神話に登場する鳥と、神話時代の鳥観
Facebook清水 友邦さん投稿記事。「真の自己に帰る旅」
【VOL. 1 物語の始まり】
童話や物語にはよく似た話が展開しています。
神話や童話などの物語は意識の構造と関係しています。
心の中で動いているエネルギーの象徴が物語になっているのです。
童話や昔話の英雄が怪物を退治してお姫様と結婚して幸福になる物語は、自我(英雄)が母親(怪物を退治)から自立して、心の全体性(お姫様と結婚)を獲得することを象徴しています。
有名なグリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」は幼い兄妹で父はいますが母がいません。
いるのは継母(ままはは)です。
木こりであるお父さんは多分2度目の再婚をしたのでしょう。
木こりはおかみさんに尻にしかれて頭があがりません。
情けない事になんでもおかみさんのいいなりになっています。
きこりの家は貧乏でした。
ある日、大飢饉で食べ物がなくなってしまいました。食べ物がなくなった継母は自分たちが生き残る為に子どもを棄てることを木こりに提案しました。尻にしかれている木こりは良心の呵責に苦しみながらも、それにしたがってしまいます。
童話の原話によると白雪姫もヘンゼルとグレーテルも「継母」ではなく実母だったようです。なぜ「継母」に代えられたのかというと実の母親が子供を捨てたり、殺そうとするのはあまりにも残酷でやりきれないからでした。「継母」であれば読者は納得することでしょう。
童話の最初の構成は非常に示唆的です。
白雪姫では継母だったり、ジャックと豆の木に父がいなかったり、何かが欠けています。
欠けているものを取り戻す為に冒険の旅にでなくてはいけないのです。
窒息しそうなくらい退屈な日常に嫌気がさすと、主人公はそれを解消しようと、冒険の旅に出ます。
そうでもしなければ主人公の人生は窒息してしまうからです。
欠けたものをどのように取り戻していくかが物語の主題なのです。
欠落感はわたしたちの心の中にあります。
気がつかないうちに実は私たちもすでに危険な冒険の旅にでてしまっているのです。
【VOL. 2 グレートマザー(太母)】
河合隼雄の著作「夢と昔話の深層心理」「昔話の深層」「昔話と日本人の心」「母性社会日本の病理」などを読むと、西洋と日本の昔話は母性の優位さに違いがあることがわかります。
ユング心理学にグレートマザー(太母)という無意識の深層に潜むアーキータイプ(元型)の概念が在ります。
グレートマザーはすべてを包み込み、養い慈しみます。
この包み込みが否定的に働くと、子供を抱きしめてはなさなず、子を呑み込んで、破壊してしまう恐ろしい母となります。
つまり、子供に干渉し、子供の自立をさまたげる悪い母です。
グレートマザーは慈しみと恐ろしさの両面を持っているのです。
グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる木こりと再婚したおかみさんは母性の否定的側面を表しています。
父親が弱いときは、それを補うかのように母親が強くなります。
4人死ぬより2人生き残る方が良いと、女性であるおかみさんは男性原理に基づく行動をとろうとしました。
女性原理はすべての子供を平等に扱いますが男性原理は善と悪、損と得、自己と他者の二元性に分離します。
木こりは子どものことを心配する女性的な思いやりの有る心の温かい人の振る舞いをします。
しかし、木こりは何の具体的な方法も示す事ができません。
木こりは思いやり(ハート)があるけれど行動力(ハラ)にかけているため、おかみさんに言いまかされてしまいます。
ハートだけではだめなのでした。
木こりの父親は下のチャクラが弱いためにおかみさんに支配されて子供を捨ててしまうのでした。
ヘンゼルとグレーテルでは鳥が重要な役割を演じています。鳥は突然にひらめく考えや、思考の流れ、空想などの精神を意味しています。多くの物語で鳥は精神、魂をなどを表わしています。人間と違って鳥は大空を自由に羽ばたくことができます。
森に置いて行かれたグレーテルは泣いてばかりいますが、ヘンゼルの機知によって、子どもたちはなんとか一度目の難を逃れました。しかし同じ危険がまた訪れました。
子供たちはグレートマザーのもとから逃げだそうとしますがグレートマザーによって連れもどされてしまいます。しかし、それでは子供たちがいつまでも自立できないのです。
ヘンゼルとグレーテルは小鳥たちのために道を失ってしまい、ますます森に深入りして行きます。
ヘンゼルは、パンくずを道中に落としましたが、小鳥に全部食べられてしまったので、帰り道が分からなくなってしまいました。
希望を失い、信じてきた自己の存在や価値が認められないと自我は幻滅して引き籠り始めます。生きる意味や目標を見失うと現実感が喪失してしまいます。
自我は、その活動にふさわしいエネルギーを必要とします。ところが、そのエネルギーが無意識に流れてしまい、自我に供給されないとエネルギーが少なくなります。
ユングは心的エネルギーが無意識から意識へ向かうときを進行、逆に意識より無意識へ向かうときを退行といいました。
このような退行状態では、自我の活動が出来なくなります。
空想にふけったり、幼児的な願望が強く前面に出てきたりします。
自我は自分に何が起きているか理解できないので幼児的な自我の水準まで病的退行をしてしまうのです。
ヘンゼルとグレーテルという幼い兄妹は、男性とも女性とも未だ分離して確立される以前の自我の状態を示しています。
幼児の段階から成長するには古い自我から分離して超越し新たな自我との統合を果たさなくてはならないのです。
【VOL. 3 自己成長の障害】
自己成長の障害をマズローは「偉大さへの恐怖」ヨナ症候群と呼んでいます。
ヨナ症候群とは「引き裂かれる事の恐怖、打ち砕かれ解体されるのではないか、その体験によって殺されるのではないかという恐怖」に打ちのめされる事です。
高次の自己は死なないのですが、過去に何度も下位の次元で死の恐怖を経験してきているので「もうたくさんだ。」「死んでしまう。」「耐えれない。」と叫ぶのです。
成長していない自我は臆病なので耐えられるほど強くはないのです。
自我が成長し安定するとより高次の問題が容赦なく浮上して葛藤に陥ります。
人が成長するには葛藤に直面し通り抜けなければならないのです。
ヘンゼルとグレーテルは、小鳥についてゆき、お菓子の家を発見しました。
二人は、夢中になってお菓子の家を食べていると気のよさそうなおばあさんが出てきます。
しかし、このおばあさんは悪い魔法使いでした。
「お菓子の家は、悪い魔女が、子どもたちをおびきよせるためにつくっておいたのでした。
ここで、最初の家における飢饉の状態と、魔女の家における豊富な食べ物とが好対照をなしています。
河合隼雄によると魔女の用意した甘くて豊富なお菓子は、母親の過保護を連想しています。過保護は子どもたちの自立をさまたげます。
ヘンゼルとグレーテルは短期間のうちに、森に棄てられる極端な拒否と過保護を体験させられました。言ってみれば、この拒否も過保護も同種のものなのです。
ヘンゼルとグレーテルはこの悪い魔法使いに捕まり、兄のヘンゼルは小屋に閉じ込められ、ごちそうとして太らされることになりました。ところが今まで泣いてばかりいた弱虫のグレーテルは機知と勇気を出して、パン焼きがまの火加減が分からないと言って魔法使いをおびき寄せ、逆にカマドに突き落としたのです。
ゾッとする声をだして、むごたらしく婆さんは焼け死にました。
パン焼きがまは火によって変容して生命が誕生するグレートマザーの子宮の象徴でした。そこからパンが生まれるのです。
魔女の力が最高に達したと思われるその瞬間に、特徴的な相互反転が行われ、殺すものと殺されるもの、焼きがまに入れるものと入れられるものとの役割交換が行われました。
帰り道に二人を助けてくれた白い鴨は、母性の肯定的な面を表しています。鴨(かも)の背に乗るときに、妹のグレーテルは、ヘンゼルが一緒に乗ろうというのに対して、「鴨さんには重すぎるでしょ、かわりばんこに運んでもらわなくちゃ」と答え、ヘンゼルに先をゆずっています。
グレーテルは女性らしいやさしい配慮と強さをもつ人格へと変容をしました。童話は意識の成熟過程を象徴しています。
そして、彼らが家に帰ったとき、おかみさんがすでに死んでいたことは魔女とおかみさんは同一の否定的な母性の象徴であったことを示していました。
ヘンゼルとグレーテルは魔女の家の中で見つけた真珠と宝石をもちかえり、父親とたのしく生活したのでした。
「子どもは生まれてから母の保護を受けて育ってくるが、その間に母との接触を通じて、母なるものの元型についての体験をもつ。つまり、それは子どものすべてを受けいれ、すべてを与えてくれる母の像である。しかし、子どもは成長にともなって、その母なるものの否定的側面すなわち自立を阻む力を認識し、それと分離しなければならない。
ここに、成長の一段階としての母親殺しの主題が生じる。これが、ヘンゼルとグレーテルの魔女退治なのであるが、もちろん、これは子どもの心の内界において行われることであって、実際の母親にむけられるものではない。」河合隼雄
【VOL. 4 永遠の宝】
ユング派の心理学者エーリッヒ・ノイマンは神話や昔話による意識の発達を段階にして述べています。
1、英雄の誕生
自我の誕生によって両親との対決が始まります。
2、母親殺し、父親殺し
両親を乗り越える事によって英雄は真の自立を勝ち取ります。
ドラゴンや魔物、魔女との戦いは母親殺し、父親殺しの象徴として繰り返し現れます。
3、囚われの女性と宝物
ドラゴンとの戦いで囚われた王子やお姫様を解放したり、宝物を獲得します。
英雄は母親から離れ、異性に出会い結婚をします。
4、変容
英雄は世界を変え、新しいものを創造し、智慧や芸術,文化をもたらすものとなります。
最初は泣き虫で泣いてばかりいた妹のグレーテルは、すべてを兄にたよっていました。最後にグレーテルは変容して魔女を焼き殺す強さと思いやりを持った自我を確立します。
英雄は神話や物語の中で自我を呑み込もうとする力から自分を守りぬき、永遠の命と至福である宝物を手に入れるのです。
私たちは見失ったものを取り戻すために冒険の旅に出ます。
旅の最中に出逢う巨大竜蛇・ドラゴンや悪鬼といった怪物、魔物の類と戦い、自我の死という恐怖を経験し、永遠の命である真の自己を手に入れるまで、宝物を探す冒険の旅を続けるのです。
http://bayern758.com/2017/05/23/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB-%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B/ 【ヘンゼルとグレーテル について考える】より
グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』は主人公の兄妹が継母に捨てられるところからストーリーの変化の兆しが現れます。この民衆物語が口承されていた16世紀以降、とくに19世紀に子捨は多かったそうです。そして、当時の妊娠中と出産時の女性の死亡率の高さから考えれば、家族の中に継母がいる状況は珍しくなかった。つまり、この兄妹の家族生活の状態は特殊なものではなく、その時代の日常生活の事実と一致していたといえます。
この話は両親による児童虐待のもっとも有名な例の一つと言われています。
ヘンゼルとグレーテルの二人を象徴的に考えると、ユング心理学でいうアニムス性(男性的要素)とアニマ性(女性的要素)を表しており、つまり人間そのもの、我々の「自我」であるといえます。そしてこの二人の幼い子供達が継母に家を追い出され、未知の森へ入っていき、再び家へ帰ってくるという話の流れから、母親(両親)からの自立、外での成長、成功をおさめて帰ってくる、という子供の成長自立を推進するように機能していると思われます。
継母と森の魔女は機能的には同一の存在であり、この二人の行動や性格はひとつの母親像を連想させます。たとえば、継母は幼い子供より自分を大事にするどころか、自分が生きるために本来守るべき幼い命までも絶とうとする。森の魔女は、甘いもので子供をつったり、子供を食べよう(殺そう)としたり、自分の欲求のために動き、考え、理性をもたない。このような行動や性質は「悪い母親」を典型的に表しているといえます。ヘンゼルとグレーテルが自立しようとする子供を表現しているならば、この継母と森の魔女はそれを妨げる悪い母親を表現しているのではないでしょうか。
木こりである父親も本来一家を守るという理想的父親とはほど遠く、気が弱く妻の言いなりになってしまう男性の象徴です。ただ子供のことは愛しており、子供たちが帰る場所として考えることができます。
鳥はこの物語の中で重要な役割を果たします。ヘンゼルが家に帰るための道しるべとして落としたパンを食べてしまう鳥たち、兄弟をお菓子の家へ導く白い小鳥、それに兄弟が父のいる家へ帰るときに助けてくれる白いカモ。ヘンゼルは家で両親の会話を聞いて泣くグレーテルにいつも「心配しなくていいよ、グレーテル、神様は僕たちを見捨てたりしないから」と言っていましたが、この鳥たちこそが神、もしくは神の使いであると考えられます。
道しるべとしてのパンを食べてしまったり、魔女の家へ誘導する鳥は神が与えた兄弟への試練のきっかけであり、白いカモは成長自立(魔女退治)した子供たちを無事に家に返してやるという、神からのご褒美であると考えれば納得がいきます。
このように、この登場人物たちは、すべて母親からの成長自立を促すように機能しています。言い換えれば、私たちは成長を余儀なくされたとき、母親から離れ、失敗を繰り返し、誰かの助けを得、危険や試練を乗り越えられたら、それによって得たものを携えて(立派に成長して)家に戻ることが許される、ということを教えてくれているのです。
そして愛情薄い母親(継母)と、危険を及ぼす悪い母親(森の魔女)は子供の成長とともに死んでしまうのです。
木こりの家は、現実の生活場所です。ヘンゼルとグレーテルにとっては、継母がいるという少々居心地の悪い、でも優しい父親がいるため離れがたい場所。読み手の人間にとっては、そろそろ独り立ちしろとせつかれる年頃の現実、といったところでしょうか。
森と木こりの家を結ぶ道は成長への過程です。自立への道は行きは不安を持ち、帰りは達成感を持ちます。森の奥の魔女の家は、成長のために乗り越えなければいけない、神が与えた試練です。そこに魔女(悪い母親像)がいるということは、人が成長する為にもっとも乗り越えなけばいけない、自己の深いところにいる母親との対決であるといえます。その対決に勝つためには、ヘンゼルが象徴するアニムス性(たとえば論理性、知性)とグレーテルが象徴するアニマ性(たとえば情念、衝動性)、これらが統合した強い自我が必要となるのです。
そして魔女の家の真珠や宝石は、その対決の勝利そのものを表しています。宝をもって家へ帰るその場所に、もう継母はいない。こうして、子供たちはもっとも実りのある成長をとげ、幸せにくらすのです。
ヘンゼルとグレーテルの登場人物と、その舞台となる場所の移動経過をみると、私自身の経験上の出来事や問題と連想でき、共感する部分があります。この物語を口承してきた人たちは、発想豊かに聞き手(主に子供たち)を退屈させないように、このような宗教の教えめいた物語を語り継いできたのでしょうか。それとも、飢饉のために子供を森の中に捨てたという現実に良心を痛めて、ハッピーエンドの物語(メルヘン)に仕立てあげたのでしょうか。それは定かではないですが、当時現実の世界では、森の奥深くに捨てられた子供は死ぬしかなかったでしょう。現実ではありえないことが起こるのは、メルヘンの中だけなのです。
文献
高橋義人『グリム童話の世界-ヨーロッパ文化の深層へ』(岩波書店)2006年
マリア・タタール『グリム童-その隠されたメッセージ』(新曜社)1990年
鈴木晶『グリム童話-メルヘンの深層』(講談社)1991年
Gebrüder Grimm『Mein liebstes Märchen』(Dessart)1991年
阿部謹也『物語ドイツの歴史』(中公新書)1998年
藤本淳雄他『ドイツ文学史』(東京大学出版会)1977年
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/1437 【神話に登場する鳥と、神話時代の鳥観】
1 神話の中の鳥たち
◆神話時代の鳥の位置づけ
人間と自然との距離が今よりもずっと近かった古代。人々は、地震や津波、雷、大風などの自然現象にも、太陽や月などの天体の内にも、神や、神に類する霊的な存在をはっきりと感じ、その現象や運行に「神の意思」を見ていた。
そんな時代に語られた、神々や英雄の物語を、我々は「神話」と呼ぶ。
多くが世界の創造――「創世」から始まる神話の中で、神々は人間と同じような生活を営みながら、ときに争い、ときに冒険をした。強い力をもった怪物や、物語の中心に座す神々とは異なる神族が登場し、神々や人間を脅かすこともあった。
神の世が崩壊し、神々が地上から消え去ったのちに人間の時代が始まったとするのが、多くの神話に見られる物語の流れだ。そんな世界の神話群にあって、神々は滅びず、世界が再生されることもなく、神が自然に人間へと変化へんげして、今も地上に生き続けていると綴るのは、日本における神々の物語である。
そんな各地の神話には、さまざまなかたちで鳥が登場する。
ふだんは人間の姿をとって暮らす神々の変化した姿としての鳥。助言者、協力者、高位の神から地上に生きる神や人間を導くように命じられた存在としての鳥。怪物としての鳥。
多彩な姿が、そこには見える。
常に特定の神のそばにいる鳥、また、その神の象徴とされた鳥は、聖なる鳥「聖鳥」と呼ばれた。
そうした鳥は、日常の中にいる「あたりまえの存在」であると同時に、その神と強く結びついた「特別な存在」でもあり、帯びた神性から、一部は崇拝の対象にもなった。
ローマ神話の女神ジュノーの聖鳥は、ガン。ギリシア神話の主神ゼウスの聖鳥はおもにイヌワシで、女神アテナの聖鳥は知恵の象徴とされたコキンメフクロウだった。
紀元前500年頃のギリシアでは、アテナとコキンメフクロウがそれぞれ片面を飾った硬貨もつくられた。それは、アテナへの愛と信仰のひとつの結実といえる。
インドでは、ヒンズー教の創造神であるブラフマーの聖鳥がハクチョウであったり、メソポタミアでは、シュメール神話の「戦いくさと豊穣の女神」でもあったイシュタルの聖鳥がクジャクバトであったりした。
さらに神話の中には、世界の半分を覆うほどの翼をもった巨鳥や、定期的に死と生を繰り返すことによって永遠の命を維持する鳥さえも存在した。
紀元前500年頃のギリシアの硬貨
神話に登場する鳥は、その時代にその土地に暮らし、神話を語り継いだ人々の認識の広がりの内にいた存在である。それゆえに、人々と接点のない鳥は神話には登場しない。
その地域でよく目にする鳥は、高い確率で神話を織りなす一員となっていった。
唯一の例外は、当時の人々が精いっぱいの想像でつくりあげた恐ろしい怪物としての鳥だが、そのフォルムにさえ、機知の鳥の姿が少なからず反映されていた事実もある。
2 原始、鳥は神だった
◆創世への関わり
ただ存在するだけで形も定まっていなかった世界の中、神々が暮らす場所――、のちの日本となる「国土」を生み出すように、高天原たかまがはらの高位の神から命じられたのは、イザナギとイザナミという2柱の神だった。これが日本神話の冒頭のエピソードである。
だが彼らは、国を生み出すやりかたがわからず、困り果てていた。
そこに、一羽のセキレイが現れる。
セキレイこそが、日本神話で最初に登場する生き物である。
セキレイが尾を上下に動かす姿が示唆となって、イザナギとイザナミは生殖の方法を知る。そして、無事に国土を産みだすことができた。鳥によって、啓示がもたらされたのだ。
セキレイがいなければ日本という国も、そこで暮らすすべての生きものも誕生しなかった。それゆえに、セキレイこそが日本神話の最初の要だったということもできる。
なお、神話が語られた時代、日本列島の西部に暮らした人々にとって、もっとも身近にいたセキレイ類はセグロセキレイだったことから、このエピソードの鳥はセグロセキレイだったのではないかと推察されている。
セグロセキレイ (写真提供:神吉晃子)
東北地方から北海道、サハリン(樺太)に暮らしていたアイヌの人々の創世神話においては、村ごとにさまざまな物語が存在するが、その中には、日本の神話と同様、セキレイの尾の動きから男女の交わりのヒントを得て、そのおかげで大地に人間が増えたというものがある。また、創造主が大地を生み出す際、助手的立場でセキレイがそれに関わったという逸話もある。
世界の創造にあたり、天に住まう神々の主・天帝は、セキレイを地上に降ろした。セキレイは、天帝の手によって盛り上げられた土(大地)の上を歩き、羽をバタバタとさせながら跳ね回り、尾を上下に振る。そうすることで、でこぼこだった土地を平らにならした。その命令が今も生きているために、セキレイは地上では尾を上下に振って歩くのだとアイヌの神話は告げる。
アメリカ先住民が伝える神話には、カモが海に潜り、嘴くちばしですくい上げた泥から人間が暮らす世界がつくられたという、鳥がより直接的に創世に関与した話も残されている。
オーストラリア先住民アボリジニの創世神話には、人間の笑い声のような声で鳴くことからその名がついたワライカワセミが深く関わっている。
創世まもない世界に毎朝、陽を昇らせる重要な役目を任されたのは精霊たちだった。精霊がうっかり寝過ごすと世界に昼が訪れなくなってしまう。そのため、しっかり目覚めさせる「目ざまし役」(=モーニングコール役)として、だれより早起きだったワライカワセミがその任についたのだという。他の土地ではニワトリが担うことの多い役目をワライカワセミが託されたことを、とても興味深く感じている。
ワライカワセミ (写真提供:ピカちゃんの養母)
◆エジプトの場合
今から3600~3900年ほど前に生きた古代エジプトの人々は、「ベンヌ」という、霊鳥にして神でもある存在を崇めた。ベンヌは、一年を通してナイルの河畔に生息しているアオサギがモデルとされ、その姿でのみ描かれて、人間の形状はとらない。
ある言い伝えによれば、天地と神々を創造したとされるアトゥム神(のちに太陽神ラーと習合して、「ラー・アトゥム」と呼ばれるようにもなる)は、ベンヌとして、「混沌の海(原初の海)」=「ヌン」から、みずからの力、みずからの意思によって生まれたとされる。
一方で、ベンヌが混沌の海から太陽の卵をすくいあげ、それを抱いて孵したことで太陽および太陽神が生まれたという物語も、言い伝えの中には存在していた。いずれにしてもベンヌが、古代エジプトの神話における「はじまりの存在」だったことはまちがいない。
ベンヌは毎日、夜明けとともに生まれ、日暮れに死んでいく。ただし、その死は永遠ではなく、翌朝また甦ってくる。つまり、生と死を内にもち、それを支配する者という認識がもたれたため、生と死を司る神であるオシリスとの関係も深いと考えられた。
こうした生い立ちから、ベンヌは、アトゥムやラー、オシリスといった、古代エジプト神話の中心にいた神の核、すなわち、その「魂」であるとも考えられた。
500年ごとに燃え尽きて死んでは、その灰の中から再生を繰り返すと想像された幻鳥のフェニックス。エジプトやギリシアにおいて聖なる鳥とされたこの不死鳥のモデルも、ベンヌだったと考えられている。
アオサギ (写真提供:神吉晃子)
3 太陽と鳥
◆太陽もまた神、そして翼をもつ
エジプトにおいては、壁画やパピルスなどに神の姿が描かれた際、アトゥム神が人間の姿で描かれたのに対し、太陽神のラーは人間の体にハヤブサの頭部をもつ神として描かれた。また、その頭上には、しばしば、太陽の象徴である赤い日輪も描かれていた。
天空と太陽の神であり、ハヤブサの神であるホルス神もまた、ハヤブサの頭部をもつ神であり、頭上に赤く丸い太陽が描かれた絵も多数残っている。
太陽神が鳥の頭部をもつ神として描かれたのは、高位の神と鳥が結びつけられて認識されたと同時に、翼をもった鳥と太陽が切っても切れない関係にあると、人々から考えられていたためでもあったようだ。
なお、ホルスの母親で、生と死と豊穣を司る女神のイシスもまた、トビの姿や、背中にトビの翼をもった姿で描かれることがあったことを追記しておく。
空を飛ぶには、やはり翼が不可欠――。
そんな意識が、天空を移動する太陽の絵にも翼を付け加えた。
ふだんは見えないが、実は太陽にも翼があると信じた古代の民族は多かった。古代のエジプトを筆頭に、メソポタミアやその周辺の国家にそうした信仰の痕跡を見る。
それがはっきりとわかるのが古代エジプトの壁画やパピルスの「有翼日輪」の絵だ。文字どおり、太陽が丸い姿ではなく、その左右に1対の翼が付属した形で描かれる。
太陽は明るすぎるので、ふだんはその姿を直視することができない。だが、それが可能になる日蝕のとき、月の陰に隠れた太陽には翼のように、長く二方向に伸びた光の帯が見えることがある。
太陽黒点が少なくなる時期(極小期)にのみ見ることができる、太陽の赤道方向の左右に長く伸びたコロナ(赤道型コロナ)は、見方によっては確かに広げた翼のようにも見える。それが、古代エジプトなどで「有翼日輪」として描かれた「翼の生えた太陽」の原型だったのではないかと指摘する研究者もいる。
ふだんは見えていないだけで、実は太陽にも翼があるのだと、神に仕える神官が人々に示すには、こうした条件のもとでの日蝕こそが、絶好の機会だったのかもしれない。
いずれにしても、日蝕時にのみ見ることのできる特別な姿が、地上に生きるあらゆる生き物にとって必要不可欠な太陽に、神性と神秘性を与えるのに都合のよいものだったことは容易に想像がつく。
◆太陽の中に棲む聖鳥と太陽神
中国の神話においては、太陽の核、あるいは魂ともいうべき存在がカラスであり、そのカラスは3本の脚をもつとされた。太陽の精気が集まってカラスの姿になったとも考えられ、そのカラスが太陽の中に棲んでいると信じられていた。
「偶数を陰、奇数を陽」とする陰陽の思想において、陽である「太陽」の中の存在が偶数であってはならない。それゆえ、カラスの脚は2本ではなく3本となったと説明される。
中国神話には、ある日、天空に10個の太陽が現れ、地上はその熱により焦土と化す寸前までいったが、弓の名人である羿げいが9つの太陽を射落として1つに戻したことで世界は救われたという逸話がある。これは、一般に「射日神話」と呼ばれる。羿が射たのは太陽の中にいたカラスで、9羽のカラスを射殺すことで彼は世界を救ったのだという。
日本の熊野本宮大社の八咫烏やたがらすが3本足の姿で描かれていたり、日本サッカー協会のシンボルである八咫烏が3本足なのは、こうした中国の神話が伝わり、広がったためである。なお、日本神話の八咫烏には、もともとは3本足という設定はない。
古代エジプト神話のラーやホルス、ギリシア神話のアポロンやヘリオス(ローマ神話では、それぞれアポロ、ソルに相当)、北欧神話のソール(インド神話の太陽神スーリヤも同じ語源)、日本神話の天照大神あまてらすおおみかみ、アイヌ神話のトカプチュプカムイなど、多くの神話に太陽神が存在した。それはとりもなおさず、昼を生む太陽を「神」と崇めた民族が多かったことを意味している。
エジプトの太陽神の多くが鳥の頭部をもつ存在だったことに加え、翼のある太陽「有翼日輪」の絵も残る。ギリシア神話のアポロンには、ワタリガラスに変身して危険な相手から逃れたというエピソードもある。太陽=カラスとされた中国神話の例もある。
このように、いくつもの神話が、太陽、あるいは太陽神と鳥が少なからぬ接点をもっていたことを伝えている。
エジプト神話の太陽神ラー
4 導く鳥、使役される鳥
◆神の遣いとしての鳥
地上にある神や人間を助け、導く鳥もいた。多くの場合それは、その鳥の意思ではなく、より高位の神からの指示による。例としてよく挙げられるのが、日本の「八咫烏」だ。
日本神話の後半、神武天皇が九州の高千穂から近畿の大和を目指して東征する旅において、紀伊半島南部の熊野から大和に向かう途中、その土地に暮らす荒ぶる神への対策と道案内役として、高天原が神武天皇のもとに遣わしたのが、巨大なカラス、八咫烏だった。
『古事記』に記述はないが、金色のトビもまた、神武天皇の手助けのために高天原から派遣されたことが『日本書紀』には記されている。
アイヌの神話において、人々を導く存在として大きな役割を果たすのは、シマフクロウである。アイヌ神話では、天上の神によってつくられた鳥は、神の遣いであると同時に、神格をもつ存在でもあった。シマフクロウは、天上の主神が最初につくった鳥であることから、鳥の神の筆頭とされた。
アイヌの人々を守り導くために地上に派遣されたのも、シマフクロウの存在の重さゆえである。
「モシリ・シカマ・カムイ」(国を守る神)とも呼ばれたシマフクロウは、アイヌの人々が暮らす土地を守り、特に暗い夜間に周囲に目を光らせるために天上から派遣された神であると、アイヌ民族に伝わる叙事詩(ユーカラ)は語る。
◆世界を見て、報告する鳥
神話の時代の物語として、神話とともに欧米人に広く親しまれ、信仰の対象となってきた旧約聖書、新約聖書にも、鳥が登場する。なかでも特に印象的なのが、人間や動物たちが巨大な箱船に乗り込むことで、地上を覆う大洪水という災厄から逃れた「ノアの箱船」のエピソードだろう。
洪水がおさまりかけたとき、あたりの様子を確認するためにノアがまず空に放したのはワタリガラスだった。だが、もとより自由な気質の存在であり、長時間飛び続ける力もあったワタリガラスは、待てども、待てども、ノアのもとに戻っては来なかった。
次いで、ノアはハトを放つ。
ハトがオリーブの小枝をくわえて戻ってきたことで、ノアは大洪水の水が引き始めたことを知る。分布圏や当時の人間との関係から、このハトはカワラバトだった可能性が高い。
聖書にカラスが登場するシーンはいくつもあるが、記されているカラスはすべてワタリガラスである。実は、各地の神話や、神話の時代の物語に登場するカラスの多くがワタリガラスだった、という事実がある。
神に仕える鳥としてよく知られているのは、北欧神話で主神オーディンのもとにいる、フギンとムニンという二羽のカラスだろう。
フギンとムニンはオーディンの命を受けて世界中を飛び回り、戻るとオーディンの両肩に止まって、見てきたことを報告する。彼らのおかげでオーディンは、ヴァルハラ宮殿に居ながら世界のすべてを知ることができた。
このフギンとムニンも、ワタリガラスである。
ギリシア神話の太陽神アポロンもカラスを使役した。そのカラスはワタリガラスで、かつてはハクチョウも羨むほどの純白の羽毛をもっていた。
優れた偵察能力に加えて、人の言葉を話す知力もあったそのカラスは、ある日、アポロンの子を身ごもった彼の思い人のコロニスがほかの男とも密かに会っていると、アポロンに告げ口をする。
アポロンは怒り、激情に動かされて、コロニスを射殺してしまう。後悔と行き場のない怒りから、アポロンはカラスの羽毛を黒く変え、以後カラスは永遠にコロニスの喪に服するために黒い鳥になったのだという。
聖書、北欧神話、ギリシア神話のカラスだけでなく、日本神話の八咫烏も、ふつうのカラスよりもはるかに大きな体躯をしていたと記紀(『古事記』と『日本書紀』を併せた略称)に記されていることから、ワタリガラスだった可能性が指摘されている。
数多のカラスがいる中、古代においてワタリガラスは、ほかのカラスとは違う、特別な存在だったらしい。
ヨーロッパでは、紀元前からワタリガラスについて、未来のことを予言する鳥という共通認識もあった。ただし、彼らは良い未来だけを告げるわけではなく、この先にある破滅的な悪い未来をも予言する。個人にとって都合の悪いことも口にする。「告げ口屋」というイメージがもたれたのもそのためだ。
このように、ワタリガラスには清濁両方のイメージが存在したが、それでも無視できなない特別な鳥だった。特別な役割をもって多くの神話に登場するのも、ほかのカラスとは異なる存在という認識が各地の人々の意識にあったためだろう。
◆移動手段としての鳥
多くの神話において、神々の座は天空にあるとされた。だが神といえど、人間と同様、地球の重力に縛りつけられた存在であり、自身の力で自在に空を飛ぶことはできない。
翼をもたない神々は、地上では歩くか、馬に乗るか、馬車や古代の戦車に乗るかしなくてはならならず、空を飛ぶ場合も、空を飛べる何らかの移動手段を使う必要があった。もしくは自分に代わって空を飛んで移動し、状況を確認したり行動を起こす存在を必要とした。
オーディンが使役するワタリガラスの例を見てもわかるように、後者の中心はもちろん鳥である。
日本神話において、天空の高天原から派遣されるのは、八咫烏にしても、監視者にして伝言を伝える者である「鳴き女」という名のキジにしても、鳥でなくてはならなかった。
天空の移動に利用されたのは、巨鳥や天馬ペガサスなど、翼あるものたちである。
ペルセウスは、ヘルメスから与えられた翼のあるサンダルを使って空を飛んでいるが、それはきわめて特殊な例となる。
もっとも、そのサンダルにしても、鳥の「翼」がついていることで飛翔が可能となる、という点を突き詰めて考えたなら、それもまた鳥からの力の借用であり、間接的な鳥の関与と考えるべきだろう。
ペルセウスが岩に縛られたアンドロメダ姫を見つけたのも、このサンダルを使って空を飛んでいたときのことだった。サンダルについた鳥の翼がなければ、ペルセウスの物語においてとても重要なこの場面も存在しえなかったのである。
インド(ヒンズー教)の神話において、神ビシュヌは、聖なる乗り物として、ガルーダという名の巨鳥を使役し、その背に乗って世界を移動した。
日本神話では、神々は、「天鳥舟あめのとりふね」という名の、神にして移動手段でもある存在に搭乗させてもらうことで、天と地上とのあいだを行き来する。
天鳥舟については、記紀にはその形状の記載はなく、どんな姿をしていたのか不明だが、「鳥舟」という名称からも察せられるように、いずれにしても飛行には「鳥」または「鳥の翼」、もしくはそれに相当するなにかが必要とされたと考えることができそうだ。
鳥を使役するのも手だが、自分自身が鳥になってしまえばもっと都合がいい。そういう考え方もあった。
一時的に「鳥になる」こと。それが、空を移動するためのもうひとつの手段となる。鳥になれば、長距離移動も可能になる。自分の意思で、行き先を決めることもできる。走るよりずっと早く移動できることも、鳥になることの大きな利点だった。
ギリシア神話では、必要時に、多くの神が鳥の姿を取った。変身の多くは自身の欲望を満たすためだが、敵や追手から逃れるために鳥に変身する例も少なからず存在した。
5 鳥への変身譚
◆死後に鳥へ変わる話
神の鳥への変身譚は、死後に鳥へと変化するものと、生きながら、みずからの意思によって鳥に変わるものに大別できる。
変身・変化においては、体の一部が鳥となっているケースもある。その多くは、背に翼をもったり、頭部が鳥の形状になる。例としては、ハヤブサの頭部をもつ姿が描かれることもあるエジプト神話のホルスのほか、トビの翼をもった姿で描かれるイシス、アフリカクロトキの頭部をもった知恵を司る神トートなどが挙げられる。
このほか、一部の神話においては、神の力によって、人間やほかの神が鳥の姿に変化させられた話も存在した。
古くから各地に伝わるのが、死後にその魂が鳥へと変わるエピソードである。
日本神話には、大和への帰路の途上で力尽きたヤマトタケルの魂が、御陵(墓所)からハクチョウとなって飛び立ったというエピソードが残る。
飛び立ったハクチョウ(ヤマトタケルの魂)は、はるかな空の彼方へと飛び去っていく。そこには、季節がめぐると渡り去る水鳥を霊的存在と認識する、弥生時代から続く原始的な宗教の影響が見える。
オオハクチョウ
古代エジプトにおいて死者の魂は、鳥や、人間の頭部をもつ鳥「バー」の姿で描かれた。その姿は、死者とともに埋葬された葬祭文書「死者の書」などに見える。テーベで発見された「アニのパピルス」にもそうした翼ある存在が描かれていた。
死した後、その魂が鳥へと化身する話は多い。アニミズムが支配的だった文明化する以前の原始的な社会において、飛ぶ鳥を、死者の魂の運び手や、魂そのものとみなす思想が世の東西に広く存在していたことが大きい。
アニのパピルス
◆みずから鳥となる
鳥に変身した神のエピソードが多いのは、なんといってもギリシア神話だ。
主神であるゼウスは、思いを募らせたスパルタ王妃レダのもとをハクチョウとなって訪れ、その姿のまま交わって懐妊させる。
鳥として交わったがゆえに、身ごもった女性が産むのは人間の赤ん坊ではなく卵。レダが産んだ卵の1つから生まれたのが、トロイア戦争の発端となった美女ヘレネとされる。だが、卵の形で出産されるものの、卵から孵るのは鳥の雛ではなく、人間の赤ん坊である。
こうした誕生のエピソードはのちの文学にも大きな影響を与えたようで、「ターザン」で有名な作家エドガー・ライス・バロウズが書いたSF「火星シリーズ」の中には、火星人はみな卵から生まれる、という設定がある。
なお、ゼウスに関しては、人間に火を与えた罪によって岩に縛りつけられているプロメテウスの肝臓を日々喰い続ける大鷲(そのイメージはイヌワシ)も、ゼウスが化身した姿であるという解釈もある。
またゼウスには、アポロンとアルテミスの母であるレトを懐妊させた際、ウズラ(ヨーロッパウズラ)の姿で近づいたという話もあった。また、レトの妹であるアステリアは、姉と同じように自身を誘惑しようとしたゼウスから逃れるためにウズラに変身して危機を回避したというエピソードも残る。
強大な敵から逃れるため、「鳥に変化して飛んで逃げる」というタイプの変身譚も存在した。例えば、ゼウスとレトの子である太陽神アポロンは、超常の力をもつ怪物テュポーンに襲われた際、ワタリガラスに身を変えて飛び去ることで難を逃れている。
◆鳥から人間へ?
変身譚からは少し離れるが、人間の祖先が鳥であったという神話をもつ民族もいる。アメリカ先住民のワイヨット族には、遠い祖先はコンドルだったという言い伝えも残る。
魔法や呪いによって人間が鳥に変化させられた話は欧州に多い。もともとが人間なので、呪いや魔法がとけると人間に戻る。人間を鳥に変身させるのは、おもに魔法使いなどに代表される悪意をもった第三者だ。