拠地だったところです。

物部氏は神武以前より近畿地方を支配していたニギハヤヒを先祖としていました。

物部氏は皇祖神と異なる氏族にもかかわらず「天孫降臨」の逸話を許された唯一の氏族です。

古代では物事の是非は神意によると考えていました。

神事は物部氏が司っていましたが6世紀頃になると分業化して祭祀権を中臣氏と忌部氏にまかせ物部氏は裁判権と罰則を行う軍事・警察権を担当していたようです。

天皇家と姻戚関係を結んだ蘇我氏が台頭してくると皇位継承をめぐって物部氏と争うようになりました。

敏達天皇と用明天皇が相次いて崩御すると対立は決定的になりました。

厩戸皇子の母は蘇我稲目の娘と欽明天皇の間に生まれた穴穂部間人(あなほべ・はしひと)で太子は蘇我氏と強い血縁関係にありました。

母の穴穂部間人(あなほべ・はしひと)が宮中の見回りの際にちょうど厩戸に来たところで産気づき聖徳太子が生まれたので太子の本名は厩戸皇子といいます。

587年、蘇我氏の血を引いていた14歳の聖徳太子は蘇我馬子とともに丁未の変(ていびのへん)で物部守屋と戦い蘇我氏は勝利しました。

蘇我氏は幅広い豪族連合で戦いましたが物部守屋は河内にいた一族だけだったのが敗北の原因だったようです。

この争いは崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の争いと言われてきましたが八尾の渋川から寺院の遺物が出土していて渋川天神社境内に渋川廃寺跡の碑が立っています。

飛鳥寺(596年)が完成する10年前に物部守屋は寺院を建立していました。

このころは百済の技術集団が渡来していました。

仏教が日本に伝わったのは538年頃と言われています。

宗教戦争と言われていましたが実際は有力豪族同士の権力闘争だったようです。

聖徳太子の側近の迹見赤檮(とみのいちい)が樹上の守屋を射抜いた古戦場跡に聖徳太子(厩戸皇子)を祀る大聖勝軍寺が建立されていました。

迹見赤檮(とみのいちい)は道麻呂といい物部一族でしたが聖徳太子側についていたようです。

物部守屋の首を斬ったのは 猿楽の始祖とされる秦河勝(はた の かわかつ)と言われています。

国道25号線のセブンイレブンの向かいには物部守屋公のお墓があります。

日本全国の有名神社から玉垣が寄進されていました。

物部守屋の館があった場所には 饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る渋川神社と跡部神社があり、聖徳太子の軍を防ぐために「稲城」(いなき)を設けたとされる場所には樟本神社三社があります。

ゆかりの地はみな八尾駅から歩いてまわれる距離でした。

八尾市は古代日本の運命を変えた重要な地でした。

物部氏滅亡ののち、権力の象徴だった前方後円墳が廃止されました。

聖徳太子没後に聖徳太子一族は蘇我氏によって滅ぼされ、ついで蘇我氏の本宗家も乙巳(いっし)の変で滅亡しました。

有力豪族の物部氏と蘇我氏が滅びると藤原氏が台頭しました。

藤原氏は娘を天皇の后妃として,皇室と姻戚関係を結び権力を得ました。

それ以来、昭和になるまでの1300年間藤原氏から皇后が選ばれるのが習わしとされて来ました。

初めて藤原氏以外から選ばれたのが平成の美智子皇后だったのです。

蘇我氏を滅ぼしたのは藤原鎌足と天武天皇(中大兄皇子)ですがこのあたりで歴史が改竄されたのではないかと言われています。