ウィーン体制25-ドイツ関税同盟
2022.03.24 11:17
ウィーン会議でプロイセンはライン両岸を得た。この地域は物流の拠点と共に、産業革命に欠かせないルール炭田を有する。この地は、中部フランクから神聖ローマに組み込まれたが、ナポレオンによって神聖ローマが消滅して領邦国家となり、ナポレオン後に制圧したプロイセンのものとなった。
ところが従来の領土からはまたも飛び地となった。そこで1828年その間となるヘッセン=ダルムシュタット大公国と今でいうFTAのような北ドイツ関税同盟を発足させる。それに対し、ザクセンやハノーファーが中部ドイツ関税同盟、バイエルンが南ドイツ関税同盟を発足させた。
3つの関税同盟となると、もう税関そのものが邪魔になってくる。税関が襲撃される事件も起きた。そしてプロイセンは各国を切り崩し、1833年3月にドイツ関税同盟ができた。これはEUが関税同盟からできたように、経済的統一がドイツ統一の第一歩となった。
政治的なドイツ連盟の長はオーストリアである。メッテルニヒはこの関税同盟は、オーストリアを排除して、プロイセン主導のもとでまとまる「危険なもの」と皇帝に報告している。しかしもはや遅く、33年5月にはバイエルンでドイツ統一を求める集会に3万人が集まり、民衆も統一の機運が広がっていく。