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四旬節第4主日(C)

2022.03.25 20:00

2022年3月27日 C年 四旬節第4主日

第1朗読 ヨシュア記 5章9a、10~12節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章17~21節

福音朗読 ルカによる福音書 15章1~3、11~32節

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 今日の朗読個所の冒頭では、イエスが徴税人や罪人たちと一緒に食事をすることに、ファリサイ派や律法学者が不平を述べたことが語られています。わずか2節のその描写は、15章全体に渡って語られる「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」という、三つの有名なたとえ話のきっかけになりました。様々な事情により律法を守ることができないでいた徴税人や罪人たちは、それを理由に自分たちを社会からつまはじきする他の人々とは違うものを、イエスに感じ取っていたのでしょう。その話を聞きたいとイエスのもとを訪ね、イエスは彼らを温かく迎え入れて同じ食卓を囲みました。彼らにとって、それは虐げられて死んだようになっていた日々に光が差した体験、人として大切にされる温かさに包まれた体験だったことでしょう。神の御子と人々との食卓では、大きな喜びが分かち合われていたに違いありません。

 一方、ファリサイ派や律法学者の人々は、その幸いな食卓に横槍を入れ、不平を述べ立てます。神について語り、「先生」と呼ばれる立場にある人ならば、律法を順守する立派な人々とだけ交際すべきだ、とでも彼らは言いたいのでしょうか。しかし残念なことに、人の言い伝えに縛られている彼らの目には、その食卓に実現している喜びは映っていません。彼らは懸命に律法を重んじていましたが、肝心な神との相応しい関係を見失っているのです。

 そんな彼らに対して、イエスは「見失ったものを再び見いだした喜び」についての三つのたとえ話を語り、一人の回心によって天に大きな喜びがあることを告げます。しかも、その喜びは、必ず周囲に伝播するのです。見失った一匹の羊を見つけた羊飼い、無くした銀貨を見つけた女、放蕩息子の帰還を迎えた父は、いずれも大切な存在を再び見いだした喜びを一人のものにせず、その喜びの輪に周りの人々を迎え入れようとしました。そこには小さなことに喜びを見いだす御父の憐れみ深さと、ご自身の喜びをさらに広げようとする寛大さが表わされていると言えるでしょう。

 三つのたとえの最後を飾るだけあって、放蕩息子の父は、その点で際立っています。その寛大さは、人間の尺度に照らして度を超しているとさえ言えるでしょう。まず、弟が父の生存中に財産の分け前を要求しましたが、それは父を死んだものと見なすに等しい行為です。それにも関わらず、父は何も言わずに弟の望むとおりに息子たちに財産を分与します。さらに、弟は財産を換金して遠い国に旅立ち、いよいよ父との関わりを断つような振る舞いをするのですが、父はそれを止める気配もありません。命の本源とも言うべき父のもとを離れて、息子が望むような幸いを手に入れられないことを、父は見越していたでしょうから、それはどれほど心苦しいことだったでしょう。

 案の定、弟は遠い国で持っていた金を使い果たし、さらに飢饉という不測の事態に見舞われると、イスラエルの人々が汚れた動物とみなしていた豚の餌を食べたいと思うまでに食い詰めます。正しくどん底に陥った弟は、ようやくそこで我に返って立ち上がり、父の家に戻る決心を固めました。

 親子の絆を一方的に断ち切るようにして家を出て行った息子ですから、父は追い返すこともできたはずです。しかし父は、苦境にある弟のために心を痛めてその帰りを待ち望み、まだ弟が遠くにいるうちに見つけ、自らそこに駆け寄ります。さらに彼を抱き寄せ、服を着せ、指輪をはめ、履物をはかせました。それは、本人でさえ息子と呼ばれる資格がないと思ったほどの弟の振る舞いを不問に付し、相続権を持つ正当な息子として受け入れることでした。

 その寛大さは、我に返った弟の予想をさらに上回るものでした。実際、弟は父の家に帰って雇い人の一人にしてもらおうと考えていたのです。駆け寄る父に抱擁されて、弟は初めて父の本当のみ心に触れたのです。肥えた子牛を屠って始められた祝宴には、自らのすべてを与え続ける父の憐れみ深いみ心と、それ故の大きな喜びが表わされていると言えるでしょう。

 一方の兄は、弟の帰還を喜ぶ父の心が分からず、父が祝宴のために肥えた子牛を屠って弟を歓待したことに怒り、家に入ろうとしませんでした。「ずっと言いつけに従ってきたのに、小山羊一匹すらくれなかった」との言いぐさは、弟と同時に財産の分け前を受け取ったことや、そもそも父の家で過ごす幸いを忘れてしまったかのようです。しかも、その時、自分の弟を「あなたのあの息子」と呼び、自分とは関係ない存在だとみなしています。兄は物理的には父の近くにいましたが、その心は父から遠く離れていました。結局、父の心を分からないということ、父からの恩義に気づいていないということにおいて、兄は放蕩していたときの弟と、全く変わらないのです。

 そんな兄の様子に、父はまたいち早く気がつきます。父はせっかくの祝宴から席を外し、兄をなだめて、家の中に招き入れようとするのです。そして父は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった「お前のあの弟」のために、喜びの祝宴を開くのは当り前のことではないかと諭します。父は兄が見失っている兄弟の絆を思い起こさせながら、兄にその喜びの輪に加わるように促します。父にとっては、親子の関係を断ち、家を出て戻ってきた弟も、共にいながら全く自分の心を知らずにいる兄も、どちらも同じように大切な我が子であると、二人に悟らせようとするのです。

 しかし、そこでイエスの話は終わります。たとえ話の兄がどうなったのか、その話を聞いたファリサイ派と律法学者がどうしたのか、私たちには知らされません。それによってこの物語は、問いかけとして、私たちの現実の生活に入り込んできます。私は、話を聞くためにイエスに近づこうとしているだろうか。反対に、誰かがイエスに近づくことに、不平を述べ立てていないだろうか。あるいは、父の家を離れて自分の好き勝手に振る舞おうとしていないだろうか。それとも教会に通いながら、心は遠く父から離れていないだろうか。誰かを自分の基準で裁き、共同体に分断を造り出し、天における喜びに心を閉ざしていないだろうか。

 御父の憐れみは、あまりに広く、深く、高く、純粋で、私たちは自分がその中にいるという事実を、しばしば見失っています。そのため、自分自身の在り方次第で、子としての資格が得られるとみなしたり、反対に、その身分を捨ててもいいと思い上がったりしてしまうのでしょう。しかし、このたとえ話によって突きつけられる問い掛けに向き合い、自分を真摯に振り返るうちに、私たちは自分の中に、弟の姿、兄の姿、あるいはその両方が存在していることを認められるようになるはずです。それは、この物語を通して、御子が私たちに語りかけてくださっているからです。

 すると、私たちはなお気づかされます。そもそも神の御子が受肉して私たちのもとにやってきてくださったこと自体が、まだ遠くにいた弟に駆け寄ってきた父、家の中に入ろうとしない兄をなだめるために祝宴から抜け出した父の姿なのではないかと。天の御父は、弟にも兄にも、徴税人や罪人にも、ファリサイ派や律法学者にも、ご自身の子であると告げることを決してあきらめず、そのために御子イエス・キリストさえ惜しまれなかったのだと。そうであるならば、私たちも紛れもなく神の子なのだと。

 私たちは御子の救いの業によって、神の子の身分に与っています。神のみ心を見失ってしまう私たちが、その事実を受け入れ直すとき、天には大きな喜びがあると、今日、御子は告げてくださっています。憐れみ深い御父は、その喜びの輪を広げようと、なお多くの人々を招いています。そのみ心が特に苦境の中にある人々に向けられていることは、言うまでもないことでしょう。すべての人々、特に戦争、災害、病によって苦しんでいる人々に、私たちが憐れみ深い御父のみ心を告げ知らせ、喜びの祝宴に人々を招き入れることができるよう、共に祈ってまいりましょう。

(by F.N.K)