【日本橋①087】米沢町
町番号:日本橋①087
町名:米沢町 一~三丁目
読み方:よねざわちょう Yonezawachō
区分:町丁
起立:1698(元禄11)年
廃止:1971(昭和46)年3月31日
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」
現町名:中央区東日本橋一・二丁目
概要:切絵図によると、両国橋際両国広小路に隣接し、南は薬研堀に面していた。江戸期には北から一~三丁目(現行の東日本橋一・二丁目)があった。正保年間(1645~1648年)頃、この地に米蔵が置かれて「矢之倉」と称したが、1698(元禄11)年に焼失し、築地に移転。跡地は武家屋敷・町屋となった。町名は「米蔵の跡地」の意。
一丁目は正保年間以前は寺町であったが、元禄期(1688~1704年)の米蔵移転後、1699(元禄12)年に町屋となった。二・三丁目は宝永年間(1704~1710年)に町屋となり、町北は「両国西広小路」と呼ばれた。薬研堀の入口の元柳橋に由来する「元柳橋」の俗称があり、隅田川に沿った通りを「元柳河岸」といった。一丁目には薬種商が多く、享保年間(1716~1735年)の有名店として反魂丹の渡辺吉英、稀丸の松本屋彦四郎、ういろうの大和屋市兵衛、芭蕉膏の長崎芭蕉が挙げられる(続砂子)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数329・人口1,519(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一・二丁目の全部と三丁目の一部は両国に編入。三丁目の一部のみが米沢町三丁目として存続。1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。
1971(昭和46)年4月1日、住居表示の実施により、現行の東日本橋一丁目に編入となり消滅。現行の東日本橋一・二丁目。
撮影場所:米沢町三丁目