【日本橋①041】南茅場町
町番号:日本橋①041
町名:南茅場町
読み方:みなみかやばちょう Minami-Kayabachō
区分:町丁
起立:天正年間(1573~1591年)
廃止:1933(昭和8)年
冠称:なし
現町名:中央区日本橋茅場町一・二丁目
概要:天正年間(1573~1591年)の造成。町名は、江戸城構築の際に神田橋等の茅商人が移転してきたので名付けられたと伝える。それ以前は「鎧島」といった。江戸期には現行の日本橋茅場町一丁目の日本橋川に面する一画のみであった。町南側の山王旅所は1625(寛永2)年に創建され、境内に源信作の薬師如来を安置する薬師堂、天満宮等があった。毎月8・12日の縁日には植木市が立ち、大いに賑ったという。表門前には寄合茶屋があり、茅場町傘を作る傘屋が多かった(続砂子)。元禄年間(1688~1703年)頃、薬師堂近くに蕉門の俳人其角が住んでいた(江戸名所)。南茅場町の裏通りは「裏茅場町」、「千川屋敷」と呼ばれた(備考)。文久2年板の『八丁堀細見図』によると、現在の茅場橋際に「大番屋」と見える。町の東の亀島川には霊岸橋が架けられ、日本橋川には小網町への鎧の渡しがあった。『江戸町名里俗名集覧』には「△鎧のわたしの所△新道を里俗「裏かやば町」と云」とある。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、町奉行組屋敷、日枝旅所門前(「山王御旅所門前」を改称)を合併。1872(明治5)年の戸数330・人口1,478(府志料)。1873(明治6)年には北島町の一部を合併。
1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、茅場町一・二丁目に編入となり消滅。現行の日本橋茅場町一・二丁目のうち。
※『角川日本地名大辞典』には「京橋区に所属」とあるが誤り。
撮影場所:南茅場町