【日本橋①086】薬研堀町
町番号:日本橋①086
町名:薬研堀町
読み方:やげんぼりちょう Yagemborichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1971(昭和46)年3月31日
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」
現町名:中央区東日本橋一・二丁目
概要:正保年間(1645~1648年)に「矢ノ倉」と称する米蔵が置かれ、薬研堀は矢ノ倉に至るV字型の入堀として開削された。「薬研」とは薬種を細かく砕く器具のことで、堀の形がV字形に窪んで薬研の形に似ていたためとも、また医者が多く居住していたための町名ともいわれる。
1698(元禄11)年、米蔵が火災を契機に築地に移転すると、1771(明和8)年に薬研堀は大半が埋め立てられ、10m程の直線部が残されるのみとなった。埋め立てた部分には町屋が起立し、「薬研堀埋立地」と称された(武江年表)。医者が集住したため「医者町」と通称されたという。七味唐辛子の発祥地としても有名である。また、町内には金刀比羅神宮・不動堂があった。
1872(明治5)年、薬研堀埋立地と旗本村越豊之助等の隣接の武家地を併せて薬研堀町が起立(画報)。同年の戸数160・人口696(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。1903(明治36)年には薬研堀は完全に埋め立てられ、堀としては消滅したが、地名としては残った。小売商の店が多く、殊に当町の七味唐辛子は江戸名産1つであった。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、殆ど全てを両国に編入。町域は地図に載らないほどの極狭となった。1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。
残余は1971(昭和46)年4月1日、住居表示の実施により周辺の町を併せて東日本橋二丁目に編入となり消滅。現行の東日本橋一・二丁目。堀の面影は全くなく、薬研堀不動院や商店会等に名を残すのみ。
撮影場所:薬研堀町