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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、宿命のライバル地の果てまでも…ショパンへの罵声の正体は誰…居場所がなくなっていくショパン…

2022.03.28 10:28

リスト1870年頃の晩年写真からとショパンの

晩年の1847年頃写真から🎶イメージ🎶

晩餐会はショパンにとっては悪夢でしかなかった…たとえば、『こちらの方は高名な侯爵夫人です。有名な女優で音楽家の方です。』と、音楽家であり芸術家であるショパンは位の高い夫人に紹介される。

ショパンはその場の空気を読み取り『それは素晴らしい方とお目にかかれ身に余る思いです…』などと少し俯き加減に夫人の手を取りながらも『この方が女優?音楽家?』と、『まさか…冗談では…』と眉を潜めながらもお世辞を言わざる得ない。

このような場面には慣れているはずのショパンだったはずだが、ショパンの我慢はとうとう限界を超えそうになっていた…。

だから、ストレスで部屋でひとりになってからも朝まで頭を掻きむしり、ベットの中で悪夢を見て朝まで苦しむショパン。

信じがたい頭のネジが飛んでいる会話や

音楽?いや、ショパンにしたら騒音が

繰り広げられる晩餐会の同じ土俵で、

ショパンは演奏しなくてならなかった。

そういう仕事が世間から音楽は芸術ではないと思われている風潮の現況であり、自分もその仕事は芸術には程遠いことを分かっていながらも、お金のために断ることができないショパン自身は、この原因は音楽の職業としての上の地位を得ているノムコムやフランショームに責任があると呪うしかなかった。

そして、ショパンは散々な目に遭わされる晩餐会の模様をグシマーワに暴露した…

「ある御夫人は私に自分の写真集を見せてくれながらこう言うのです。[私は女王の横に立っていた]と言っていた。

3人目のご夫人は、[わたくしは13人目の

メアリー・スチュアートのいとこですのよ、]と言った。

すると、もう一人は、いつもご本人は独創的なおつもりなのですが、

彼女は立ってままでピアノを弾きながらフランスの歌謡曲を英語のような発音で歌うのです。J'aie aiimaiieをジェイ・エイ・エイ・メイ ! !と歌われます…

また、パルマの王女によると、そのうちの1人はギターの伴奏で口笛を吹くそうだ!!

 私の作品をご存知のご夫人の方は、

[フランス語で] ["あなたの第二のため息を演奏してください [夜想曲ト長調] ... ... 

あなたのベルが大好きです。" ]」

的外れな自慢話しが終わったかと思えば、

次は音楽家?のご夫人方の素晴らしく奇怪な音の演奏が始まる…これはショパンにとって音の拷問でしかない…。そうかと思えば、あるご夫人は、ショパンの曲を知っているかのように「夜想曲のト長調第2を弾いてほしい」と言う、しかしこれは本当に夜想曲ト長調だったかは仮説でしかないのだ。

ただそれだけのことならばショパンは深刻にならないはずだか、問題はご夫人は″「ため息の鐘の音が好き」″と言っている点がショパンには怪しく気持ち悪いのだ。[あなたの作品のため息が聴きたい、あなたの鐘の音が好きです]これは、これは、もしやリストの作品のことなのかもしれないからだ、だから、ショパンは内心穏やかではいられないのだ。現にリストの作品ため息の着手は1845年頃からで、リストはヴァイマルで職に就いた1848年までに作曲は既に完成しており、貴族の特定のご夫人方の間でリストのため息が既に知られていた可能性があり…、ハミルトン宮殿に集った貴族の中にリストの弟子だったのか、あるいは、ショパンの天敵シューマン信仰者のご夫人がいた可能性があるのだ、つまりは、『この曲は本当はショパンさんの曲であるなら弾いてみてくださる?私は本当はリストが好きなのよ。』という回り回った嫌がらせでもあったのだ。確かリストはショパンと和解したはずだったが、まさか、まだ何か妬んでいるのか…身の置き所がなくなっていくショパン…。

リストの作品にはショパンと似通う点が多々あるのはショパンがリストに教えていたことがあるからなのだ、リストには忘れたい過去…、ショパンは忘れはしない過去は現在に繋がっている…、

リストは1844年にはマリーと別れ、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と不倫の仲になり同棲していた。リストの不倫相手のカロリーネ(1819年2月7日 - 1887年3月10日)は、帝政ロシアのドイツ系上級貴族ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク家の侯子ニコラウスの妻なのだ。

結婚前の姓名はカロリーナ・エルジュビェタ・イヴァノフスカで裕福なポーランド人貴族のピョトル・イヴァノフスキとその妻パウリーナ・ポドフスカの間の娘として、ガリツィア(当時はオーストリア帝国領)のモナステジスカ(現在のウクライナ領テルノーピリ州モナスティリシカ)に生まれた女なのだ。

リストは彼女の助言で、ちょうどショパンが、イギリスにいたこの頃、1848年からは、常任のヴァイマール宮廷楽長に就任していた。(その後カロリーナとリストは終生の伴侶となっていくのである…。)カロリーナの両親は本当にポーランド貴族だったのかは謎が残る。そして(ショパンに負い目があるリストは″ため息″をショパンの死後に出版することになる…)

ショパンはスコットランドに来てまでもリストと宿命の対決の罠が待っていたのか…。

そして、ショパンの話はまだ続いたのだ

「そして、私の演奏に対するすべての感想はご夫人方のこの言葉で終わるのです、それは音楽が水のように流れるという意味です。

イギリス人女性から [もう無駄だわ!消えてくださるかしら!」

と叫ばれ演奏が終わらないことはありません。」なんと、ショパンの演奏は

水のようだというのは、本当は水のようだという意味ではなく、これは、惜しみなく

という意味で、水を例えて「無駄に消えてなくなる」という嫌みなのです。ショパンは「間さん弾いてください!」と、言われたかと思えば、もう無駄だから「消えろ!」、と叫ばれていたのだ。ショパンはこの仕打ちに対しての恨みをグシマーワに語った。

「彼女たちは、手を見ながら間違った音を魂込めて弾く。なんと奇妙なことだ!」ご夫人方は楽譜すら真面に読めないため、手をしきりに見ながら聞いて覚えた音をでたらめに弾いているのだ、だから、作曲家への敬意をなどは微塵もない人々なのだと、

ショパンは怒りが頂点に達したのか…

「たくさん の神よ、どうか私を守りたまえ!」

ショパンは、神よ!と叫ぶ。

もし神が存在するならば、

作曲家は音楽の神に仕えている…それなのに

身を削り書いて来た私になぜこんな酷い目に遭わせるのですか!音楽を人をいたぶるための道具に使う彼らに罰をお与えあれ!

アーメン!

怒りの感情を絵で解消しようとするショパンは「(ショパンはその様子を風刺して絵に描いていた)

 あれは襟巻きとゲートルをつけた貴族だ......どもってる。(別の風刺画をショパンは描いた)

 こちらは赤革のブーツとスパースを履いた公爵。バックスキンを履いています

ズボンにガウンのようなものを羽織っている。(これも風刺したショパン)」

ショパンの描いたこの絵は現存しない…。


ハミルトンの第10公爵

在職期間1819〜1852

前任者アーチボルドハミルトン、ハミルトンの第9公爵、後継者ウィリアムハミルトン、ハミルトン第11公爵

その他の名前ブランドンの第7公爵

(1767年10月3日イギリス、ロンドン

、セントジェームズスクエア‐1852年8月18日セントジェームズスクエア、ベント墓地、

ラナークシャーの主大尉

配偶者たち:スーザン・ユーフェミア・ベックフォード、

ウィリアムハミルトン、ハミルトン

レディスーザンデベックの第11公爵

両親:アーチボルドハミルトン、ハミルトンレディハリエットスチュワートの第9公爵


ハミルトン第11公爵

ウィリアムハミルトン、ハミルトンの第11公爵、在職期間1852〜1863

前任者アレグザンダーハミルトン、ハミルトン第10公爵、後継ウィリアムダグラスハミルトン、ハミルトン第12公爵

その他の名前:ブランドンの第8公爵

(1811年2月19日イギリス、ロンドン

1863年7月8日(52歳)HôtelBristol、パリ、フランス)

マリシャル伯爵、ラナークシャーの主宰官

配偶者たち:

バーデンのマリー・アマーリ王女

ウィリアムダグラスハミルトン、ハミルトンの第12公爵

チャールズダグラスハミルトン、セルカーク

レディの第7伯爵メアリー・ビクトリア・ダグラスハミルトン

両親:アレグザンダーハミルトン、ハミルトンの第10公爵

【ハミルトン宮殿1870年頃】

建築様式:パッラーディオ、新古典主義

ハミルトン、サウスラナークシャー

スコットランド

着工:14世紀

完了:1701、追加1822-1828

取り壊された1921-1926

建築家:ジェームス・スミス

ウィリアム・アダム

デイヴィッド・ハミルトン

ハミルトン宮殿の中心にある建物は、ハミルトン家の居城であった「果樹園」または「ハミルトンの城」として知られている13世紀からの宮殿。

✳︎1848年フレデリック・ショパンが2、3日滞在した。