体罰の思い出 <追記>
いまだに体罰があるんだね〜
昔の教え子から、法律の話よりも先生の思い出話の方が面白いとメールがあった。苦笑
波瀾万丈の人生を歩んできたわけではないので、私の思い出話のどこが面白いのかさっぱり分からないけど、リクエストに応じて、上記の記事に関連して体罰の思い出話をしようと思う。
私に体罰をなさった小学校の先生方は、既に他界なさっているだろうから、ここに書いてもご迷惑をおかけすることはないからだ。
小学生の頃は、1日が短くて、とにかく時間がもったいなかった。特に宿題の漢字の書き取りドリルや計算ドリルなんて、馬鹿馬鹿しくてやらなかった。漢字も書けるし、計算もできるのに、なぜ貴重な時間を割いてドリルをやらなきゃいけないのかが愚かにも分からなかったからだ。
(法律にも学習指導要領にも宿題に関する定めはなく、各学校に委ねられているため、最近では、児童生徒の自主性を重視して、宿題を課さない公立学校が増えつつある。)
当然、先生に叱られる。いくら叱っても宿題をやらないので、体罰となる。
両親は、体罰容認派で、保護者面談や家庭訪問のたびに、母が「悪いことをしたら、どうか遠慮なさらず、ビシッとやって下さいませ。たとえ怪我をしても一切文句を申しません。」とお願いするものだから、先生方も遠慮なさらなかった。私が悪いことは承知していた。自業自得だ。
先生によって体罰も様々だった。廊下や教壇近くに立たせたり、教壇の近くに机と椅子を置かせて同級生の方を向いて座らせたり、英国式に定規で手のひらをピシッと叩いたり、手の甲を指でシッペしたり、デコピンしたり、ゲンコツで頭を小突いたり、尻を手で叩いたり、「歯を食いしばれ!」と言ってビンタしたり、精神注入棒と書かれた厚紙を丸めた硬い棒で尻を叩いたり、校庭を何周も走らせたり、腕立て伏せやヒンズースクワットをさせたりした。
しかし、田舎へ帰省した際の、母方の祖父との古武術(柔術、剣術、槍術など)の稽古に比べれば、こんな手加減した体罰は、屁でもなかった。
祖父は、決して体罰をしなかったが、技を覚えるためには、技をかけられる敵の痛みを知らねば加減が分からぬからと言って、本気で技をかけるので、めちゃくちゃ痛かったからだ。
体罰と言っても、痛い体罰ばかりではなかった。優しい体罰もあった。国語を教えて下さった定年間際のK先生の体罰だ。
昼休みに職員室に呼ばれて、このおじいちゃん先生の肩たたきをするのが体罰だった。周りの先生方に「またお前か。」と言われながら、トントントントンと肩たたきを終えると、「ありがとう」とおっしゃって、先生が飴玉を一つ下さる。
K先生公認の飴玉なので、校内で食べているのが見つかっても、「K先生から頂きました!」と言えば、他の先生からお叱りを受けることがなかった。
飴玉なんて、家に帰ればいくらでも食べられたが、先生公認で校内で食べられる点に価値があったのだ。そのため、この特権付き飴玉欲しさに、ますます漢字ドリルの宿題をやらなくなった。
一番思い出に残っているのは、音楽の女先生の体罰だな。
ある日、音楽の授業が始まる前に、音楽の薄くて大きな教科書を丸めて、ポコポコと友達同士で頭を叩き合ってふざけていたら、いつもヒステリーを起こす音楽の女先生に見つかって、黒板の前に一列に立たされた。
「教科書は叩くものではありません!」とおっしゃって、先生がたまたま手に持っておられたリコーダーで順番に男子生徒の頭を一発ずつコツンと叩かれた。次々に友達が痛そうに頭を抱えてうずくまり、かわいそうに目に涙を浮かべていた。
いよいよ私の番が来た。言わなきゃいいのに、私が「笛は叩くものではありません!」と言ったものだから、先生がヒステリーを起こして、般若のような顔になり、「キィーッ!」と叫びながら思いっきり振りかぶって笛で私の頭を叩いた。
同級生の女子たちの悲鳴とともに、笛がバラバラになって教室中に飛び散って床に落下したことが音で分かった。
一瞬目の前が真っ暗になり、直ぐに真っ白になって次第に視覚が戻ってきて、白い星がいくつも飛んでいた。血が出たかなと思って手で確認したら、ぬるぬるしていないので、幸い出血はしていなかったが、縦長の大きなたんこぶができていた。どうやら私は石頭のようだ。
脳震盪は、祖父との武術の稽古で何度も体験していたし、この程度で痛がって泣いたら武士の名折れなので、やせ我慢して痛がるそぶりを見せないように平静さを装った。
しかし、これが先生の癪に触ったようで、水がなみなみ入ったブリキ製の掃除用バケツを2つ持たされ、廊下に立たされた。
「チャイムが鳴るまで絶対に水をこぼすな!バケツを床に置くな!」と金切声でおっしゃったので、チャイムが鳴るまで意地でも言われた通りにしようと歯を食いしばって我慢したが、次第に手が痛くなり、しばらくすると腕がちぎれそうになり、顔は真っ赤になり、汗がたらたらと流れ、不思議なことに身体が勝手にガクガクと震えてきて、バケツの水が波立ち、床にこぼれる。バケツの取手を握り直すたびに水がこぼれる。上履きや靴下も水浸し。しかし、水がこぼれたお陰で、少し軽くなった。
先生が教室の入り口から時々顔を出して、私がズルをしないかとチェックしている。意地でも床にだけは置くまいと気合を入れ直し、出征なさった兵隊さんたちのご苦労に比べれば(当時、元兵隊さんがたくさんいらっしゃって、公園でよく体験談を伺った。)、こんなことぐらい耐えられなくてどうすると己を鼓舞した。廊下の窓から見える遠い景色を眺めて苦痛を紛らわせた。
やっと終業のチャイムが鳴ったので、バケツを床に置いた。血の巡りが良くなって、空を飛べるんじゃないかと思えるほど、身体が軽くなった。
先生に言われた通りに、こぼれた水を雑巾で拭いて、洗ったバケツと雑巾を掃除道具入れに戻した。
これで解放される、さあ給食の時間だ、急いで教室に戻って食べなきゃ次の授業に間に合わないぞと思ったら、先生が「謝りなさい!」とおっしゃるので、「ふざけて教科書で叩き合ったのは、申し訳ございませんでした。でも、笛は叩くものではないと言ったことは、間違っていないと思います。」とまた余計なことを言ったものだから、「キィーッ!」と再びヒステリーを起こした先生に耳を引っ張られながら廊下と階段を引きずり回された上に、職員室の出入口近くの廊下に正座させられた。なんか痛いなと思ったら、耳たぶが少し切れていた。
職員室を出入りなさる他の学年のお名前も存じ上げない男先生たちが、理由も訊かずに、次々に出席簿や木製のチョーク入れの角で頭を叩くので、頭がたんこぶだらけになった。
紙製なのに、出席簿の角で頭を叩かれるのが一番痛かった。たんこぶの上を叩かれると、飛び跳ねそうなぐらい痛かった。
昼休みが終わり、予鈴のチャイムが鳴った。知らない先生が「私から◯◯先生に言っておくから、教室に戻りなさい」とおっしゃったので、やっと解放されたが、当然給食を完食することができなかった。「口は災いの元」を痛感した。
ある日、この音楽の女先生に指揮者をやるようにと言われた。音「楽」の授業なのに、この先生の授業は、辛気臭くて、テストばかりでちっとも楽しくなかった。音楽室へ移動する時は、みんながため息を付きながら重い腰を上げていた。
そこで、みんなを楽しませてあげたいと思って、演奏の途中からスマイリー小原さんの真似をして、楽器演奏をする同級生たちに背を向けて、ツイストを踊りながら指揮をした。
バカ受けしたが、案の定、般若のような顔になった先生に叱られ、バケツを持たされ廊下に立たされた。「触らぬ神に祟りなし」を身をもって学んだ。
下記の動画で歌手よりも目立っている指揮者がスマイリー小原さん♪
子供ながらに、どっち向いて指揮してるねん?歌手より目立ったらあかんやん?と思っていたが、今見てもかっこいい。
動画の最後にも登場します。
<追記>
上記のように子供の頃は、体罰が当たり前で、体罰を受けるのは自分が悪いからなのだが、体罰をなさらない先生のお話もしなければ、母校のイメージが悪くなるな!苦笑
例えば、社会を教えて下さった先生は、決して体罰をなさらなかった。お若く見えるので、大学生のお子さんが二人いらっしゃると伺って大変驚いたが、清楚で凛とした気品があり、エレガントな立居振る舞いをなさる朗らかな美人だった。
この先生が教室に入って来られるだけで、まるで教室に薔薇が咲きこぼれるが如く、華やかな雰囲気になった。少女漫画の薔薇の背景画って、現実にあるんだと思ったものだ。
世の中にそんな美人先生がいるものかと思われるのもごもっともだが、本当なのだ。お写真をひとめ見たら、ご納得いただけるはずだ。さすがに無断でネットにアップするわけにはいかないが。
この先生の周りには常に女子生徒が群がっていて、男子が近寄る余地なんて全くない。私は、廊下で一言か二言か、言葉を交わしたことがあるだけで、それさえも女子たちに遮られたほどだ。
生徒指導は、女子に対しても大変厳しかったが、優しい人柄で、分け隔てなく一人ひとりの生徒に気を配り、大変分かり易い授業をなさるので、男女問わず、生徒から大人気。勉強嫌いや勉強が苦手な生徒も、この先生の授業だけは熱心に受講していた。この先生を悪く言う生徒は、一人もいなかった。
だからといって、生徒に対して友達のような話し方をなさらなかったし、体操着のまま授業をするような非常識なことをなさらず、TPOに合わせた服装をなさって、威儀を正しておられたので、常に威厳があった。
保護者や先生方からも絶大なる信頼を寄せられ、学年を超えた小学校のマドンナ的な存在だった。記念撮影の際は、なぜか常にこの先生が最前列の真ん中で、校長先生たちが鼻の下を伸ばして申し訳なさそうに隣に写っていた。 笑
この先生の宿題は、「平安京へ遷都したのはなぜか」というような、生徒に考えさせる自由研究的なものばかりで、調べたり考えたりするのが面白かったし、違った視点で解答すると、我ながらエコ贔屓ではないかと思えるほど、いつも褒めて下さるので、ますます張り切って宿題をやった。お陰で、小学5年生の時に市立図書館にあった大人向けの日本史全集を読破した。
私が小学校を卒業後、4歳下の妹もこの先生に社会を教えていただいた。照れくさそうにしながら妹が言うには、「久保さんのお兄さまは、それはそれは大変良くお出来になられて〜」と授業中におっしゃったそうだ。
兄をちょっぴり尊敬の眼差しで見ていたのも束の間のことだった。先生が授業のたびに「久保さんのお兄さまは〜」とおっしゃるので、次第に妹は迷惑そうな眼差しで私を見るようになった。
美人に弱い兄を許せ!
小学校を卒業後、この美人先生はもちろんのこと、他の先生方にも一度もお目にかかることがなかったなぁ〜。色々ご迷惑ご心配をおかけしたのに、大変申し訳ないことをした。
あの世があれば再会できるだろう。
お若い方、先生方がご存命のうちにお目にかかった方が後悔しなくてよろしいですよ。