日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄 第一章 朝焼け 15
日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄
第一章 朝焼け 15
「いらっしゃい」
赤鳥居の店主である野村は、焼き鳥を焼きながら声を出し、そして入り口に目を向けて、そのままその場が凍ったように動かなくなった。ギリシア神話に出てくる怪物メドゥーサに見られて、石になってしまった人というのは、きっとこのようなものなのではないかと思えるほど、その場で硬直してしまった。
「オヤジさん」
固まってしまった野村を見て、前に座っていた樋口も何気なく声をかけた。しかし、その異様すぎる雰囲気を身て、さすがにただ事ではないと思ったのか、野村の見ている方、つまり店の入り口の報に目を向けた。
そこには長髪でサングラスをかけた男、そう松原隆志が立っていたのである。もちろん、樋口は過去の松原と会ったことはない。しかし、嵯峨朝彦や東御堂信仁からあれだけ写真などを見せられていれば、会っていなくてもすぐに松原であるということはわかるものだ。
「邪魔させてもらっていいかな」
思ったよりも声は高かった。何か神経質そうな声というのが、最も良い言い方であるかもしれない。樋口はそんなことを思った。
「はい、どうぞ空いている席へ」
野村はそういうのがやっとであった。
樋口は、なんとなく緊迫した雰囲気の中にありながら、頭の中に疑問が浮かんだ。よく考えれば、同じ極左暴力集団の中において、野村は引退しているとはいえ、年齢的にもキャリアの中でも先輩である。樋口がいた自衛隊であれば、自衛隊を退官した後に、その時のステータスがどうであれ、防衛大学の卒業年次があり、その卒業年次の先輩後輩ということが非常に大きく出てくる。年齢的なものであっても、また、卒業年次ということであっても、そこに先輩後輩の秩序が存在するのである。しかし、左翼的な考えたかの中には、そのようなものはないのであろうか。
確かに、自衛隊などであっても、現役と引退した人物とではその発言の重みも責任も異なる。退官後は自由に発言できるし、また少々過激なことも言える。しかし、本人同士の関係では、ここにいる野村と松原の間ほど緊張が走るであろうか。先輩後輩とか、そういったものではなく、何か敵対しているかのような凍り付いた雰囲気に、何か疑問があったのだ。
「珍しいじゃねえか。オッサン。こんな時間から客か」
「はい、なんでもこの辺に新たに引っ越してこられたそうで」
松原は樋口の方を一瞥したが、そのままカウンターの最も奥の席に座った。
「ビールと焼き鳥、二本」
松原は、甲高い声で言うと、スマホを取り出して何かをし始めた。
しかし、やはり何かおかしい。この野村と松原の関係は何か変だ。もちろん、共産主義者というものは、歴史や伝統、または心理や先輩後輩など、「目に見えない」「物質的ではない」モノの価値を全く認めないという志向を持っている。個の思考のことを「唯物史観」という。本来は、伝統や王権、というったものがあり、先祖伝来などという権威をすべて否定し、資産を取り上げて共有財産にするための思想であるということであったが、その思想が広がり、努力とか頑張ったとか、そういったような感情なども否定するようになっている。もちろん、日本の差yく思想がそのようになってしまったというようなことはないのであるが、しかし、元々海外にある共産主義にはそのような思考があるのであり、その影響によって日本の思想も変貌を遂げているということになる。
そのような「唯物史観」の考え方からすれば、確かに先輩後輩などというような感覚はない。今現在どちらが上位にいるか、権力を持っているかということだけが重要である、そう考えれば、中国でも現職の国家主席が、長老といわれる共産党の過去の権力者と闘争を行い、先輩にあたる人々を潰してしまうような話も少なくない。歴史上の話では、スターリンは自分の権力を確立させるために自分の小学校の時の恩師を殺してしまい、自分より目上の人間をすべて無くしたというような話もある。
では、ここの二人のはどのような関係があるのだろうか。
「オヤジさん、こっちにもビールおかわり」
樋口はそういって、焼き鳥を咥え、松原と同じようにスマホを取り出した。
野村は、相変わらず挙動不審でどうもよくわからない。この関係が見えれば何か面白いのかもしれない。樋口は、盗聴器を仕掛けるだけで店を出るつもりであったが、もう少しその場にいることにした。
その頃、荒川は前にいた喫茶店に入っていた。おおきなアンテナのある盗聴発見器をカバンの中に入れて、その内容を自分のスマホに取り込んでいた。スマホに音声データを取り込みながら、ワイヤレスイヤホンでその内容を聞いていた。
何しろ、警察も様々な角度から盗聴器を仕掛けているようであるし、また、今回樋口が仕掛けた盗聴器、そして教会の中に自分が仕掛けた機械など、さまざまなものがある。チャンネルを少し変えれば、別な音声が入ってくるような感じだ。荒川は器用にそれらの周波数をノートに付け、そのうえで、そのデータを机の上に広げたパソコンから青田に送っていた。
ちょっと見た目では、サラリーマンが仕事をしながらスマホの中の音楽を聴いているような感じにしか見えない。まさか、近くにある過激派組織日本紅旗革命団の本部組織を盗聴しているなどとは誰も思わないのではないか。
「オヤジさん、相変わらずだねえ」
様々な会話が聞こえるが、その中で最も面白いのが、松原と野村の会話である。その現場に樋口がいることも十分に承知しながら、荒川は、そこに助けに入ることもなく、喫茶店でゆっくりとコーヒーをすすった。時間はまだ16時を少し回ったところである。まだ日も高い位置にあるのだから、それ程過激なことはしないであろう。
松原は、多分、自分が教会と看板のあるアジトに入り込むときに、裏口から焼き鳥屋に入った誰かと、繋ぎをつけるために焼き鳥屋に入ったに違いない。もしかしたら、他にも焼き鳥屋には何か人がいたり、あるいはオフィスのような部屋があるのかもしれない。当然に、アジトといわれる教会は、警察がずっと張り込んでいて、過激な物品や爆発物、重火器などのテロに使うものは、入らないであろう。また、荒川や樋口が調べている、関西の大学教授たちとの繋ぎも、アジトから行ってしまえば、全てばれてしまうのに違いない。そのように考えれば、野村の焼き鳥屋をダミーの事務所として使うのが最も効率が良いのである。何しろ焼き鳥屋であるから、「鉄の櫛」を入れても構わないし、また「液体」も「固形燃料」もなんでも入る。もっと単純に包丁やナイフの類も仕入れることができるのである。そのように考えれば、野村がどんな態度をとっていても、この焼き鳥屋が最も怪しいことに変わりはないのである。
しかし、気になるのは、野村の態度であろう。荒川にとっては声しか聞こえないが、しかし、緊張している雰囲気と、そして何か険悪なムードであることはよくわかる。通常、このような場所が別動隊のアジトになる場合は、店員が他にいて、その人がつなぎ役になるのであろうか、残念ながらこの焼き鳥屋はそのような人がいない。
それにしてもこの松原という男は、どうも脚の癖が悪いのか、貧乏ゆすりしているのか、ずっと脚を揺らしている音がする。
「お客さんも。」
「焼き鳥の味もなあ」
「ありがとうございます」
「あとで、また焼き鳥食いにくるよ」
松原は、そういうと、店を出て言った風である。
「オヤジさん、常連さんですか」
「ええ、そうなんですよ」
「じゃあ、俺も帰るかな」
「ありがとうございます」
樋口も、店を立ったようである。
さてここからだ。荒川は耳を澄ませた。しかし、その後野村の後片付けしている音以外、何もなかったのである。