南北朝の影
https://www.shitennoji.or.jp/shotokutaishi.html 【聖徳太子について】より
聖徳太子とは
聖徳太子といえば、日本中で誰一人知らない者はいません。お太子さまこそ、我が国の代表的偉人であり、日本の文化と平和(国家安泰)を象徴する最大の人物といえます。
また、昔から日本国民の信仰の対象として尊崇されてきた「太子信仰」なるものがあって、「和国の教主」であり、「救世観世音菩薩」の化身としても仰がれてきました。
聖徳太子の生涯
聖徳太子の誕生は敏達天皇3年(574)、橘豊日皇子(のちの用明天皇)の第二子で、生まれてすぐにものを言い、聖の智慧があったといいます。
崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋が仏教の受容をめぐって合戦が起こりました。当時16歳のお太子さまは物部守屋討伐軍に従われました。このときお太子さまは白膠木(ぬるで)の木で作った四天王像を頭に挿して、この乱に勝利した暁には、四天王を祀る寺を建立しその生涯をかけて衆生救済に務めることをお誓いなされました。
二十歳の時、推古天皇が即位すると皇太子になり、天皇の政治を補佐する摂政という地位につかれ、すべての政治の実権を委ねられました。
お太子さまは『法華経』『勝鬘経』『維摩経』を講義するなど仏教に通じ、冠位十二階や憲法十七条を制定されたり、社会福祉事業として四箇院の制を実践されました。
片岡山で飢人に衣食を与えられたという物語によってもお太子さまの愛民精神がいかに深いものであったかは推察できます。
お太子さまが五十歳でお亡くなりになるまでの間に、国内は静穏に帰し、海外との関係も深まり、飛鳥文化が花と開いて新しい日本国の礎が定まったのも、ひとえにお太子さまの偉業の賜物であります。
お太子さまの人格の核心は仏教の根本精神に深く影響されていたので、仏法の流れるところ、そこに永遠の聖徳太子ありという信仰が、日本の人々の心の中に芽生えてきたのは自然といえます。したがって仏法を受継ぐことがお太子さまの精神を受継ぐことであり、こういう自覚が、歴史を貫いて日本国民の胸深くに流れてきた。そのような国民の心情に感じ、仏教徒のまぶたの上に応現されたのが、「和国の教主」あるいは「救世観世音菩薩」としての永遠の太子でありましょう。
聖徳太子という名前は、お太子さまのお亡くなりになった後に「徳のある聖なる人」という意味を込めて後世から呼ばれた名前です。また沢山の功績を残されたお太子さまですので、仏や菩薩と同じような聖として人々に語り継がれましたので、それだけ超人的な伝説も多く作られたことで、研究されている学者の中には、その奇跡な物語の部分に付け込んで「聖徳太子は存在そのものが想像上の人物ではないか」と発表したり、「聖徳太子」と呼ぶのは間違いで「厩戸の王」と呼ぶべきと論じる人もいます。考え方は人それぞれですが、四天王寺で質問いただいた際には、当然「聖徳太子は存在していました」と答えています。
聖徳太子が行ったこと
冠位十二階 世襲制から才能・功績に応じた身分の制定
推古天皇11年(603年)、聖徳太子と蘇我馬子の共同執政のもと、律令制における位階の原点となる冠位十二階が制定されました。それまでの官僚体制は、氏族ごとに定められた姓(大臣、大連(おおむらじ)など)の世襲制であったが、これに対して冠位十二階の制は、個人の才能や功績、忠誠に応じて位階が与えられ、世襲されず、昇進も可能というものでした。
冠位十二階
徳から智にいたる六つの文字に、それぞれ大・小をつけ、最も身分の高い者には"大徳"の冠を・・という具合に、十二階に対応する色の冠を与えて可視的な身分秩序を作成したのである。
四箇院制度
聖徳太子が四天王寺を建てられるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが『四天王寺縁起』に示されています。四箇院とは、敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)の4 つのことで、敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は薬局・病院にあたり、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設にあたります。
四天王寺では今日でもお太子さまの精神を引き継ぎ、学校法人四天王寺学園を経営し、国際的な視野のなかで仏教教育を実施し、社会福祉法人四天王寺福祉事業団を中心に悲田 ・施薬 ・療病の各事業を継承発展させています。
https://rekishi-memo.net/muromachijidai/nanbokuchou.html 【南北朝の動乱】より
後醍醐天皇の親政は失敗、南北朝時代へ
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は、自身が政治を執る「建武の新政」を開始する。
しかし、後醍醐天皇が目指す政治は、武士政権確立後の習わしを無視したもので、天皇による専制であった。
これを受けた武士の不満が噴出してしまい、わずか3年で崩壊してしまう。
以後、朝廷は北朝と南朝の分裂時代に突入していく。
武士の声望を集める足利尊氏の北朝と、後醍醐天皇の南朝の戦いが始まった。
建武の新政は何故、失敗したのか?
京都に入った後醍醐天皇は、平安期の「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」を理想とし、天皇親政を目指して「建武の新政」を開始した。しかし、3年ほどで失敗する。
その主な理由として、「綸旨(りんじ)」という天皇の意思を示す文書を、絶対優先とした政務の混乱や、持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できないという武士社会の「年紀法(ねんきほう)」を無視した事による武士層の離反などが挙げられる。
南北朝時代へ
1335年、鎌倉で14第執権 北条高時の子・北条時行(ときゆき)らによる反乱「中先代の乱(なかせんだいのらん)」が勃発する。
この乱を鎮圧した足利尊氏は、その直後に建武政権からの離反を鮮明にした。
翌年、京都制圧に成功した尊氏は持明院統の光明天皇(こうみょう)を擁立し、室町幕府を樹立した(北朝)。
一方の後醍醐天皇は、吉野へ逃れ(南朝)、長期にわたる内乱の時代、南北朝時代が始まった。
観応の擾乱
室町幕府には、畿内近国の新興武士層と鎌倉幕府以来の伝統的武士層との間で、深刻な対立が存在していた。
新興武士層は新たな枠踏みの政治を求め、尊氏の側近の「高師直(こうのもろなお)」を支持していた。
伝統武士層は、鎌倉幕府のような秩序の復活を目指して、尊氏の弟の「足利直義(あしかがただよし)」を支持。
両者の対立は、「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれる全国的な争乱を招いてしまう。
三つ巴の勢力争いとなり、泥沼化する
この過程で、尊氏ら急進派、直義ら漸進派ともに、情勢の変化に応じて南朝を支える場面が生まれるなど、南北朝の動乱は、尊氏派、直義派、南朝勢力の3者が三つ巴の争いを展開する事で、長期化していった。
南朝は吉野を攻撃された為、脱出を余儀なくされてしまい、九州へと拠点を移す事になるのである。
南北朝の関係図
北朝
持明院統 光明天皇
足利尊氏(1305~1358年)
後醍醐天皇と対立。光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開く。
足利直義(1306~1352年)
兄・尊氏の右腕として政務に携わるが、高師直と争い、一時南朝に。
高師直(????~1351年)
尊氏の側近として北畠顕家、楠木正成の子・正行(まさつら)を討つ。
南朝
大覚寺統の天皇 後醍醐天皇
新田義貞(1301~1338年)
尊氏との戦いに敗れ、後醍醐天皇の皇子恒良親王らを奉じて越前によったが戦死。
楠木正成(1294~1336年)
河内の豪族。建武政権樹立に貢献するが、九州から進軍した足利直義に敗れ、湊川で戦死。
北畠顕家(1318~1338年)
反旗を翻した尊氏を急襲に追い落とすが、後に高師直に敗れて石津で戦死。
https://note.com/kameisuistudy/n/nf4ef26ab51b9?fbclid=IwAR3RBdpVDa_gIVZbumDLXsZv6P65k9eqPe5sA53UG6gNaakvIO-sb3yfBLc 【天皇の代数は明治末に変更された~南北朝の影】より
見出し写真は、室生寺にある、南朝のブレーン北畠親房の墓。
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後醍醐天皇が書写して自らの手印を押した、四天王寺縁起。
歴史を願望で捏造する日本人。#南北朝時代
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今回の話題は、天皇の代数について。
教科書では、明治天皇は122代となっています。したがって、今上(平成)天皇は125代となります。
しかし、明治末までは、明治天皇は124代でした。
話は後醍醐天皇と南北朝の時代にさかのぼります。
南朝の天皇は後醍醐の死後、三代で消滅します。
天皇の血脈をつないだのは、北朝で、明治時代の宮内省も文部省も、北朝の代数を当然としていました。
明治44年、帝国議会で、藤澤元造が、忠臣を生み出した南朝を軽んずるのは、臣民教育道徳を軽んずるもの、と演説をした。これをきっかけに、南朝びいきの世論が盛り上がり、ついに宮内省もおれて、天皇系譜が書きかえられた。北朝の五人の天皇が抹消された。
歴史事実としては、南朝は断絶し消滅した。天皇の血脈をつないだのは北朝である。
明らかな天皇系譜の改竄、捏造である。
現在も、訂正されず、明治末の感情的改竄が続いている。
明治末、四天王寺では亀井水が改造され、忘れ去られた。世相は日清日露の戦勝に沸き立ち、日露講話に反対し徹底侵略を朝日新聞が扇動し日比谷焼き討ちの暴動がおこる。朝日新聞が、反戦ではなく戦争拡大扇動で発禁処分をうける。そんな時代に、天皇系譜が書きかえられたのです。