ラーゲルクヴィスト著『バラバ』
奴隷鑑札の裏に
刻みつけられた文字は
376限目◎本
堀間ロクなな
総督こたへて彼らに言ふ「二人の中(うち)いづれを我が赦さん事を願ふか」彼らいふ「バラバなり」ピラト言ふ「さらばキリストと称(とな)ふるイエスを我いかに為(す)べきか」皆いふ「十字架につくべし」ピラト言ふ「かれ何の悪事をなしたるか」彼ら烈しく叫びていふ「十字架につくべし」
新約聖書『マタイ伝』が描くイエス・キリスト裁判の模様だ。ローマ総督ピラトが公平な判決を下そうとするのに、ユダヤ教祭司らの扇動によっていきりたった群衆があくまで極刑を求め、上記のとおり、イエスを十字架にかけるのと引き換えに強盗殺人犯のバラバが赦免されることになる。この人物を主人公として、スウェーデンの作家ペール・ラーゲルクヴィストが『バラバ』を発表したのは1950年のこと。全編にわたって重苦しく、ペシミスティックな雰囲気が色濃いのは素材のせいというより、キリスト教世界を主要な舞台に繰り広げられた2度の世界大戦が執筆の動機だったからだろう。
人類は一体、不信心と不寛容の深い闇から抜けすことができるのか? その問いかけが波瀾万丈のストーリーを推し進めていく。
ふいに獄から放たれた30歳ばかりのバラバは、おのれの身代わりとなったイエスのあとを追って、かれが十字架上で息を引き取るのを見届け、その瞬間、天空を黒雲が覆ってあたりが真っ暗になったのを体験し、さらには洞窟に収められた遺骸が3日後に煙のように消え失せて、どうやらイエスが復活したらしいことにも立ち会う。しかし、それらをもってしても、生前のかれが説いたという愛の教義を信じようとはしなかった。以降、長い歳月をひと知れず流浪のうちに過ごし、いつしか50歳を過ぎて髪もすっかり白くなったころ、バラバは鉱山の奴隷として重労働に服していた。ある日、ひとつ鎖につながれたアルメニア人のサハクと話していて、相手の鑑札の裏に何やら文字のようなものを見つける。そのあとに続く文章を引用しよう。
「サハクの説明によると、それは十字架につけられた人、救世主、神の子の名前を意味するというのである。バラバは何か魔法的な内容がありそうなその奇妙なきざみ文字をふしぎそうにながめていたが、サハクはその文字は自分が神の子のものであり、神の奴隷であることを意味するのだ、と小声でいった。そしてバラバにそれをさわらせた。(中略)その後の数日の間、バラバはひどく無口でもの静かになった。それから彼は、妙に不安らしい声でサハクに、おれの奴隷鑑札にもそれと同じ文字をきざみつけてくれないか、とたずねた」(尾崎義訳)
わたしは学生時分に初めて接して以来、この場面がずっと記憶にこびりついてきた。文字というものの神秘! こうしてバラバは、ようやく自分の身代わりになった存在の答えを知ったのだ。たとえその文字の読み方をふたりとも知らなかったにせよ――。もとより、文字を知ることと、文字の読み方を知ることとは別次元の話だろう。この物語では、のちにローマ人の長官が鑑札の文字を「クリストス・イエースース」と口に出して読んでふたりをあっと言わせたあと、この邪教への信心を捨てるように迫って、イサクが拒絶するとただちに磔刑を申し渡し、バラバの鑑札の文字は削り取ってしまう。かれはまた十字架上の死を見届けることになったのだ。
ここに文字をめぐっての真実があるのではないか。われわれが懸命に答えを求めようとするとき、まわりに目を凝らしてみれば、実はすでに文字となって明かされているのであり、これを読み取ってわかった気になるよりも、そこへまっすぐ手を伸ばすことのほうが肝心なのだろう。だれかが文字を削り取ってしまう前に。
「おまえさんに委せるよ、おれの魂を」。そう言い残して、最後にバラバはみずからも十字架上で息絶える。そんなかれが、果たして答えに辿りつけたかどうかは判断が割れるに違いない。結局、すべてはひとりひとりが世界と向きあう態度にかかっているのだろう。ウクライナ危機めぐって、キリスト教世界の政治指導者の口からしきりに「第三次世界大戦」の言葉が飛びだし、ふたたび人類が答えを見失って、不信心と不寛容の深い闇のなかをさまよっているように眺められる当節、この作品でノーベル文学賞を受賞したラーゲルクヴィストの問いかけが示唆するものはあまりにも大きい。