【京橋①058】明石町
町番号:京橋①058
町名:明石町
読み方:あかしちょう Akashichō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1868(明治元)年
復活:1873(明治6)年
廃止:存続
冠称:なし
現町名:中央区明石町
概要:町名は播磨明石の漁師が移住したためとも、佃島を淡路島に見たて、明石の浦に似た風景であったためともいわれる(案内)。江戸期には明石橋東詰の小さな区域であり、周辺には幕府御用医師半井卜養の拝領屋敷(江戸名所)、豊前中津藩奥平氏中屋敷等があり、一時播磨赤穂藩浅野氏の上屋敷があった。奥平氏中屋敷は前野良沢らにより『解体新書』が翻訳され、また福沢諭吉により蘭学塾が開かれたところで、蘭学発祥の地。
1868(明治元)年、築地外国人居留地となって町名は一時抹消された。1869(明治2)年、居留地内の運上所(現在の明石町14番地)と横浜裁判所との間で初めて電信が交わされ、また教会やミッションスクール等が開設された。1873(明治6)年、旧・明石町、十軒町、船松町二丁目の区域を改めて「明石町」とする。
1878(明治11)年11月2日、東京府京橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市京橋区に所属。1899(明治32)年、外国人居留地の廃止に伴い、入船町七・八丁目、新栄町六・七丁目、新湊町六・七丁目を編入。1900(明治33)年、宣教師により聖路加国際病院が創立されるなど、後々まで旧居留地の異国情緒が残り、その情景は鏑木清方『築地明石町』に描かれている。
1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、入船町六丁目の一部を編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都京橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。
1966(昭和41)年7月1日、住居表示の実施により、入船町三丁目の一部を編入、現在に至る。
撮影場所:明石町