【日本橋①056】小網町
町番号:日本橋056
町名:小網町 一~四丁目
読み方:こあみちょう Koamichō
区分:町丁
起立:1590(天正18)年?
廃止:寛永年間(1624~1645年)?
復活:正保年間(1645~1648)年?
廃止:存続
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」
現町名:日本橋小網町
概要:日本橋川東側にあり、東堀留川(現行の日本橋小網町内を流れていた)に架かる思案橋北側に一丁目、南側に二・三丁目が、箱崎川まで細長く続いていた。古くは「入江ヶ岡」と称され、1590(天正18)年の家康入国後には「小網稲荷」の名から(府志料)、活きの良い魚介類が水揚げされたから、網干し場があったからという様々な説から「小網町」の名が付いたという。しかし、寛永年間(1624~1645年)には「番匠町」と称したという話もある。もしそうであれば、「小網町」という町名は正保年間(1645~1648)年に復唱したことになる。
町西側は河岸地であったため、石橋屋久兵衛や乙女屋文吉をはじめとする船積問屋が多く、他にも水油仲買問屋や醤油酢問屋があった(買物独案内)。一丁目の河岸地は「末広河岸」、二丁目は「鎧河岸」、三丁目の箱崎川の河岸地は1632(寛永9)年以降、下総本行徳村が幕府の許可を得て、小荷物や旅客の荷揚場として利用したので「行徳河岸」と呼ばれた。二丁目の思案橋際は貝杓子屋があったので、「貝杓子店(かいじゃくしだな)」と俗に呼ばれ、三丁目東側の日本橋川の入堀は「稲荷堀(とうかんぼり)」或いは「十日堀(とうかぼり)」と呼ばれていた。また、二丁目には源義家の伝承の残る八丁堀へ渡る鎧の渡しがあった。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、陸奥平藩安藤氏下屋敷等の武家地に四丁目を起立。1872(明治5)年の戸数365・人口1,373(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。明治期は恵まれた水運を利用して運送業を営む者が多かった。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、小網町一~三丁目に再編成。同年、蛎殻町一丁目、堀江町四丁目、新葭町の一部を編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。
1976(昭和51)年、住居表示の実施により、二丁目の一部が現行の日本橋人形町一丁目に編入。残部は現行の日本橋小網町となる。
撮影場所:小網町四丁目