Okinawa 沖縄 #2 Day 174 (21/03/22) 旧浦添間切 (12) Nagusuku Hamlet 宮城集落
旧浦添間切 宮城集落 (なーぐすく)
- テラブガマ、テラブガー
- 新井泉 (ミーガー)
- 産井泉 (ウブガー) 跡
- イジュンガー
- デーゲスク (火山、水山)
- 綱引き道 (宮城中通り)
- 宮城之殿(ナーグスクヌトゥン)
- 合祀祠
- ノロ殿内 (ドゥンチ)
- 火の神
- 大屋 仲西按司墓、根屋 仲西親雲上墓
- 麗魂之塔
- 蛍の小径、殿内井泉 (トゥヌチガー)
- 入り松尾 (イリマチュー、イビガナシ)
- 饒平名之殿 (ヨヘナヌトゥン)、饒平名井泉 (ヨヘナガー)
- 地頭火之神跡
- 饒平名 (ユヒナ) の火之神
- 宮城公民館
- 御願(ウガン) 山 (コバ森)
- シチャラガー
旧浦添間切 宮城集落 (なーぐすく)
宮城集落の人口については、明治時代は旧浦添村の字では真ん中ぐらいに位置していたが、戦後人口は増加し、本土復帰の頃から2000年にかけては、最も人口の多い字となっていた。現在は字西原に次いで人口の多い地区となっている。明治時代に比べ人口は17倍にも膨れ上がっている。
戦後、米軍基地での仕事を求め多くの人がこの宮城に移り住んできたことで、人口は急増している。2002年に人口が減っているのは、宮城6丁目を小湾集落の新部落住居として割り当てていた地域の行政区分を変えたことによるもので、人口が流出した訳ではない。近年は人口が微減傾向にある。
人口増加率を見ても戦後の増加率が非常に高いことが判る。浦添市平均の増加率よりはるかに高い。
民家の分布を時代別に見ると、沖縄戦で接収された土地は民家の場所ではなく、田畑地域で、不幸中の幸いで元々の集落は接収されずにいた。本土復帰まではキャンプ・キンザ―に近い元々の集落が拡張している。南の方にも民家があるが、これは小湾集落住民に住居地域を割与えた所。その後、字の南地区もどんどんと住宅地が開発され、現在は字全土が住宅地となている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: コバ森 (神名: ナカノ御イベ)
- 殿: 宮城之殿、饒平名之殿
宮城集落で行われていた祭祀は以下の通り、現在でも村として行われているものは太字の四つのみになっている。
この宮城集落の祭祀は、かつて村としてあった饒平名部落の饒平名ノロによって祭祀は執り行われていた。
宮城集落訪問ログ
テラブガマ、テラブガー
国道58号線の南側には鍾乳石の洞穴跡が残っている。テラブガマと呼ばれている。かつてはこの洞窟の中にはテラブガーの井泉あったのだが、現在は消滅してしまった。沖縄戦では多くに住民の避難壕として使われていたが、大雨が降り、鉄砲水が発生し、洞窟に避難していた住民が流され犠牲になっている。洞窟内には「御先龍宮 (ウサチリューグー)」と書かれた拝所が置かれ、火神 (ヒヌカン)、御井 (ウカー)、龍宮神、金萬神、ミルク神の五つの香炉が置かれている。この内、御井 (ウカー) がテラブ井泉を祀った香炉だろう。
新井泉 (ミーガー)
宮城集落には六つの村井泉 (ムラガー、共同井戸 = 新井泉、産井泉、シチャラガー、イジュンガー、饒平名井、殿内井泉) があった。国道58号線の南側、テラブガマの近くに村井泉の一つの新井泉 (ミーガー) がある。夏の旱魃でも水は枯れなかったほど水量は豊富だった。昔は細長い立派な井泉で下は池になっていたのだが、今はコンクリートで埋められている。周りは広場になっているので、洗い場や水溜場があった様に思われる。
産井泉 (ウブガー) 跡
部落の西側、テラブガマの南側には村井泉の一つであった産井泉 (ウブガー) があった場所。西ヌ井泉 (イリヌカー) とも呼ばれていた。現在は道路になり埋められ消滅してしまった。この井泉では産水 (ウブミジ) 、若水 (ワカミジ)、死水 (シニミジ) を汲んだという。
イジュンガー
新井泉 (ミーガー) から少し東に進んだところにも村井泉のイジュンガー (イーズンガー) がある。水量は豊富だったという。井戸の上にはパイプが設置されているので、今でも水はあるように思える。
デーゲスク (火山、水山)
仲西部落との境、 小湾川の上の丘陵はデーゲスクと呼ばれている。グスクとは呼ばれているが、ここが城塞や霊所ではない様だ。 その様な遺構は見つかっていない。かつては松林と畑になっており、そこに神が居るとの観念を住民は持っていたが、そこに行って拝んでいた訳ではなく、漠然とした思いだった様だ。このデーグスクは、火事を引き起す火山 (ヒーザン) との伝承があり、メイチャームイとも呼ばれていた。この火山を鎮圧すべく崖下池を造り、その池を水山 (カンニンウカー) と呼んでいた。
綱引き道 (宮城中通り)
国道58号線から宮城集落を東西に走る道が宮城中通りで、戦後、米軍が石油のパイプを敷設するため道幅が拡張されている。当時はオイル漏れもあったようで、住民はそのオイルを集めて生活に使用していたそうだが、良いことばかりではなく、井戸水や川はオイルが流れ込み使えない時期があったという。戦前まではこの中通りでは綱引きが行われていた。
宮城之殿 (ナーグスクヌトゥン)
集落の南側の小湾川への斜面上部に拝所がある。琉球国由来記にある宮城之殿と考えられている。小さな広場があり、そこに集合拝所の殿の祠や香炉が置かれ、殿の上手には、火之神、ノロ殿内、墓が置かれている。この殿は宮城集落の根屋である東門 (アガリジョー) が管理していた。
合祀祠
広場一角にある祠が宮城之殿で、それ以外の拝所も合祀されている。この集合拝所はここに祠が建てられる前には、現在の公民館広場にあったのだが、2000年 (平成12年) に公民館建て替えに伴い、この宮城之殿に移設されている。祠内には向かって左から、地頭火神、ヨヒナヌ火神 (饒平名火ヌ神)、ヨヒナヌ殿 (トゥン、饒平名之殿)、根屋ヌ火神、大屋ヌ火神、ウサチ (御先) 火神、根屋仲西親雲上 (東門)、大屋 仲西按司 (東大屋)、ウサチ世 (デーグスク) が置かれている。
祠の奥にある広場には井戸が置かれ、その後の壁側に集落に点在していた井戸を形式保存して祀っている。左から、クサイ御井 (ウカー)、竜神 (テラブヌガマ)、ミーガ御井 (ウカー)、イズン御井 (ウカー、イジュンガー)、殿内御井 (ドヌチウカー)、ウブ御井 (ウカー、産井泉)、ヨヒナ御井 (ウカー、饒平名井泉)、シチャーラ御井 (ウカー) ウタキグサイ、カンニン御井 (ウカー) ウサチグサイの井泉拝所が置かれ、続いてその他の拝所も祀られている。水山、火山、イビガナシー (入り松尾)、御願 (ウガン) 山ヌ嶽の香炉が置かれている。この内クサイ御井とカンニン井泉についての情報は見つからず。
ノロ殿内 (ドゥンチ)
広場には少し高くなった場所がある。階段を登ると三つの拝所が置かれている。向かって左端には呑殿内 (ノロドゥンチ) の拝所がある。この呑殿内 (ノロドゥンチ) の屋敷はこの宮城之殿の道向かいにあった。(写真右下) この呑殿内 (ノロドゥンチ) から、代々の饒平名ノロを輩出し、饒平名村を中心に北は親富祖、富祖屋、南は宮城村落の祭祀を司さどっていた。 元は饒平名村にいたのだが村の衰微とともに宮城へ転住した。
火の神
呑殿内の隣には火ヌ神の拝所がある。かつては、殿の傍にあったのだが、拝するのに支障があったので現在の場所へ移動したそうだ。
大屋 仲西按司墓、根屋 仲西親雲上墓
右端には二つ香炉が置かれた墓がある。大屋の仲西按司墓と根屋の仲西親雲上墓と書かれている。仲西按司はこの後に訪れた隣村の仲西集落内にあるおもろ碑で詠われていたが、これが同一人物なのかは不明だそうだ。この宮城集落と仲西集落は隣接しており、17世紀初頭には宮城村と小湾村は仲西村の一部であったともいわれているので、仲西按司一族が宮城集落も治めていたと思われる。大屋門中 (ウフヤムンチュウ) と根屋の東門門中 (アガリジョームンチュウ) 宮城村では筆頭門中にあたり、宮城中通りの村の中心部に屋敷を構えていた。この大屋と根屋で祀られていた神も先ほどの合祀祠に移されている。
麗魂之塔
広場には慰霊碑も置かれている。麗魂之塔と呼ばれている。
元々は公民館の広場にあったのだが、公民館の建て替えの際、2000年にこの地に移されている。宮城においては、当時の世帯数126世帯、家族数437人のうち、戦死者228人、戦死率52%と実に半数以上の方が犠牲になっている。一家全滅も集落世帯の32%にも及んでいる。この宮城集落では住民の集団自決という悲劇があった。この集団自決は沖縄の多くの村で起きており、日本軍が住民に集団自決を強要したともいわれているが、これには賛否両論がある。個人的にはどちらも正しいと思える。沖縄戦終盤では、日本軍は既に本部は解散し、日本軍の指令系統は既に消滅していたので、この時期に軍上層部から住民の集団自決を支持することは考えにくい。ただ、軍内部では当初から投降は国家の恥とし兵隊の自決は当然という風潮はあっただろう。各地にいた兵隊にはそれは住民も同じと考えていた可能性は高い。陸軍病院に収容されていた負傷兵は、撤退時は青酸カリで処分されている。捕虜になるよりは死を選ぶのは当然と軍部では考えていただろう。また、避難壕にいた住民に自決用の手榴弾も配られていた。住民も米兵の残虐さを洗脳されていた。この様な、異常な状況で、誰かが自決を主張した場合、これに真っ向から反対は非国民扱いとされていた。ただ、生存者の証言では、このような状況下でも住民に生きることを説得した日本兵もいたという。この様なことからも公式の命令の形で住民に対して集団自決をさせることはなかったと思うが、軍内部の思想教育が、この行為に対してマヒ状態になっていったと思う。本来であれば、軍部の教育の中で住民の安全をどう確保するかが確立されるべきだが、当時の軍部にはそのような意識はなかった。更に、沖縄の住民を日本人と差別する風潮もあったというので、沖縄住民軽視はなおさらだったのではないだろうか?実に痛ましい悲劇だ。慰霊碑を見る度に、当時の犠牲者がどのような苦しみだったか、残された家族はこの慰霊碑を見る度どのような思いでいるのかと考えさせられる。
蛍の小径、殿内井泉 (トゥヌチガー)
仲西小学校西側の住宅地の中に細い路地があった。蛍の小径と呼んでいる。梅雨の前後には蛍が見られるそうだ。ここを訪れた時にはこの道の草の手入れをしていた。草をあまり刈り込んでしまうと蛍には適さないそうだ。確かに、道を通れるぐらいに草をあまり刈り込まない様になっている。道の途中に、村井泉の一つの殿内井泉 (トゥヌチガー) がある。水量は少ない井戸だったのだが、今でも水は出ている。香炉は宮城之殿の集合拝所に移されている。
この井戸では集落の主婦が集まり、紅芋やタピオカをすり潰して沖縄伝統のウムクジを作っていたそうだ。ウムクジはさつま揚げに近いものでスーパーでも売られている。
入り松尾 (イリマチュー、イビガナシ)
仲西小学校敷地の西隣りに松林の小高い丘があった。 その場所が入り松尾 (イリマチュー)、丘上は眺望よく遥かな海も展望された。イビガナシが祀られて、厄払い虫払い 行事が行なわれていた。 ニライカナイの 神が祀られていたという。この拝所は宮城之殿の集合拝所に移されている。
饒平名之殿 (ヨヘナヌトゥン)、饒平名井泉 (ヨヘナガー)
仲西小学校の東側には琉球国由来記にある饒平名之殿 (ヨヘナヌトゥン) があったそうだ。仲西小学校正門付近で敷地の東隅に祠が残っていると資料には載っていたが見当たらず、小さな公園になっていた。この殿の一帯は、松、ソテツ マーニ が原野をなしていたとのことであり、殿の東近くにヨヘナ原がある。昔はこの辺りには饒平名部落が存在しており、後に宮城部落と合併している。宮城集落の祭祀を司っていたのは饒平名ノロだった。また、この付近には村井泉の一つの饒平名井 (ヨヘナガー) があったそうだが、それらしき跡はなかった。
地頭火之神跡
仲西小学校の前には地頭火之神が祀られていたようだ。場所ははっきりとは分からないが、民族地図ではこの辺りになる。この拝所は宮城之殿の集合拝所に移されている。
饒平名 (ユヒナ) の火之神
地頭火之神の拝所の近くに饒平名 (ユヒナ) の火之神の拝所があったようだ。児童センターの入り口あたりか?この拝所も宮城之殿の集合拝所に移されている。
宮城公民館
集落の聖域だった御願山 (ウガンヤマ) の上に宮城公民館がある。戦前の地図ではここはサーターヤーがあった様だ。かつての村屋は宮城大通り沿いにあった。1966年 (昭和40年) にこの地に移されて鉄筋コンクリートで宮城自治会館として建設された。公民館の下方には広場があるが、ここには、1973年 (昭和48年) に集落に点在していた約14の拝所 (殿とノロ殿内を除く) と大屋 (ウフヤ) と東門 (アガリジョー) 根屋 (ニーヤ) を合祀した御願所 (ウガンジュ) を建てた。自治会館は2000年 (平成12年) に宮城公民館として建て替えられて、現在に至っている。
この建て替えの際に、御願所と麗魂之塔を宮城之殿の場所に移設している。当時の写真が残っている。写真左は御願山 (ウガンヤマ) を南から見た遠景、写真右が以前の麗魂之塔。浦添市の集落では集合拝所が多くある。今まで幾つかの集落で、この集合拝所があり、地元の人と話す機会もあった。地元の人でも、拝所を移すことに抵抗を感じる人は多くいる。この集合拝所に至る経緯は村によって様々なことが判ってきた。村の土地をもっと生活している住民の為に活用すべきだ。拝所は神が降りてくる目印で、そこにいるわけではない。行政が強制的に土地改良計画を決定してしまい移設せざるを得ない。土地を売却したため、そこにあった拝所が無くなる恐れがあり移設した。ここ浦添市は戦争と大きく関わっている。小湾集落は村全体が米軍基地に接収され、立ち入ることさえできず、今は跡形もなく、拝み続けるには移すしかない。この宮城では、米軍上陸で村への侵攻により拝所が破壊されることを恐れ、住民が各拝所の霊石をリヤカーに積んで、落として壊さないようにかつての小湾集落のお宮に移したという経緯がある。戦後、小湾のお宮から公民館の広場に戻して、集めて拝んでいた。このように様々な事情で集合拝所が造られている。決して、各拝所を巡る手間を省くためとか、ないがしろにしているわけではない。ただ、村の文化や伝承を構成に残すためには、できるだけ元の場所に、当時の形で保存できたほうが良いのだが、それも経費や管理で課題はある。この課題に対して支援をしている行政もあるが、多くは集落任せになっている。集落内でも、元々住んでいる部落住民は少数派で、他地域から移ってきた人たちにとってはそれ程関心がない。難しい問題だ。やはり行政の支援が必要なのだろう。
御願(ウガン) 山 (コバ森)
宮城公民館及び広場、ひまわり公園一帯は、 御願(ウガン) 山と呼ばれ、樹木が繁茂し聖域だった。琉球国由来記にあるコバ森 (神名: ナカノ御イベ) と考えられている。現在は拝所はなく、宮城之殿に合祀されている。ひまわり公園の一画に樹齢100年以上のウスクの巨木 (写真下) が、戦火を免れ、残っている。浦添市指定文化財になっている。
シチャラガー
今日は勢理客と宮城の二つの集落を巡り、少々疲れ気味。この数週間は雨が多く、その晴れ間を見つけて集落巡りをしている。今日の行き帰りの走行中や公園での休憩時にかけていたアルバムは、お気に入りのグループの一つのFor80EastというElectro Jazz Bandのもの。Nu Jazzのカテゴリーとかいわれており、独特の曲が多い。First Albumと一昨年発表されたアルバム。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
- 字誌 なーぐすく (2012 なーぐすく字誌編集委員会)