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江戸町巡り

【神田①*111】向柳原町

2017.11.26 13:24

町番号:神田①*111

町名:向柳原町 一丁目

読み方:むこうやなぎわらまち Mukō-Yanagiwaramachi

区分:町丁

起立:1943(昭和18)年7月1日

廃止:1966(昭和41)年12月31日

冠称:1947(昭和22)年3月15日から「神田」

現町名:千代田区東神田三丁目

概要:この地は江戸期、大名と旗本の武家地であった。当町は1872(明治5)年、これらを整理統合して「向柳原町」と命名し、一・二丁目に分けられて正式に起立。一丁目は公家大原重徳邸、越後椎谷藩主堀之美邸、日向飫肥藩主伊東祐帰邸、越後与板藩主井伊直安邸及び幕府の医学専門学校「躋寿館」等を合併した。二丁目は肥前平戸藩主松浦詮邸及び小屋敷を合併した。 町名は神田川を隔てて南側に「柳原」という地区があり、俗に「向柳原」、「向柳原町」と呼ばれていたことに因む。江戸切絵図にも「此辺一圓向柳原ト云」とある。同年の戸数278・人口901(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一丁目北側一部は鳥越一丁目に、二丁目の東北隅は浅草橋三丁目に編入となり、町域を狭めた。向柳原町二丁目に編入された松浦氏邸には、1632(寛永9)年に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、小堀遠州等に命じて造らせた回遊式庭園「蓬莱園」があった。惜しくも関東大震災で大部分が焼失し、今では当時からあった大銀杏が都立忍岡高等学校敷地内にその面影を残すのみ。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。同年、一部を神田区に編入し、東京都神田区向柳原町一丁目となる。神田区向柳原町には二丁目以降はなし。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。その際に「神田」の冠称を付す。

1967(昭和42)年1月1日、住居表示の実施により、東神田三丁目に編入となり消滅。


なお、千代田区の『千代田区町名由来板』には以下のようにある。


向柳原町は、浅草区へ編入したのちに一部神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となります」


このように「向柳原」、「向柳原町」はもともとは神田地区の一部であったかのように記述されている。「戻り」という言葉が入っている以上、恰も「向柳原」の起源は神田地域にあるというように取れる。そうなると概要は以下のとおりに変わる。


概要:この地は江戸期、大名と旗本の武家地であった。当町は1872(明治5)年、これらを整理統合して「向柳原町」と命名し、一・二丁目に分けられて正式に起立。一丁目は公家大原重徳邸、越後椎谷藩主堀之美邸、日向飫肥藩主伊東祐帰邸、越後与板藩主井伊直安邸及び幕府の医学専門学校「躋寿館」等を合併した。二丁目は肥前平戸藩主松浦詮邸及び小屋敷を合併した。 町名は神田川を隔てて南側に「柳原」という地区があり、俗に「向柳原」、「向柳原町」と呼ばれていたことに因む。江戸切絵図にも「此辺一圓向柳原ト云」とある。同年の戸数278・人口901(府志料)。

『千代田区町名由来板』によると、そもそも「向柳原」、「向柳原町」と俗称されていた地域は神田の土地であったが、1878(明治11)年11月2日の浅草区成立から帝都復興計画によって区域変更が行われる1934(昭和9)年までの間に、浅草区に割譲されたということになる。

1878(明治11)年11月2日、東京府神田区若しくは浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区若しくは浅草区に所属。1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一丁目北側一部は鳥越一丁目に、二丁目の東北隅は浅草橋三丁目に編入となり、町域を狭めた。向柳原町二丁目に編入された松浦氏邸には、1632(寛永9)年に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、小堀遠州等に命じて造らせた回遊式庭園「蓬莱園」があった。惜しくも関東大震災で大部分が焼失し、今では当時からあった大銀杏が都立忍岡高等学校敷地内にその面影を残すのみ。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区若しくは浅草区に所属。同年、一部を神田区に編入し、当該地域は東京都神田区向柳原町一丁目となる。神田区向柳原町には二丁目以降はなし。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属し、その際に「神田」の冠称を付す。

1967(昭和42)年1月1日、住居表示の実施により、東神田三丁目に編入となり消滅。

向柳原町(浅草)も参照のこと。

撮影場所:向柳原町一丁目

撮影地:千代田区東神田三丁目8番(小山商店車庫)

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