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「信仰で見る景色」

2017.11.28 01:04

2017年11月26日

創世記24章1−8節 

遠い昔のアブラハムの家族の起こった物語。

聖書はこれを何千年と書き写し、書き写し伝えてきた。

印刷技術が生まれてからは翻訳もして伝えてきた。

この物語が一家族の話ではないから。

すべての人の関係する話であるから。

どこにその関係性があるのか。


アブラハムは息子イサクの嫁を探してくるように僕を遣わす。

自分の故郷から連れてくるようにと。

アブラハムはカナンでは寄留の者。

血を継ぐ者は故郷からとする。

これは民族主義なのか。


もう一つこの物語には特徴的な言い回しがある。

アブラハムが僕を送り出すとき、

未来のことを予測する予言めいた言い方をする。

アブラハムに送り出された僕も

イサクの嫁を探す時に「水を飲ませてくれる人」「ラクダにも水を進めてくれる人」

と始めにこれからのことを設定している。

そしてこの予定、予言は果たしてその通りに実現してく。

これは何を語っているのか。


アブラハムが自分の故郷から跡取りを探すことと

言葉が実現していくことは同じテーマを私たちに語っているのではないか。

言葉が実現する。

これは現実世界でも稀にしかないこと。

聖書の中でもほとんどないこと。

ただ言葉が現実になることが強烈に語られている場面がある。

世界の始め、天地創造の場面。

言葉が全て実現し世界が出来あっていく。

言葉の実現、

聖書は読者を創世記の始めへと導いているのではないか。

アブラハムが故郷から嫁を取ろうとする。

これも始めに帰ろうとしている。

始めに帰ろう。

それは表現を替えればこう言える。

始めに帰れる。

何度でも帰れる。

やり直せる。


人は色々なものを失います。

人との別れも経験します。

後悔を覚えることもあります。

時間が一直線の矢のように進んで行くのなら後悔はいたしかたないものでしょう。

しかし聖書が語るのはかえれるです。

やり直せるです。


主を裏切った弟子たちはやり直して使徒となりました。

教会を作りました。

裏切られ、殺されて主イエスがまたやってきて励まします。

復活、永遠の命は不老不死ではありません。

終わっていない。

また会える。


一家族だけの経験ではありません。

全ての者が見ることができるこの世界の景色がここにあります。